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第二章 (8)

 ハルムーニの街は、五つの区域に分かれている。

 中央区と、東西南北の各区だ。

 それぞれの区は内壁で仕切られており、アーチ形の通路でつながっている。

 シャーロとリーザは“黒馬車”で中央区から北区に入り、そこから時計回りに各区を観光して、最後に“玉ねぎ娘”がある西区へ向かう計画を立てた。

 とはいえ、観光の名所は中央区に集中しているので、目新しいものはそれほどない。

 北区でシャーロが訪れたのは、いくつかの工芸品の店と、路地を曲がったところにぽっかりと出現した空間――そこにひっそりとたたずむ空き家だった。

 立派な石壁に囲まれているが、隙間から雑草が生えている。錆びついた格子状の門扉は鎖で繋がれており、中を覗き見ることしかできない。

 ひとが住まなくなってから、ずいぶん時が経っているようだ。

 敷地内には褐色のレンガ造りの建物がふたつ。ひとつは倉庫のようで、大きな両開きの扉がついていた。

 路地裏にしては開けた場所にあり、妙に日当たりがよい。


「……ここは?」

「偶然、見つけたんだ」


 黒髪の少年は多くを語らず、思慮深い眼差しを敷地内に向けている。

 ここが今、兄の考えている現実の先。夢との境界線なのだとリーザは悟った。

 何事においても用意周到な兄のことだ。この空き家の間取りや売値なども調べているのだろう。おそらく、学校との位置関係さえも……。

 四年間で少しずつ蓄えたお金。今後の“森林屋”の展望。そして家族の将来。様々な要素を組み合わせた上で、まだ手の届かない次の段階。

 それを今、リーザはの当たりにしている。


「さ、次にいこうか」

「――あ」


 空き家に背を向けて歩き出す兄を追いかけて、再び手をつなぐ。

 シャーロの横顔は揺るぎがない。真っ直ぐ前だけを見据えている。隣から見上げているだけで、リーザは胸が苦しくなるのを感じた。

 この街に来てから、自分は少しおかしい。

 わがままを言ってはいけない。身勝手なことをしてはいけない。それがユニエの森の教会の、自分たち家族の鉄則だったはず。

 それなのに、わがままな気持ちを抑えられない。

 身勝手な行動を、止めることができない。

 エルミナやメグがいないから?

 心のたがが、外れてしまっている?

 戸惑うリーザをよそに、最後の一日は慌ただしく過ぎていく。

 二人は停留所で“白馬車”に乗り込み、東区へと向かった。

 この馬車は四頭立て十一人乗りの大型馬車で、行政が運営している。東西南北の各区をつなぐ環状道路をぐるぐる回っており、停留所にしか停まらない。小回りはきかないが、乗車料金は安く、利用者も多い。車体が白く塗られているのが特徴だ。

 それに対して、個人で利用するものは“黒馬車”と呼ばれている。名前の通り、車体は黒く塗られている。こちらは二人から四人乗りの小型の馬車で、街中で呼び止めて目的地を告げるのだが、当然のことながら“白馬車”よりも運賃は高い。

 東区では高級住宅街が軒を連ねる“けやき坂”を歩いた。シャーロによると、景観がよく散歩道としても有名とのこと。街警隊も特に目を光らせているので、高所得者たちが安心して暮らせるらしい。

 商店街らしい区画に出ると、高級品を扱う立派な店が目立つ。宝石やドレスを扱っている店などは、ガラス越しに眺めているだけで感嘆のため息が出そうになる。特に刺繍やレース模様の美しさには目を奪われた。

 もちろん、通常の雑貨店なども質がよい。生活に必要なものを仕入れていく中で、シャーロは一冊の本をリーザために購入した。

 その中身は、白紙。


「……日記、ですか?」

「うん。さっき北区でペンとインクも買ったからね。せっかく新しい生活を始めるんだから、やってみる価値はあると思う」


 厚手の革表紙で、しっかりとした作りになっていた。


「難しいことを書く必要はないんだ。今日の天気とか、一日の自分の行動とか、感じたこととか、散文的に書き記すだけでもいい。書いているうちに、頭の中の整理ができたり、思わぬ発見があったりするらしいよ。これは、モズ神父の受け売りだけどね」


 それから再び“白馬車”に乗って、南区へと向う。

 今日は自由市場の最終日である。他の区と比べても、やはりひとの多さは段違いだった。

 ここでは、おもに保存のきく食料品や調味料などを購入していく。知己のある店もあり、また最終日ということもあって、交渉でかなり価格を下げることができた。ペット屋で奇妙な犬も買い、スタンド型の飲食店でメグのパティエも包んでもらった。


「これはこれは“森緑”さん、お会いできてよかった!」


 “魚味屋”に立ち寄ると、パキの父親が豪快な笑顔で迎えてくれた。


「愚息から聞きましてな。なんやえらい上客さん紹介してもろたゆうて。あないなけったいな商品が、三割引きで売れたなら、そらもう万々歳ですわ。いや、ほんまに助かりました」


 少し声量を落として、片手を口元に添える。


「ここだけの話、地元で大恥かくところでしたわ」


 そして、「がっはっは!」と大笑いした。

 シャーロはちらりと店内に視線を移すと、頬杖をつきながらふてくされているパキの様子を確認して、何かを察したかのように微笑を浮かべた。


「いえ。うまく売れたのは、“魚味”さんの商品の質がよかったからです。俺は仲介しただけですよ」


 シャーロは“魚味屋”の店頭に並べられた商品についても褒め称え、家族のお土産にと魚の干物などを購入しようとした。


「いやいや、勘弁してください。“森緑”さんからお金は受け取れませんわ。ご家族の分でしたら、好きなだけもっていきなはれ」

「――なっ」


 がくんと頬杖を崩すパキ。


「お、おとん、そいつはな!」


 立ち上がって肩をいからせたが、結局何も言うことはできず、ぱくぱくと口を動かすのみ。

 涼しい顔で海の幸を選んでから、シャーロは“魚味屋”の主人に礼を言った。


「……パキさん、怒ってませんでした?」

「気のせいだろう。それに、きちんと事情を説明していないあいつがわるい」

「……?」


 その後、リーザが宿でいっしょになった行商人の母子にも、お別れの挨拶をすることができた。

 旅の話をしてくれた母親はとても喜んでくれたが、すっかり懐かれていた女の子は泣いてしまった。優しく抱きしめて、「またいつか、自由市場ここで会いましょう」と約束する。ユニエの森で別れたエルミナとメグの姿と重なって、リーザも目頭を熱くした。

 いつの間にか、太陽は大きく傾いていた。

 西の空は茜色に染まりかけている。日が沈んでからしばらくすると、“閉門の鐘”が鳴るだろう。


「市場税の支払いは昨日済ませたからね。今日はゆっくり休んで、明日の朝にハルムーニを出発するよ」


 今日仕入れたものを荷車に積み込みながら、シャーロは言った。


「西区は案内できなかったけれど、これからリーザ住むところだから、少しずつ開拓していくといい」

「……」


 “玉ねぎ娘”の店長であるミサキには、“閉門の鐘”が鳴る前には店に行くと伝えてある。

 つまり、ここで“黒馬車”を拾って、お別れをしなくてはならない。

 無言のまま俯いているリーザに、シャーロはいくつか言葉を投げかけたが、反応が芳しくないことを知ると、意外な提案をしてきた。


「最後に、ユニエの森を見に行こうか」

「え?」


 シャーロはリーザの手をとると「走るよ」と、駆け出していく。


「シャ、シャーロ兄さん!」

「すぐそこだから」


 シャーロが向かった先は、南門のすぐ近く。外壁に取り付けられた頑強そうな鉄の扉だった。その前にはスタンド形の小さな店があって、中年の女性が眠りこけていた。

 シャーロは女性を起こして、二人分の入場料金を支払った。


「日が暮れたら店じまいだよ。さっさと降りてきておくれ」


 不機嫌そうな声を背に、鉄の扉を開ける。内部は螺旋階段になっていて、頭上からわずかな明かりが漏れていた。

 息を切らしながら一番上まで登ると……。


「――わっ、きれい……」


 そこは、黄金色の空に包まれた、外壁の頂上。


「風が強いから、気をつけて」


 胸の高さまである分厚い淵壁があるので、外壁の下を覗くことは難しかったが、遥か遠くを見渡すことができた。開けた平地の先に、なだらかな稜線が幾重にも積み重なっている。


「外壁から眺める夕日は、この街の観光名所になっているんだ。西区の壁が一番人気だけど、俺はここが好きだな。いつも空いているし、ほら、あそこ――」


 シャーロが指差したあたりには、細長い道が伸びており、その先に小さな建物群と、黒っぽい木々の塊がぼんやりと見えた。


「あれが、ユニエの、森……」

「そう。みんな、夕食の支度をしているころかな」


 風の音と、鼓動の音。

 シャーロはリーザを見つめて、彼女の一番大好きな、ちょっと困ったような笑顔を浮かべた。


「リーザはひとりじゃないよ。ここから見えるくらいのところには、俺が――家族みんながついているんだから」

「……っ」


 やや俯き加減になって、リーザは口元を押さえた。熱い涙が零れ落ちそうになるのを、必死に堪える。

 シャーロはリーザの頭を撫でて、少し迷う素振りをみせたものの、ほっそりとした身体をしっかり抱きしめた。


「次の自由市場のときには、みんなで会いにくるから」

「……うん」


 リーザは心に決めた。

 自分の想いを、今、伝えよう。


「シャーロ兄さん、わたし――」


 顔を上げると、すぐ目の前にシャーロの顔があった。

 西日に照らされた頬は黄金色に縁取られ、黒い瞳は茶色がかって見えた。

 普段かたく結ばれていることが多い唇は、やや開いている。

 リーザがその行為を予想した瞬間、全身の血が沸騰したような気がした。

 心臓の鼓動が跳ね上がる。

 頬や耳がかっと熱を持つ。

 風の音が、遠くなる――

 頭の中が真っ白になって、それでも大切な言葉を紡ぎたくて、リーザは自分の望んだ未来像を、いくつもの段階をすっとばして、口にしていた。


「わたしと、結婚してください」

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