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第二章 (7)

 ――手をつないでも、いいですか?


 思いきってお願いすると、案外応えてくれる兄である。

 最後の一日だけは、妹として甘えさせてもらおうと、リーザは心に決めていた。

 右手をつないで、思いきり肩を寄せる。「歩きにくいよ」と兄は文句を言ったが、わがままを許してもらった。

 シャーロと出合ったのは、今から六年前。リーザが九歳のときだ。

 戦争で両親を失ったリーザは、しばらくの間、住む場所をたらい回しにされていた。当時は同じような境遇の子どもたちが溢れ返っており、絶対的に施設の数が足りなかったのだろう。最後にたどり着いたのが、ユニエの森の教会だった。

 ほぼ同時期に、シャーロ、リーザ、ダン、マルコの四人が顔を合わせた。

 互いにつらい経験をし、心に傷を負った子どもたちである。安心感よりも警戒心のほうが強かったはずだが、その中でただひとり、シャーロだけはもの静かな雰囲気を漂わせていたように思う。

 そのころは養育者であるモズ神父も健在で、必要最低限の生活だけは保障されていた。

 自分のことは自分でする。家の仕事は全員でする。それは家族というより、老神父を中心とした共同生活に近い関係だったかもしれない。

 その一年後にエルミナが、さらに半年後にメグが加わった。

 当時、エルミナは四歳、メグにいたっては一歳半だ。

 森の教会は急に賑やかになり、そのころから家族らしい連帯感が生まれてきたように思える。

 必然的にリーザがメグの世話役となり、エルミナの面倒はおもにシャーロがみることになった。

 今でこそ反抗心らしきものを見せるエルミナだが、当時はシャーロにべったりで、片時もそばを離れようとしなかった。ことあるごとに「シャロにぃのお嫁さんになる!」と宣言し、満面の笑顔を浮かべていたものだが……現在は本人の強い要望により、この話を蒸し返すことは禁忌となっている。

 自分が兄のことを意識し始めたのは、いつの時点だろうか。

 老神父が病に倒れて、家長としての威厳や言動を見せ始めてから?

 教会にあった神話や歴史の本を、ひとり窓際で読みふけっている姿を見かけてから?

 かいがいしくエルミナの世話をして、文字や計算を教えている姿を見てから?

 それとも、一番最初の出会いのときに、こちらを安心させるような笑顔で挨拶をされたときから?

 突発的に想いが膨らんだわけではないことは確かだ。

 知らず知らずのうちに、いつの間にかそうなっていたという他ないだろう。

 ただ、あの日の夜。ユニエの森の教会を出て、ハルムーニで生活するように言われたあの瞬間から、リーザはシャーロと自分との関係について、真剣に考えるようになった。

 当たり前だと思っていたことが、そうでなくなったとき。ひとは初めて自分と向き合い、歩み出すことができるのかもしれない。

 リーザはひとの命の儚さを知っている。

 幸せが一瞬で消し飛んでしまう、現実の理不尽さを経験している。

 だからこそ、彼女は心に決めていた。

 何も言わずに後悔することだけは、絶対にしたくない。

 今日、お別れをするときが来たら――大切な“想い”をしっかり伝えようと。




「こちらが“住民証明券”になります。ご確認ください」


 身だしなみの整った市庁舎の職員に渡されたのは、市章の焼印が押された長方形の羊皮紙だった。

 リーザの名前、生年月日、住所、そして髪や瞳の色といった特徴が記されている。

 ハルムーニの街では、この身分証がないと、公共機関によっては利用できないものもあり、何かと不便になるのだ。

 午前中は中央区にて、リーザの生活に必要な手続きを行った。

 市庁舎で住民登録をしたあと、両替所で預金口座を作る。この施設では文字通り両替もできるが、硬貨の貸付や真偽の鑑定、預金や払い戻し、他の街で現金化することができる“信用状”なども発行されている。

 最初は何かと入り用になるからと、シャーロはリーザの預金口座にかなりの金額を入金した。

 自分も働いてお金を稼ぐのだから、そこまでしてもらうわけにはいかない。慌てたようにリーザは断ったが、シャーロは取り合わなかった。ちょっとした“臨時収入”があったから、心配しなくてもいいと言う。


「預金があったほうが精神的にも楽になるからね。あくまでも保険だよ」


 次に向かったのは、郵便集配所である。手紙や荷物を送付するための施設で、各区に一箇所ずつある。家族との連絡のため、リーザも頻繁に利用することになるだろう。

 ついでということで、シャーロは切手を購入し、手紙を一通出した。

 あて先は、亡くなったモズ神父の知り合いらしい。


「一度も会ったことはないけれど、教会に残された俺たちのことを、心配してくれていてね。年に何回か、近況を報告しているんだ」


 ユニエの森の教会は、モズ神父の死後、その役割を孤児院に限定されることになった。維持管理についてはチムニ村に移管されたらしいが、詳しいことをリーザは知らない。

 市庁舎周辺には、他にも領主館、大聖堂、図書館、劇場などの施設が密集している。すべてを見学している時間はないので、今回は外観を眺めるだけに留めたが、レンガ造りの重厚な建物郡は、リーザを圧倒させるほどの存在感だった。


「午後からは、馬車を使って他の区を回ろうか」


 チムニ村で手に入りづらい日用品などは、ここでまとめ買いをしなくてはならない。


「そういえば、エルミナのいっていた犬はどうするんですか?」

「自由市場でペットを扱っている店があったはずだよ。なるべく鼻の効きそうな、安いやつを選ぼう」

「本当に、キノコ探しをさせるんですね」


 さも当然といった様子で、シャーロは頷く。


「いくらペットとはいえ、食費がかかるからね。自分の食いぶちくらいは稼いでもらわないと」


 いかにも兄らしい考え方に、リーザはくすりと笑ってしまう。

 昼食は環状通り沿いにある軽食屋でとることにした。

 リーザにしてみれば、外食すること自体珍しい行為である。どのような料理があるのか興味津々だったが、メニューに載っていたサラダの値段を見て、思わず声を上げそうになった。

 食べやすい大きさに切ってドレッシングをかけるだけなのに、チムニ村の八百屋で買う値段の、おそらく十倍以上。何故こんなに高いのか不思議がっていると、今度はシャーロに苦笑されてしまう。


「この街では、新鮮な野菜は高級品なんだよ。もし俺たちがユニエの森じゃなくて、ハルムーニの近くに住んでいて、自由に使える土地があったなら、家族全員で野菜作りをしていただろうね。なにも考えなくても儲かりそうだ」


 二人きりになると、家族の話題になることが多い。特にメグの育児や教育については、手探り状態だったこともあり、みなが寝静まった夜に“騎士遊戯”をしながらよく話し合ったものだ。


「本当は、メグと……できればエルにも、学校に通わせたいんだけど」

「学校、ですか?」


 チムニ村の人口は三百ほどなので、子どもの数も少ない。学校などという立派な施設はなく、文字や計算などの基礎教育は、各自の家で教えたり、知識のあるひとに頼んだり、あるいは行われなかったりと様々である。

 幸いなことに、シャーロたち年長組四人は、モズ神父から基礎教育を受ける機会に恵まれた。エルミナやメグにはリーザが教えてきたが、日常生活を送るには十分でも、それ以上を望むことは難しい。


「たとえば、この街の役人になろうとした場合、基礎教育だけでなく高等教育を修学する必要がある。それには、学校に入らないとね」

「エルやメグを、お役人にしたいんですか?」


 先ほど窓口で丁寧に応対してくれた市庁舎の職員を思い出す。


「他にやりたいことがなくて、素養があるのなら、役人になるのが一番だと思う。なにしろ生活が安定するからね。まあ、競争率はおそろしく高いけれど」


 市庁舎のカウンターの中に妹二人が座っている姿を想像してみる。

 きちんとお仕事が務まるだろうか。


「リーザはどう思う? エルやメグはなにが向いてそうかな?」

「そうですね」


 二人の妹と接する機会が一番多いのは、リーザだ。それぞれの性格も、意外な一面もよく分かっていた。


「エルは元気で活発だから、身体を使う仕事が向いているかもしれません。編み物をしたりとか、細かい作業は好きじゃないみたい」

「忍耐力がないだけだろう」


 リーザは首を振って妹を弁護した。


「でも、好きなことはものすごく集中して、ずっと続けられるんですよ」

「たとえば?」


 リーザは頬に指を当てて、エルミナが特に情熱を燃やす行動を思い返す。

 木登り、小石を使った水切り、薪拾い、山菜摘み……。


「あとは、毎日棒を振っています」

「振ってるね、確かに」

「森で熊に出会ったときに、メグを守るためだって言ってました」

「うちの森に、熊はいないよ」


 シャーロはため息をつき、「心意気はいい思うけれど」と、頭をかいた。


「まあいいか。エルは決断力と行動力だけはあるから、そのうち自分から言い出してくるかもしれない。とりあえずは保留だな」


 続いてメグの話に移る。

 とはいえ、まだ五歳になったばかりの幼児だから、成長とともにその気質も大きく変わってくるだろう。あくまでも参考程度の会話だ。


「メグは、お花を育てたり、動物の世話をするのが大好きですね」

「そういえば、芽が出たばかりの植木鉢を、ずっと見てたりするなぁ」

「あれは、お水をやりたいんです。でも、あんまりいっぱいやると枯れてしまうから、土が乾くまで待ってるんですよ」

「……ずいぶん気の長い話だ」


 メグは小さくてかわいいものが大好きである。

 家の家畜であるヤギがまだ子ヤギだったころには、暇さえあったら撫でたがったし、鶏の雛がかえると、小屋の外からやはりじっと見つめていた。本当は世話をしたくてしかたがないのだが、我慢しているのだ。


「花屋とかが、向いてるのかな?」


 気の早すぎるシャーロの問いに、リーザはどうだろうかと考える。

 花を売るために育てるのと、単純に花を育てることが好きなのとでは、似ているようでいて、少し違うような気もする。

 それよりも……。


「きっとメグは、すてきなお母さんになれると思うわ」


 この発言は、シャーロの意表を突いたようだ。

 仕事をして生活することに気を取られ、ごく当たり前の、ありふれた選択肢を考慮していなかったようである。


「こいつは、迂闊うかつだった」


 食後のお茶を飲んでから、シャーロは「う~ん」と唸った。


「だとしたら、それこそ学校に入れたいかもしれない」

「同年代の子どもたちと友だちになれるから、ですか?」

「うん。それに、チムニ村にはろくな男がいない」

「――まあ」


 ハルムーニの街に生活の拠点を作り、そこからエルミナとメグを学校に通わせることができるなら、リーザのように住み慣れた家を出て、働かせる必要もないだろう。そして無事に学校を卒業できれば、職業の選択肢が広がる。

 他人ひとと出会う機会を作ること。

 そして、生活の糧を得ること。

 将来待ち受けるであろう問題が、同時に解決するかもしれないとシャーロは言った。


「たとえば、俺がユニエの森で商品を準備する。マルコがハルムーニに持ち運んで商売をする。ダンはチムニ村で鍛冶屋の技術を身につける。そして、リーザとエルとメグがハルムーニで暮らす。この街に“森緑屋”の店舗があったなら、そういう生活形態も選べると思うんだ」


 兄はただの夢を語っているわけではない。そのことを、リーザはよく分かっていた。とても実現不可能と思えるようなことを、これまでシャーロはいくつも乗り越えてきたのである。


「ところで、リーザはどうだい?」

「え?」

「今まで聞いたことはなかったけれど、リーザにもやりたいことがあるんじゃないかな?」


 ふいに話を振られて、リーザは戸惑う。


「モズ神父が亡くなってから、四年。君は家事や妹たちの世話につきっきりだったからね。初めて自分の時間が持てると思う」


 あらためてそう言われると困ってしまう。

 ただ、六人の兄弟姉妹がそろってからの生活が、これまで生きてきた十五年間の中で一番幸せだったと、リーザは思えるようになっていた。

 わたしは、子どもが好き。

 掃除や洗濯が好き。

 料理を作って、大切なひとに食べてもらうことが好き。

 家族のために頑張ってくれるひとを、全力で支えたい。

 それは女性として、妻や母として、家庭に入りたいということではないのだろうか。

 たとえば、目の前にいる――


「うん?」


 まともにシャーロと目が合って、リーザは真っ赤になった。


「リーザがやりたいことがあるなら、協力するよ?」


 協力。そう言われても、なんと説明したらよいのか。

 これまで経験したことのない激しい動悸に見舞われて、リーザは真っ赤になったままお茶に口をつけるしかなかった。

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