9.レベル1:職業【魔王】
──一月十日。晴れ時々曇。
窓辺から見上げる青空に流れる雲。それが、空を飛ぶ巨大な白い龍の様に見えた。今日は、田中さんが仰る〝研修1〟ではあるものの〝魔王〟として初勤務となる初日。心做しか、緊張で身体が震えて居るのが分かる。私は田中さんに設定して頂いた黒のマントとローブに身を竦める様にして、年季の入ったテーブルの角と木目を見つめながら、古めかしい椅子に一人座って居た。
(──ガタガタ……。き、緊張で震えが止まりませんね。こ、此処からどうやって、何をすれば良いのか。……皆目、見当がつきません)
此処は田中さんが仰っていた〝冒険者ギルド〟──所謂、酒場だろうか? 大勢の冒険者パーティが集まり、絶え間ない話し声で賑わって居る。一人カウンターテーブルに俯く私は、少なからず、孤独を感じてしまう。よっぽど、酒でも頼もうかと思った。いやいや、初勤務の初日だし。呑んではイケない……。
……さしずめ、内装は山小屋の様なロッジにも見え、ガッシリとした巨木が壁と天井に組まれて居た。宿泊なんかも出来る様で、中は広々として居る。外から吹く隙間風が直ぐ温められる様子に、私は現実世界にあるスキー小屋か何かの様に思って居た。それは、二階建ての建物で、赤茶色のレンガで組まれた暖炉と煙突がある。部屋の冷たい空気が温められる緊張の最中、それを見た私は、仮想現実とは是程までに良く出来て居るものなのか……と、感心せざるを得なかった。
私は、赤々と燃え盛る炎を横目に見つめては、私が何故、〝魔王役〟を引き受けたのかを思い出して居た。
「……恭子、鈴、和人──。現実世界に遺した家族を、少しでも養いたい。私は幽霊だけど」
さながら、ここ仮想現実世界では、私は幽霊でありながら生きている人の様に振る舞うことが出来る。その姿は、ログインして来て頂いた冒険者の皆様には判別がつかない程とも思えた。
私は寒さではなく緊張に震え──、何も出来ないまま、辺りをキョロキョロと見渡して居た。お客様である冒険者の方たちは、皆様、想い想いの装備に身を包まれて居て強そうだ。中には、獣人メイクの様なコスプレに凝った人も居られる。いや、田中さんが仰るには身元がバレるのを防ぐ為に、素顔や容姿を変えられる設定もある様だから、誰が誰かは分からない。最も、ご自身の腕に覚えのある強者や猛者の方々は、あえて素顔を露わにされる方たちも居られるとか何とか。
「ぐぐっ……、酒。イケませんよね。例え、緊張を解し皆様と打ち解ける為であっても。初勤務、初出勤、初研修……なのですから」
しかし、どうなのだろう? 冒険者ギルド──つまりは、居酒屋のカウンターに居座りつつも何も頼まないと言うのは?
両の手を組みつつ指先を入れ替えながら、俯かせた視線をチラリと壁側に目を向けると──。そこには、〝依頼〟と呼ばれる紙が、現実世界における職業安定所の求人用紙の様に貼り付けられて居た。
……魔物討伐とか、中には魔族の暗殺とか。それは、とんでもなく、私には物騒に想えた。他には、掃除や洗濯、お世話見守りなど、微笑ましくも低賃金なのもあったのだが。
「うぅむ……。お金、ですか? やはり、仮想現実とは言え、お金を稼がないことには何も始まらないのですかね……」
皆様における綺羅びやかな装備──。その影には代償として、〝演者〟さんと呼ばれる、未だ見ぬ幽霊の方たちが扮する魔物や魔族……と言った功労があったのかも知れない──と、私はふと気が付いた。頭の下がる想いがした。
私は、カウンター内で忙しく動き回る店主さんや、フロアに居られる店員さんたちを目で追って居た。すると、千夜一夜物語に出て来るランプの魔人の様な店主が、スキンヘッドの頭を光らせて私に話し掛けて来た。
「いらっしゃい! あぁ、旦那は、何も頼まないんで?」
「あ、すみません……。何かオススメの物とか……」
「初心者さんで、いらっしゃいますか? 所持金はお持ちで?」
「ソナ……?」
「嫌だなぁ、旦那! この仮想現実では、通貨が無いとお話にならないんですぜ?」
「は、はぁ……」
私は着衣して居たフード越しに、田中さんから渡されて居た所有物──〝一日一回はランダムにお金の出て来る不思議な布袋〟──を広げて見た。通称、〝不思議な布袋〟。そこには、銀貨三枚と銅貨が十枚入って居た。私は怖ず怖ずと、その銀貨一枚をスキンヘッドの店主へと差し出した。
「こ、これで……」
すると、店主はカウンター越しにその一枚の銀貨を手に取り、目を白黒させて驚いて居た。
「だ、旦那? こ、これって、俗に言う〝魔通貨〟? ……通称、〝ベル〟。どうして初心者の旦那が、〝ベル〟なんかを……」
「え、えぇっ? そ、そうなのですか?!」
知らなかった。〝ソナ〟と呼ばれる一般通貨の他に、〝魔通貨〟があったなんて。私は、古びた木製の椅子からガタッと立ち上がり……店主とともに、そのヌラリと光る銀貨を見つめた。
「うーん。こっち側の世界じゃ、ボス級の魔物や魔族と呼ばれる輩しか所持して居ない希少なものでして。まさか、旦那? 魔族サイドのプレイヤーとして潜伏していらっしゃるので? 確かに、此処では魔族が冒険者を討つなんて話もチラホラ……」
銀貨をカウンターにぶら下がるランプの明かりに照らしながら、店主が裏表を確かめた後……チラリとその鋭い視線を私の方へと向けた。私は、ゴクリと唾を呑み込み……生前に仕事で失敗した時の言い訳の様に、あたふたと言葉を詰まらせながら話をした。
「ま、まさか! つ、通報されるので?!」
「え? い、いやいや、旦那……?」
「あ! こ、これには、深ーい事情がありまして! 哀れな私に通貨をお恵みくださった高徳な御方が居られまして……!!」
「あの、旦那?」
「し、知らなかったのです! ま、まさか〝魔通貨〟などと、そんな畏れ多いものとは露知らずっ!!」
「お、落ち着いてくださいよ、旦那? あの、まぁ、レベルの高いプレイヤーでしたら、魔物討伐達成後に回収した〝魔通貨〟を一般通貨として使うなんて話も聞いたこともありますから……」
「……そ、そうなのですね?」
「えぇ。まぁ、旦那の状況は、だいたい呑み込めましたよ? それにしても、希少価値のある〝魔通貨〟を初心者の旦那にいきなりあげちゃうだなんて。気前が良すぎると言うか、趣味が悪いと言うか……」
ふーっと、息を吐いた店主がその銀貨をコトリとカウンターの上に置き、長く蓄えられた髭を触って居た。私も「やれやれ……」と言って、ふーっと胸を撫で下ろしてから元の木の椅子に腰掛けた。
「まぁ、この銀の魔通貨でしたら、一週間はこの宿に泊まっても良いですぜ? 三食昼寝付きで」
「ほ、本当ですか?!」
店主の言葉に私は、眼鏡の中央をクィッと押し上げつつ、カウンターに手を置き再び立ち上がった。ビクッ!と、驚いたまま私を見つめる店主との間に、少し沈黙が流れた。ザワザワと店内は騒がしい様相で、他のお客に呼び止められた店主が「いらっしゃい!」と声を上げ、そのお客の元へと注文を伺いに行った。
「……うーん。しかし、困ったことになりましたね……」
私はもう一度腰を下ろすと、あることに気が付いた。それは──。
「そう何度も魔通貨って使えないですよね? 初心者の私が、そんな大金をいきなり持ち歩くのは、どう考えたって不自然ですから……」
注文を受けた店主が忙しくカウンター内で動き回るのを横目に、私は頬杖をついて呟いた。
そう……。私は、何とか一週間で〝一般通貨〟を手に入れなければならない。このログハウスの様な宿屋に滞在しながら。とても心細くて、私は纏っていた黒のローブの胸元をギュッ……と握り締めた。
◇
「あ! お客様、ご注文の品は何になさいますかニャ?」
「え? いや、あの……」
「魔通貨! 店長から伺ってますよ? お客様って凄いんですね! いきなり魔通貨を出しちゃうだニャんて! 私、まだ数えるほどしか見たことがなくて」
「あぁ、いや、どうも。……この度は失礼致しました」
纏っていたフード越しに突然聞こえたその声に、ビクッと私は身を震わせた。怖ず怖ずと顔を上げると、私の視界を覗き込む様に見て居たのは──猫耳に獣の衣装をした一人のお姉さんだった。お姉さんが、私がこの店に来た挨拶の代わりなのか、〝いらっしゃいませ〟の代わりに「ニャー」と言っている。そのお姉さんが猫の様な仕草を取り、私へと手を振る。その様相は、生前を含め未だ行ったことの無いコンセプトカフェなるものを想わせた。私は更なる緊張感で俯き、手に汗を握り締めて居た。
「お客様は、何も頼んでくれないのかニャー?」
「ニャ、ニャア?」
「あ、これ! 会社で決められて居るコンセプト言葉なんだニャア? 私、〝蒼天の無限郷〟で働く社員なんだニャー!」
「ニャア……。で、では、店主さんも?」
「ニャー! 店主は私たちの上司だニャア!」
「……そ、そうでしたか、ニャア……」
「お客様! とってもノリが良いんですね! 大抵のプレイヤーさんたちは、そこスルーしちゃうんですよ?」
「あはは……。そうなんですね? で、では、もう一度。ニャ、ニャア……」
「あは! 嬉しい! じゃあ、一杯サービスして付けちゃう! あ、マスターには内緒で、ね?」
「あ、ありがとう御座います。では、日替わり定食もお願い致します、ニャ……」
「ニャー! 喜んで!」
顔を上げた私は年甲斐も無く──。黒いフードを被ったまま猫耳店員のお姉さんへと振り向き「ニャア」と猫の鳴き真似をした。私が猫ポーズを決め、眼鏡の中央をクィッと押し上げると、お姉さんはとても喜ばれた。
驚いたことに、このお店で働いて居たのは、田中さんが経営されて居る会社の社員さんだった。つまりは、スキンヘッドの店主さんも、猫耳のお姉さんも私の先輩上司に当たる方たちだったのだ。それを目の当たりにした私は少し感激して、ボンヤリとカウンターにぶら下がるランプの明かりを見つめて居た。
その内に、日替わり定食が来るより先に、コン!──と、音を立てて私の目の前に透明のグラスが差し出された。フード越しに見上げると、先程の猫耳のお姉さんが上機嫌で持ち手の付いた樽をグラスへと傾け、赤茶色に揺らめく液体をトプトプと注いで居た。
……甘く芳醇な香りが立ち込めて居る。この世界の〝酒〟だろうか?
「サービス……だニャッ!」と言って、猫耳お姉さんが私にウインクをした。その心遣いに私も嬉しくなり「ニャ……」と、照れながらも伏し目がちに……ありがとうの意を込めて深く会釈をした。
私はグラスに注がれた赤茶色の液体を見つめながら、その芳醇な甘い香りとともにゴクリと息を呑み込んだ。
「……酒だ。酒に違いない。こ、これは、まさに。ぐっ! ……ゆ、揺らぎますね。心と言うものが。いや、しかし、これも物語におけるイベントなのでは? そして、ここ仮想現実における〝架空の酒〟ならば呑んでも差し支え……無い? はぐっ! な、ならば、呑むべき……なのではないでしょうか?」
自問自答を繰り返すや否や、私は自分が思っているよりも先に、その猫耳お姉さんが注いでくれたお酒の入ったグラスを握り締めて居た。あるいは、思考と言うものが全く追い付く暇もない程に、それは口に運ばれて居た。
(──酒だ。見紛うこと無き酒だ……。仮想現実じゃ無い、真の美味みが胃袋に沁み渡る……)
私はグラス半分程の酒を一気に飲み干し、コトンとカウンターテーブルにそのグラスを置いた。仮想現実でありながらも、しかも幽霊であるにも関わらず……私の体内へと酔いが即座に回った。
「こ、これ程までとは……。しかし、美味い。……き、気に入った」
私は昼間ではあったが、薄暗い店内を灯すカウンターにぶら下がるランプへと、明かりを酒に透かす様にしてグラスを翳して見て居た。しばらく眺めた後、私はその酒の入ったグラスを静かに置いた。
(──ドオォォォォン……!!)
その時──。辺り一帯が大きな揺れに襲われ、店内は冒険者たちの悲鳴に包まれた。
「キャーッ!!」
「な、何事だ?!」
「うわっ!! くっ! か、身体がっ!?」
(──ゴゴゴゴゴゴゴ……)
口々に冒険者パーティの方たちが叫ぶ最中──。私が先程まで飲んでいたグラスがカウンターテーブルの上で倒れ、揺れとともにゴロゴロと転がる。そして、床へと落下し、パリン!と音を立てて割れた。当然、私が飲み残しておいた、お気に入りのお酒は無惨にも溢れ──テーブルから床へと私の足下へと滴り落ちて居た。冒険者の方々の悲鳴に入り混じった自分の叫び声が、耳に劈く様にして聞こえた。張り裂ける程だった。
「……さ、酒がっ!! わ、私の、酒がぁっ!! ぐっ! ぐわあぁぁぁっ!!」




