5.いざ。仮想現実世界へ
田中さんと会社のフロアに戻ると、誰も居ないはずのデスクに一台だけ──、ポツリと画面に光を灯して居るパソコンがあった。こうやって、部屋の入り口に立ったまま見渡していると不気味な光景だった。……他のパソコンは電源が落とされて居て、黒い画面のままだと言うのに。
そのパソコンのキーボードには誰も触れては居ないはずなのに、カーソルが一人でに動き、選択された項目がクリックされている。部屋の明かりはボンヤリとして薄暗く、天井の照明も無しに、日の光だけが窓辺から差し込んで居る。英数字や文字記号だけが、配列を繰り返して動いて居て──映された画面を次々に更新して行く様子が目に飛び込んだ。
「こ、これは一体、どう言ったことでしょうか?」
「あぁ、失礼致しました。遠隔操作で〝リリスちゃん〟に頼んで居たのですよ。魔王様こと蔵前さんを案内する様にと」
「人工知能のですか?」
「そのとおり!」
私と田中さんは、その〝リリスちゃん〟が一人でに動かして居るパソコンの前に椅子を二脚並べて、深く腰を掛けた。
「あ、言い忘れていましたが……。仮想現実世界に入場する際には、座るか横になるか寛げる姿勢で居てくださいね? 立ったままだと、安全装置が働いて仮想現実世界に入れないのですよ?」
「心得ました。では、以後、その様にさせて頂きます」
幽霊であっても?──と、疑問を抱きつつ。画面を前にして座って居た私は若干、緊張して居た。果たして、仮想現実世界とは如何なるものであろうか?
「さぁ、蔵前さん。目を閉じて居てください。これも言い忘れて居ましたが、目を閉じないことには上手く世界に没入出来ず、エラーとなってしまいますからね」
「こ、心得ました。め、目を閉じてですね? ……幽霊であっても同じなのですね」
「まぁ、恐らくですが。意識レベルと言うものを機械が感知するからでしょうね」
すると、どうだろう──。目を閉じて何も見えないはずの空間に、やがて、光の球の様なものが見え始めた。
「あ、またまた言い忘れて居ましたが、蔵前さんは霊的な存在ですので、耳に装置を装着しなくてもですね……」
「た、田中さん!! ひ、光がっ! 光の球が見えますよっ?! こ、これは、一体?!」
「あー、蔵前さん? そのまま昇天して天に召されることの無き様に、意識をしっかりと保って居てくださいね? 僕は、正直、生きて居ますので……」
「ぐあぁぁっ!! ひ、光がっ! 光がぁっ!!」
「く、蔵前さんっ?!」
〝無〟──。と、言った場所であろうか、ここは。浮いて居る──。幽霊であるにも関わらず、浮遊した経験は、私にとって初めての体験であった。
まるで、宇宙空間とも見て取れる私の周囲には、星々が巡るように回り、流れて居る──。
ふと、気配を感じて顔を横に向けると……。視線の先には少し離れた場所に田中さんが居て、クィッと押し上げた眼鏡越しに、いつもの爽やかな笑顔を見せながら軽く手を振って居た。田中さんは、高級そうなジャージにお洒落なパーカー姿で居て先程と同じ。私も、いつもの薄汚れたスーツ姿で、変わった様子は特に見られ無かった。どうやら、無事、天に召されること無く──私は昇天せずに此処に居る様だ。
「田中さん! こ、これから、どうなるんです?!」
「まぁ、蔵前さん、慌てずに。見えて来ますよ? 直ぐに」
「な、な、な、何がですかっ?!」
クィッと眼鏡を押し上げた田中さんが、スッ……と、指を差し示した向こう側に──。まるで、夜明けの水平線を思わせる朝焼けの光が、一筋に走り抜け……目の前の暗闇の世界を二つに分断した。驚いた私は呆気に取られるより他なかった。
「はわわわ……」
「何をそんなに驚いて居るのです? 世界を創生した魔王様ともあろう御方が」
「は、はい? い、いや、だって私は……」
「冗談ですよ? まぁ、まだ序の口ですから。それに、我々は魔王様の御力を模倣しただけに過ぎません。本物には遠く及ばないでしょう……」
「あのぉ? さっきから、一体何のことを仰られて居るのか。私には、さっぱり……」
「ふふっ。魔王様の設定のお話ですよ? ちょっと、雰囲気出てるでしょ? それっぽく無いですか?」
「うーん。まだ、私には分かり兼ねますが?」
オドオドとしながらも、私がクィッと眼鏡を押し上げ、首元のネクタイを締める動作をして居ると──。「フッ……」と、口元に笑みを零した田中さんの身体が、一瞬の内に金色に光った。そして、眩いばかりの光を残して──水平線の向こう側へと吸い込まれる様にして、田中さんは「では、また後で」とだけ言い残し、流れ星の如く消え去ってしまった。
「え、えーっ?! 私……一人?」
浮遊した宇宙空間の様な場所に、私一人。……ポツンと取り残された。足元を見つめ俯くと、広大なその暗闇が遥か下に広がる──。……奈落とでも形容しようか。そして、しばらくすると、四角く格子状に伸びる光の筋が幾重にも交わり始め、何も無いはずの空間に平面を象って煌めく様子が見えた。それが、田中さんが消え去った水平線の向こう側へと続いて居る。
私が独り、視線を上に向けると──。足元の遥か下にある平面と同じ様に、何も無いはずの暗闇には、天井が格子状に光の筋を伴って形成され……。私の居る位置よりも遥かに高いその場所が、同じく二分された水平線の暗闇の向こう側へと続いて居た。
「ど、どう言うことですか?! これは?!」
私が眼鏡に手を触れて驚いて居ると、何処からともなく声が響いて来た──。遥か足元に形成された光と闇の平面と同じく、遥か頭上に形成された四角い格子状の光が暗闇の空間に曇の様にぶら下がって居て、まるでベルトコンベアの如く動き始めていた。その、原初の様な闇の水平線の光る向こう側へと、吸い込まれる様にして──。
「まおう様、まおう、サマ──。〝リリス〟です。……バイタルサイン確認致します」
「は、はい? くっ……蔵前ですが? 何か?」
(──ゴオォォォォォ……)
唐突に吹き荒れる宇宙風──。まさかの突風に、身体ごと押し戻される感覚に襲われた。
「のあっ?! ぐ! ふぁっ?!」
飛びそうになる眼鏡と前髪を抑えつつ、吹き荒ぶ風圧の最中──私は姿が見えない〝リリス〟と名乗る少女の機械音声を耳にした。それが、身体反応を確認する間中、ずっと風の音とともに聴こえて居た。しばらくすると、確認が終わったのか、目も開けて居られない程の突風が止まった。
「チェック完了致しました。バイタルサイン、測定不能。まおう様は、死んで居ます。リリスの仮想現実世界へ、ようこそ……」
「ハァハァ……。幽霊ですからね? そりゃあ、亡くなって居ますとも。あ、私、蔵前と申します。リリスさん、初めまして。よろしくお願い致します──」
「では、〝魂の存在〟と言うことで。改めまして、蔵前サマ……リリスの仮想現実世界へ、ようこそ。ご案内させて頂きます……」
言葉の後、しばらく──。リリスちゃんと私との間に沈黙の時が流れ、口では形容し難い、間の様な無言の余韻が雲の様に流れ去る。
何も起きなさそうな現状に、田中さんが転送して行ったことを鑑みた私は「死んで居ても、良いのですか?」と、〝リリスちゃん〟に尋ねてみた。「問題ありません」と、リリスちゃんから直ぐ様、返事が返って来た。「流石は、超人工知能なのですね?」と、私が褒めると、「超超人工知能です。まおうサマ」と、またしても、何も無い暗闇の空間にリリスちゃんの機械音声だけが響いた。
宙に浮く私は足元を見下ろしてから、天井を仰いだ。この、私の視界の上下に張り巡らされた蜘蛛の糸の様な光の網こそが、私を仮想現実世界の更なる先へと超越させるのだろうか?──田中さんの様に。……リリスちゃんの〝力〟で? そう思った私は、不安よりも込み上げて来る未知なる興奮に、喜びを伴って打ち震えた。
「ふっふっふ。さぁ、私──蔵前トシキこと、〝魔王〟を仮想現実世界へと誘うのです! リリスちゃん!! 今こそっ!!」
「了……。では、まおう様こと、〝蔵前〟サマを……私、リリスの仮想現実世界へと転送させて頂きます」
「では、いざ行かん! 〝仮想現実世界〟へっ!! ぐぶぅっ?!!」
「〝リリスの〟……です」
──天上天下に光る暗闇に放出された蜘蛛糸網が、一筋の水平線の彼方へと続き、蠢き始めた。それが、高速の光を放つに連れ……空間内を並行に移動して居るのかに見えた。
いや、しかし、突如として──。〝リリスちゃん〟の静かなる最後の機械音声を聴くや否や、私自身が光の彼方へと連れ去られてしまう感覚に襲われていた。
「か、身体がっ?! ひ、光って居るっ?!! ぐ、ぐぼあぁーっ!!?」
それが、仮想現実世界への入り口手前で、私が放った最後の一言だった──。




