4.千里の道も一歩から
〝──まおう様、まおう……様。ま、おう……サマ──〟
「……私は魔王様では無いのですよ。ただのオジサン幽霊なのですから……」
ズピッと鼻が詰まり、顔を横にして臥せて居た……固いデスクの上で涎に濡れている。──と、生前の様な皮膚の感覚がして目を覚ました。薄っすらと瞼を開けると、窓辺に燦々と光輝く太陽を目にした。どうやら、まだ正午は回って居ない様だ。
「……眠って居た? 私が?」
瞼を擦りながら顔を上げる。……ふと、デスクに置かれた眼鏡に手をやると、目の辺りに違和感を感じた。
「涙? ……泣いて居た? 私が?」
うつ伏せになって居たデスクには、涎に濡れた跡も涙の跡も無い。パソコンの画面さえ、真っ黒に電源が落とされていた。すると、私の背後から聞き覚えのある声が響いた。
「……ふわぁぁ。うぅっ……あ、おはようございます! 蔵前さん? もう、起きていらしたのですか?」
「あ、田中さん、おはようございます。幽霊は眠らない──と言う訳では無かったみたいですね? こんなに眠ったのは、死後、初めてのことなのです」
「はぁ、そうなんですか? まぁ、冷暖房は完備していますが、じゃあ、幽霊であっても風邪引くかもですよ?」
「あはは……。それは実に興味深い。是非とも、生前の様に風邪を引いてみたいものです」
「あ、もう、勘弁して下さいよ? 〝魔王〟役──明後日の月曜日から本格始動なんですよ?」
「そ、そうでした。早く練習を始めないと……」
デスクから、くるりと椅子を回転させて、まだ酔いの醒めない眠そうな田中さんと会話する。田中さんはシャワーでも浴びて来たのか、シャンプーの良い香りがする。しかし、スーツとは違って、ジャージの上にパーカーを羽織るといったお洒落でラフな恰好をして居た。
田中さんが、いつもの様に眼鏡をクィッと押し上げると「モーニングでも行きませんか?」と、声を掛けて来た。私は「良いですねぇ」と、同じく眼鏡を押し上げて返事をした。まぁ、お金は千円しか所持して居ない訳だが。
……フラリと、ビルのフロア内を歩く田中さんの後ろに、ついて行く。迷路の様なビルの中で迷ったら困るからだ。そんな私は、幽霊だからこそ、迷って居るとも言えなくも無いのだが。
それから、田中さんと他愛も無い世間話やら、魔王役のことや仮想空間について話をした。けれども、眠って居た間に見たであろう夢のことは、思い出せなかった……。
◇
「んー、居ましたよねぇ? そこかしこに、チラホラと……」
「何がです? 田中さん?」
「えーっと、蔵前さんには申し上げにくいのですが、その……」
「あぁ、私と同じ体質の方々ですよね? 何か気になることでも?」
ビル内にもあったのだが、田中さんが外の空気を吸いたいとのことで……近くのカフェと言うのだろうか喫茶店に入ることにした。向かい合わせの席に田中さんと着いた私は、肌触りの良いソファにもたれ掛かり上機嫌だった。クラシックであろう品の良い音楽が木組みの天井で出来た店内に流れている。田中さんが珈琲カップに口をつけたので、私もカップを手に取り……ズズズっと死後初めてとなる苦みのある贅沢な味わいを口にした。
「……演者ですよ。仮想現実空間を演出する為のですね。数多あるライフライン機構や他のゲーム部門なら、いざ知らず──物語部門には欠かせないですよね?」
「あぁ、なるほど。ご存命の方では何か不都合でもあるのですか?」
「いやぁ。私どもの技術上、人工知能を用いたりも致しますが、やはり物語部門では演者が生の感情をその時々に表現出来る本物っぽさが重要でして」
「なら、尚更、私たちよりも生きて居られる方々の方が?」
「いえ、我が社の仮想現実空間をご愛顧くださるユーザーの方たちは本当に沢山いらしてですね」
「はぁ……」
「人工知能と蔵前さんの様な霊的な存在の方々を組み合わせることでですね……幾万通りにも枝分かれする物語を同時に進行させることが出来る訳ですよ」
「そ、それは凄い技術ですね……」
「まぁ、コピーのコピーではかなり質も落ちますし不具合も生じやすい。人工知能を用いても演者の個性を常に更新し続けないことにはですね。と、ここまでは問題無いのですが──」
田中さんはコトリと、ソーサーの上に珈琲カップを置くと、銀のフォークで大皿に盛られたソーセージをズブリと刺した。私はと言うと、フォークにスパゲッティをくるくる巻いていた途中で、我ながら上手く巻けたものだと思っていたところだった。
「サイバーテロですよ。同時多発的な、不正アクセスによる……。仮想現実の世界ともなると、生身の人間が遠隔操作で複数同時に現場の対応に当たるのには限界があります。もちろん、人工知能任せにして居ても追い付けないでしょう。と、なると──」
──ボリッ!と、勢い良くソーセージを齧った田中さんが、何度か咀嚼を繰り返しながらゴクリと飲み込んだ。そして、眼鏡の中央をクィッと押し上げ「珈琲、お代わりお願いします。あ、二つ追加で」と言った田中さんに対し、店員が不思議そうな顔をしながら「かしこまりました」と言った。私の居る誰も居ないはずの席には、私が飲み干した空のコーヒーカップが置かれて居る。それを見たからだろう。
「……蔵前さんには、是非、我が社の仮想現実世界における守護神、いえ、〝魔王〟となって頂き、睨みを効かせて頂いて欲しいのですよ。あ、通常の演技もありますからね? 魔王役としての」
「いえ、あの、何で私が魔王なんかに?」
「魔王だから、です」
「いえいえ……あ、あの、では、つまりですね……。緊急時及び非常時には幽霊の私が、仮想現実世界に複数同時多数的に出現し、穏やかでは無い荒ぶる人たちの振る舞いを取り締まる……と言う訳ですか?」
「イエース! ザッツライト!! もはや、魔王様も正義の味方ですよねっ?! ご納得頂けました?」
「はぁ……この際ですから了承致しましたが。ずーっと、仮想現実世界を隈無く見張れと仰るのには、幾ら何でも無理があるかと……」
「あ、その点はご心配なくですよ、蔵前さん。超次世代型の超超人工知能の母体となる妖精の〝リリス〟ちゃんが居ますから」
「リリス……ちゃん?」
「特別手当として、リリスちゃんのお世話代も振り込んでおきますから──」
「……お世話? 特別手当……ですか?」
お世話とは、是、如何に──。私はまた、千円なのではと想いつつも、言葉を呑み込んだ。
千里の道も一歩から──。……私はフォークに絡め取ってあったスパゲッティを見つめ、口元へと運んだ。よくある懐かしいケチャップをベースとした味わいと麺の弾力が口の中に広がる。田中さんはソーセージを食べ終えた後に卵サラダへと手を伸ばした。器用にフォークでレタスに包んだかと思うと、パクリと頬張りモシャモシャと口元を動かしながら私を見つめた。
「まぁ、今日のところは会社に戻ってから、その辺を説明しつつ……ゆっくりと過ごしましょう! 明日も休みですから」
「そうですか……。こちらこそ、よろしくお願い致します。私は本当に大丈夫なのでしょうか? そんな大役を仰せつかって。魔王などと……」
私は右手に持っていたフォークをコトリと、テーブルに置いた。まだ口には運んでいない、大皿に盛られたソーセージや卵サラダを見つめる。おそらく、演者と呼ばれるのは、私と同じか若しくは私以上に有能な幽霊の方々なのだろう。今日と明日は会社は休みと田中さんは仰って居たが、先輩幽霊の方たちは、今尚、仮想現実世界で働いて居られるのかも知れない。私は視線を更に膝下へと落として……そう思った。
「……粗相をしでかさぬよう、心して掛からねば」
「蔵前さん? どうかなさいましたか?」
「い、いえ。私、こう見えましてもプレッシャーに弱くてですね。……幽霊なのに。可笑しいですよね?」
「まぁ、ご心配されずとも。我が社の超超人工知能のリリスちゃんが、蔵前さん──魔王様を安全快適にサポート致しますから。優秀なんですよ? なので、お仕事もバッチリサポート! 大船に乗った気で居てくださいっ!」
「は、はぁ……」
「それに、そんな謙虚で奥ゆかしいところが、蔵前さんの良いところなんですよ? そんな魔王様って、他に居ます?」
「いえ、しかし──。どう考えてみても、威厳と言うものが、まるで私には……」
「まぁ、案ずるより産むが易しですよね? 蔵前さん?」
「……はい。そうですよね。田中さんは、お若いのに会社の代表取締役ですし、しっかりしていらっしゃる。とても立派なのです」
「はは、そ、そうですか?! いやぁ、何だか魔王様──蔵前さんに褒められると気分が上がっちゃいますね? お褒めに預かり、至極光栄に御座います……」
「か、顔を上げてください、田中さん。……こちらこそ、恥ずかしい未熟者で、すみません。わ、私は……」
徐にフォークを手に取った私は、左の手で眼鏡の中央をクィッと押し上げつつ震える手で大皿に盛られたソーセージへと手を伸ばし、ズブリ!……と、突き刺した。そして、そのままソーセージを口の中へと運び、バリッ!……と音を立てて咀嚼した。まだ焼き立ての芳醇な香りと濃厚な肉汁が、私の口腔内へと弾け飛び、味蕾細胞があるはずの無い私の脳神経系へと信号を送り直接的に刺激した。まるで、生前の様に。
「良い食べっぷりですねぇ……。流石は、魔王様っ!! いや、蔵前さんっ!!」
「え? ソーセージの食べ方は、そ、そう言うものでは? な、何か変でしたかね……」
「いえいえ! さぁ、食べ終わりましたら、社に戻りますかね? あ、蔵前さんは、まだゆっくりとしていらしてください。僕も新聞読んだり、窓の外眺めたりして居ますから」
「は、はぁ……。あ、ありがとう御座います」




