1.止まない雨は無い
(──ザァァァァ……)
一月七日、雨──。
月も星もろくに見えない夜空を見上げる。ポツリと立つ街灯の下、足元の冷たいアスファルトには水溜まりが出来ていた。いや、冷たそう……と言うのが正しいのかも知れない。
「……恭子、鈴、和人──」
私は家族の名前を呟いた後、少し視線を下ろした。ローン返済の残る目の前のマイホームには、今日も明かりが灯っている。眼鏡のレンズに付着した雨の水滴に滲む様に。
「すまない。俺が、死んでしまったばっかりに……」
もう、何万回と言っただろうか。誰にも聞かれることの無い独り言。街灯の明かりに照らされた水溜まりが、俯いた視線の先で、雨を蝋燭の様に弾いていた。
「俺には、どうすることも出来ない。……見守ることくらいしか」
毎夜、毎夜。いや、一昼夜……。私は、こうやって愛しい家族が暮らす家を見上げることしか出来ない。電信柱の影に隠れて。何故ならば──。
……最初は、家の中に居た。
が、しかし、普通にリビングのコタツで寛いで居たら、暖房器具の温度を最高にしても悪寒がすると言われて。
それから、階段ですれ違った妻の恭子に「おはよう」と声を掛けたら、誤って妻が足を滑らせて危うく転落しそうになって。
それから、勉強疲れで椅子に座ったまま寝て居た娘の鈴に「風引くぞ?」って耳元で囁いたら、飛び起きた鈴が机の角に足の小指をぶつけて捻挫して。
それから、部屋を暗くしてオンラインゲームをしていた息子の和人に「楽しいか?」って聞いたら、急に画面が停止してしまいインターネットに、しばらく接続出来ない状態になってしまって。
──他にも、安全パトロールと称して私は外出中の家族に付いて回って居たのだが……。行く先々で家族がトラブルに見舞われそうになったり、人に何故か気味悪がられて避けられたりと、思わしくないことが続いたのだ。
「あぁ、俺は何をやっても駄目だな。すまない、すまない……力になれなくて」
そんな私はある時、家を出て家族のもとを離れることにした。かと言って、行く宛も無く。
ブラブラと街を彷徨って居ると、私と同じ様な人たちが割と沢山居ることに気が付いた。けれども、そこは赤の他人。勇気を出して話し掛けてみても、急に打ち解けられるものでも無く。あちらが、逃げて行くか驚いた様な顔をされるかで。やはり、私は一人だった。
そして、今日もまた、我が家の前に立つ電信柱に戻って来てしまい──。
膝を抱えてブロック塀にもたれ掛かる様にして座っている。こうやって、愛しい家族の無事を祈りながら、マイホームに灯る明かりを見上げるしか無いのだ。
「けど……。ここにも、もう、あまり長くは居られないのかな」
チラリと電信柱に目をやると──。黄色と黒の〝衝突注意!〟の文字が目に付く。それに、最近では何故か〝!〟マークの標識が立った。市街では珍しい標識だ。おまけに、地元の自治会の方たちが、交通安全のお地蔵様を祀る小堂を建てたばかりだ。どうしても、肩身の狭さを感じてしまう。
「ここに居ることさえ、申し訳ない……」
〝衝突注意!〟の看板と、〝!〟マークの標識と、お地蔵様の小堂を横目に──。そう思った私は、今日もまた数え切れない日々を過ごす中で、重い腰を上げて立ち上がった。サラリーマン時代に着ていた裾の擦り減ったスーツが風雨に靡く。俯くと、そんな風に見えた。時々、想い出す……家族の泣き顔が、ナイフで心臓を抉り出されるほど苦しくて。私は大声で泣き叫びたい気持ちを必死に堪らえて、夜道を歩き出した。
◇
「うっ、うっ……。くそ、くそっ!」
「どうしたのですか? こんな夜更けに。だいぶ辛そうですが、お一人で散歩ですか?」
「うっ……。え? はい?」
ザァザァと相変わらず雨が降りしきる夜道。街灯の明かりを頼りに、家の近所を歩いていると──、傘を差した見知らぬスーツ姿の青年が私に急に声を掛けて来た。傘から覗く顔は若く、私と同じく眼鏡を掛けていて、耳にはピアスを空けている。ちょうど就活して居る大学生くらいだろうか。こんな夜更けにも関わらず、私の様な中年男性に単身でしかも気軽に声を掛けるなんて。
私は内心ヒヤリとして、ドキッとした。飲み屋街の客引きを除いては、生前を含めても初めてのことだった。が、しかし、私はもう既に死んでいるし。慌てることは無い──。そう、自分に言い聞かせた。
「し、失礼ですが……見えるのですか?」
「はい。もちろんですよ? 嗚咽する様なお声も聞こえましたので」
「お、お恥ずかしい。すみません、あの、その……怖くはないのですか?」
「えぇ。こう言っては何ですが、他の方たちと比べると」
やけに、あっさりとした態度だった。だが、何処か凛として居て涼やかなその青年の笑顔に、孤独だった私の心はすっかり安心させられてしまった。私はポケットに入っていたハンカチで涙を拭ってから鼻を拭いて、眼鏡を拭いた。何だか死後、初めて存在を認められた気がして嬉しかった。改めて想うと、この時は上気して頭に血が昇り……私はボーッとまだ若いこの青年の立ち姿に見惚れて居たんだと思う。いや、私には血なんて通っているはずが無いんだが。
「あの、生きてますよね?」
「貴方がですか?」
「い、いえいえ! あ、貴方がですよ。その、お若いのに私の様な者に声を掛けるだなんて。……勇気があるなって」
「えぇ、えぇ。最初は、もちろん勇気が要りましたよ? 皆さん、貴方の様にお話が通じる訳でもないですし。下手したら呪われ兼ねないですからね?」
「……ですよね?」
今思うと、街中でかなり私も無茶して居たなって思う。なんせ、手当たり次第にその……同じ体質の方々に声を掛けて居た訳だから。まぁ、既に私は死んでいるし、結果として何がどうなった訳でも無かったが。……ただし、神社やお寺、廃墟なんかには行かなかった。何か良く無い気がしていたのと、二度とは戻れない気がして居たからだ。
私の目の前の青年が、傘を差したまま眼鏡の中央をクイッと指先で押し上げる仕草をした。心為しか、幾分、口元が笑って居る様に見えた。我が家から、まだ数百メートルほどしか進めて居ない街灯の先でポツリ、私と二人。不思議な光景だった。夜道で街灯の明かりに照らされて見えるのは、傍目にはこの青年一人だけだろうけど。
「あ、申し遅れました。私、この度、ベンチャー企業を立ち上げました〝田中レイキ〟と申します」
「は、はぁ。田中、レイキ……さん?」
「いやいや! そんなに固くならないで下さい。私の目に狂いが無ければ、貴方には才能がある!」
「え? いや、あの、才能?」
「あ、そんな怪訝そうな顔をしないで下さいよ? 決して怪しい者ではなくて、歴とした会社の代表取締役なんですから!」
「は、はぁ。そうなんですね? まだ、お若いのに……」
「あ、そうだ! 貴方のお名前を伺ってもよろしいですか? 名刺なんてあります?」
「あ、はい。良かったら、これどうぞ……。蔵前トシキと申します」
「わ! 名刺! 貰えるだなんて、最高にレアだなぁ。ありがとうございます! 蔵前さんですね! これからも、よろしくお願いします!」
「は、はぁ……」
予想外の出来事だった。私の目の前の青年は、傘を差したままだったが、私から貰った名刺に頬擦りしながら喜んで居る。それも、降りしきる雨も、そっちのけで。レアとか言ったが、私から貰った名刺が、この世の物では無いからだろうか? いよいよ、その青年が傘を放って「ヤッホー!」と叫びながら小踊りを始めた時。私は夜中で近所迷惑にならないかとか、警察に通報されるのではと、内心ヒヤヒヤとして──。街灯の下でプルプルと身を震わせて、よろめきながら後退しつつ、たじろいで居た。
「あ、あの、何がそんなに嬉しいので……?」
「見つけたんですよ! ついに、私は!」
「な、何をです?」
「光り輝く原石を、です!」
「それって、もしかして、何かの勘違い……」
「いいえ! 貴方です! 蔵前さん! 貴方こそ、真の〝魔王〟に相応しいっ!!」
「……ま、まお?」
「魔王です! 魔王っ!! あぁ、もう、蔵前さん、自分じゃ自覚無いんですか?」
「と、言われましても……。あの、ラノベとか、転生もののファンタジーで、アニメとか……」
「そう! それっ! それですよ!! ご理解頂けましたか?」
「い、いえ、何も……」
何処か残念そうな表情で、田中さんが眼鏡を掛けたまま両手を広げて「オー、ジーザス!」と、叫び、夜の雨に打たれながら天を仰いでいる。
私はポカンとして呆気に取られたまま彼のその姿を見つめるしか無かった。同じく真夜中の雨に打たれて。
再び、眼鏡の中央をクイッと指で押し上げた田中さんは、ずぶ濡れの髪を振り乱しながら、私に押し迫ってから言い放った。
「蔵前さん! 貴方に出会えた私は、最高にツイてる! 今日はちょっともう遅いですが、今から会社に戻って、酒でも酌み交わしながらお話しましょう! いえ、会議です! 会議っ! これはもう、重役会議ですよっ?! 蔵前さん!!」
「は、はぁ……。そう、なんですか……」
私は自分で言うのも何ですが、アレですよ?──って、よっぽど田中さんには言いたかったが。ツイていると言うよりも、憑かれているの間違いでは?──と、本当に心を込めて内心言いたかったのだが。
こんなに私のことで興奮し通しで、喜んでくれる人に出会うのも、人生初めてのことだったし。私は、彼に「まぁ、良いか」と心の中で呟き、満更でも無い笑顔を口元に浮かべて居たんだと想う。
しかし──。
この後、田中さんが呼んでくれたタクシーの車内では、運転手が妙に押し黙った様子で震えて居た様に見えた。ずぶ濡れの田中さんと、ルームミラーに映るこの世のものでは無い私を乗せて──。




