アルト・ストーリー
アルトには、年の差が12歳の兄がいる。
名はタクト=ハイン。性格は生真面目で温厚だが、融通がきかないところが玉に瑕だと、アルトは承知していた。
しかし、今回はアルトが見たタクト=ハインではない。
クローズアップ・アルト。
つまり、アルトそのものを中心にしたエピソードを今から語ると、筆者は張りきっていた。
大丈夫なのか。
なんとかなるよ。
誰と語っているのかはほっといて、アルトについての語りが始まるのであったーー。
***
アルトは母親を知らなかった。
存在しているは知っていたが、物心がついてからの母親を知らなかった。
アルトの古い記憶は、兄のタクト=ハインとの思い出だった。
ーーアルト。男はここを先途とでは、泣くはしないのだよ。
アルトは近所に住む子どもに母親がいないことを冷やかされて、兄に大泣きをしていた。
兄はしっかりと、アルトを抱き締めた。そして、アルトの耳元に囁いた言葉だった。
ーー男と男の約束だ。いいな、アルト。
兄は右の掌を拳にしてアルトに差し出した。アルトは頷き、兄と同じく小さな拳を差し出す。
拳と拳を重ね合わせ、腕を絡ませた。
ーーいい子だ。いや、これでおまえは本物の男だ……。
兄の前では涙を見せない。
アルトが4才になったばかりの誓いだった。
***
“男同士の約束”から数日後だった。
自宅の庭に、兄によってビニールプールが用意されている。ベランダに腰かけているアルトは今か今かと、心を踊らせていた。
「アルト、いいよ」
夏の日差しの為に兄は汗まみれだった。
アルトは走ってビニールプールに飛び込んで、水飛沫を兄に浴びせた。
しかし……。
「今、何て仰いましたか」
「俺についてこい。もう、いっぺん言おうか」
兄はビニールプールに躓いた勢いでずぶ濡れになって、家の中に入っていった。
アルトは、兄がずぶ濡れになった理由を知っていた。
話しかけられた。は、いいが、兄の顔はひきつっていたように見えていた。
次の日から、兄は家にはいなかった。
そして、アルトの生活は一変した。
隣三件先の、家と家の交流が深い、ある知人のもとで過ごすこととなった。
アルトは“男同士の約束”を頑として守った。
嫌いなピーマンを食べる。
保育園の駆けっこで転けても直ぐに立ちあがり、最後まで駆ける。
保育園のマドンナ的な存在の女の子に告白されて、振って、一部の男子保育園児から果し状を叩きつけられる。
アルトは吐きそうになっても、膝を擦りむいても、罪悪感に苛むでも、誰がために闘っても涙を溢すまいと、頑に“男同士の約束”を守った。
アルトは四面楚歌の情況だった。か、のように思われたのは気のせいだった。
反比例するかのように、アルトの保育園内での好感度は上上。
登園すると同時に女子園児達がアルトを囲み、カバンを持つのを誰がするとじゃんけんが始まる、アルトに絡む男子園児に背後から“膝カックン”で倒す年長の男子園児に助けられたり、サインを求められたりと、アルトのまわりは人だかりが絶えなかった。
人気絶頂のアイドルのようなアルト。
アルトの日常は活気で満ち溢れていた。
しかし、現実は知人の家で過ごしている。
父親は大企業の幹部で超多忙、兄も家にいない。
知人には息子がいて、兄と一緒に遊んでもらっていた。
名は、ルーク=バース。
『あの日』兄のタクト=ハインを半ば強引に連れ出した。
兄は何の為に連れていかれた。
アルトは兄が家を留守にした理由を聞かされていなかった。
寂しくて堪らないと、こっそりと泣く。は、全くなかった。
アルトには楽しみがあった。特に、夕食の時間は待ち遠しいと、アルトは毎日心を踊らせていた。
知人は料理上手だった。
夕食の材料のお使いをするのがアルトの役目だった。
「グラタン、グラタン」
アルトはお使いが終わって帰り道を鼻唄混じりでスキップをしながら踏みしめていた。
蔦鶴で編み込まれている籠にたくさん詰まった馬鈴薯。アルトは何度も籠から馬鈴薯を溢し落としては拾うをしながら、帰り道を踏みしめていた。
あと少しで知人が待つ(ほぼ、我が家同然)家に着くところだった。
アルトは道端に誰かがいると、目を凝らした。
全身を水を被ったかのように濡れさせて、挙動不審な様子。
「お兄さん、軍人さん?」
アルトは軍服姿の少年に声を掛けた。
少年の傍には、女児がいた。
アルトはふたりから話しを聞きたかった。
しかし、だった。
アルトは迎えに来ただろうの知人に、夕食の材料が足りないと再びお使いを頼まれた。
バターを買って急ぎ足で戻るが、少年と女児はいなかった。
あのとき見たのは誰だったのかはまるっきり気にせず、アルトは夕食のグラタンでおかわりするほどお腹をいっぱいにさせた。
アルトは気づかなかった。
自身が見た少年こそが、兄のタクト=ハインだったことを気づかなかった。
そして、傍にいた女児は後々に交流を深めるとなるシーサだった。
すべては繋がっている“絆”が何かを、アルトはまだ知らなかった。
そして、月日は流れたーー。
***
アルトは19才になっていた。
自宅でがらんと、なっている部屋にアルトはいた。
兄が大学講師になって、使われることがなくなった部屋。
兄は、勘当同然で家を出てしまった。
兄の頑固な性分は父親譲りだと、アルトはいつも思っていた。
アルトは兄が使っていた部屋でアルバムを捲っていた。
幼少の頃、学童期、ハイスクールでの行事の思い出が詰まる写真を一枚一枚、丹念に目で逐った。
兄と、友人と。
アルトの傍に写るのは、何れも兄か友人だった。
母親の、母との思い出が写されているのはどれだと、アルトは探す。無いと知りながらも、それでも探すにはいられなく、アルトは何度もアルバムの台紙を捲った。
鼻の頭がつんつんと、痛い。
目も腫れっぽく、堪らず右の掌の甲で擦った。
兄との約束を守る。
アルトは、ずっとその想いを胸の奥に秘めていた。
ーーごめんください。
呼び鈴と女性の声がするとアルトは我に返り、部屋を出ると階段を駆け下りてパウダールームに入り、洗顔を済ませて玄関に走っていった。
「やあ、シーサ。よく来てくれたね」
「いつも、慌ててる。もっと、落ちついてよ」
「シーサだって、同じだろう」
「そんなことは、ありません。ほら、こうしてお昼ご飯を一緒に食べようと、持ってくるくらいだもの」
「お父さんのお店のランチ?」
「わたしのお手製よ」
シーサは頬を膨らませた。
「あがって」
アルトは笑みを溢していた。
アルトはシーサをリビングルームに案内して、キッチンから運んできたティーセットをテーブルの上に置いた。
「家の中でピクニックだね」
シーサが持ってきたランチボックスの中には、彩り豊かで目で見ても美味しそうな品がびっしりと詰まっていた。
「ピーマンは手で千切って、熱したフライパンで軽く炒めて塩コショウを振り掛けただけよ」
「グラタン、熱々のままで凄いよ」
「うん、持ってくる直前に焼いた」
「コンソメスープの具材、揃えるの大変だっただろう」
「お父さまのお店を手伝う条件で、材料を譲って貰った」
「ありがとう、美味しいよ」
「アルト、元気なかったから。でも、よかった」
アルトは、正面の長椅子に座るシーサの顔を見る。
「ボク、シーサを困らせていたの」
「逆かもしれない。わたし、アルトが頑張っているを知ってて、知ろうとしないようにしていた」
ふたりはフォークをテーブルの上に置いていた。
「シーサは、兄ちゃんが勤めている大学で勉強をしている。ボクは、ボクの実力が足りなかっただけだよ」
「アルトは、本当はこの家を出たかったのでしょう」
「心配しないで。どっちみち、駄目なことだった」
「そんな」
「それが賢明だと、ボクは思う」
アルトは椅子から腰を上げた。
「どうしたの、アルト」
「散歩に行こう」
アルトは、シーサに手招きをしたーー。




