十七、竜の岬に珍味はない
極寒の海をじゃばば、じゃばばとかきわけてご機嫌に泳ぐ巨大な人鳥の魔物。そのくちばしに押されて進む流氷の上、肌が切れてしまいそうな冷たい風を頬に受けてグラトニーとイーダは凍えていた。
「ざざざ、ざむいでずぅ! 風が、飛沫が、体温を奪うぅぅぅ!」
「騒ぐなイーダ、体力が減る」
ディッシュの巨体を壁代わりに身を屈めておてもなお、容赦のない寒さにイーダは歯の根が合わない。
「でも、ざむ、ざむぅぅぅ!」
「寒さと引き換えにしてもこの速度はありがたい。数日はかかると覚悟していた岬がもう見えてきた」
飛沫に目を細めたグラトニーが見上げる先に、竜の岬が見えていた。
魔物ひしめく竜の岬。弱い魔物は怯えて近寄りもしないと言われるそこは、吹き荒れる風のあまりの強さと冷たさに、植物も生えぬ岩の渓谷だった。
崖にぶつかる波の勢いは凄まじく、削られ抉られた崖は近づくものをこばむ絶壁と化している。
近づくにつれ明らかになるその異様さに、呑まれたようにイーダが唾を飲む。
「これ、どうやって登るんです? こんなの、岸に近づくのだって難しいんじゃ……」
並の船であればあえなく沈んだだろう。熟練の船乗りがいたならば、船を寄せることは不可能だと答えただろう。けれど巨大な人鳥は常識をものともせず、荒れる波をすいすいとかき分け、海中に突き出す岩をゆうゆうと避けて崖に迫る。
そして頭を海にもぐらせたかと思うと、流氷の下にもぐり込み押し上げた。
一気に遠ざかる海面にイーダが口を開けている間に、流氷と崖の上が地続きのようになっていた。
あまりにも勢いよく波をかいたものだから、流氷は道中でずいぶんと欠けて小さくなっていた。それでも荒波のなか、人二人と大型の魔獣を乗せた氷の塊を平然と押し上げる人鳥は、魔物としても規格外だ。崖の上に届かせるため、人鳥はその平たい足で海中の岩をしっかりと踏みつけているらしい。
「くえぇ」
人鳥が小さく鳴くのを聞いてディッシュが身体を起こす。慎重に、けれど素早い動作で流氷を降りる馴鹿に続いてグラトニーとイーダも崖に降り立つ。
ふたりが振り向き、崖の下を覗き込んだときには流氷が大きな音を立てて波に落ち、砕けるところだった。
人鳥は海に戻り、頭上の氷のかけらをはらうように短い首をぷるぷる振っている。
「助かった!」
「ありがとうですー! 気をつけて帰ってくださいねー!」
「ぶふふーん!」
「くえっ」
ふたりと一頭の声に応えるように短く鳴いて、人鳥はざぶんと海に潜り込む。かと思えば、黒い巨体は矢のような速さで遠ざかりすぐに見えなくなった。
「……なんです、あの速さ。反則です」
「俺たちを運ぶ間はかなり加減してくれていたわけだ。あの知能の高さと突出した能力、あれは人鳥の王といったところか」
「ぶふん」
ディッシュが得意げに鼻を鳴らしたのは、グラトニーのつぶやきに同意したのか、ただの偶然か。
思わぬ助っ人の姿を見送って、一行は竜の岬に向き合った。
異様な場所であった。
波に削られた岸壁と同じように、崖から連なる大地もまた岩が抉れ砕けた地形となっていた。残骸のように残る岩が突き立てられた剣のように乱立する合間を風が通り抜け、不気味な音が絶え間なく鳴る。突き出たかと思えば深く抉れ、底も見えない穴の暗さを覗き込んでイーダは瞬いた。
「こんなとこに竜が住んでたんです?」
「さてな。俺も話にしか聞いたことがない。だが、他に手がかりもない以上、ここを探すしかないだろう。竜も降りられる大穴を見つけて降りる。竜核があるとするならその底だろう」
あたりを見回したグラトニーは、付近にそれほど大きな穴が無いのを見て取ると移動しようと足を踏み出しかけ、立ち止まる。
「……怖くは無いのか」
「ふへぇ?」
振り向かないままに彼はイーダに問いかけた。
「まともな人間は竜の岬に立ち入らないだろう。お前も俺に出会わなければこんなところに来る必要も無かったというのに……」
歯切れは悪いものの、グラトニーはイーダに罪悪感を抱いているようだった。素直に謝罪の言葉を口にすることは無いものの、過去にさかのぼって渋い顔をする彼をイーダは「なーに言ってるんです!」と一笑する。
「グラトニーさんといっしょだから、ここまで来られたんです! 私ひとりじゃ鋼鉄蠍は仕留められなかったですし、不死鳥が口に入れた途端に灰になることも知らないままでした。大食渦潮がけっこうおいしいなんて、船乗りさんたちだって知らない新発見だったんですから」
出会ってから食べたおかしなものを指折り数えるイーダの笑顔は輝いていて、口にした言葉が紛れもなく彼女の本心であると伝えていた。
「だから、私はグラトニーさんに会えて幸運なんです! 竜の岬にだって、人類初の超珍味が隠れているやも!」
「ふはっ」
拳を握って期待に胸をふくらませる彼女の姿に、グラトニーは気が抜けて笑いをこぼした。
「超珍味とは何だ、妙な言葉を作るな」
「えー、すっごくぴったりな命名だと思うんです!」
「どうだろうな」
「そこは同意一択ですー。あ、ちょっとグラトニーさん。置いてかないでほしいです!」
「ぶふんっ」
「ディッシュまで、なに笑ってるんですー!」
気安いやり取りに空気が緩んだところで一行は岩場を進み始めた。寒さこそ極北の地に比べればずいぶん和らいだが、そのぶん強さを増した風が吹き付ける。入り組んだ地形のせいだろう、左右前後あるいは頭上から、時には足元から吹き上げる風が容赦なく肌をなぶった。
平らなところの見つけられない足場の悪さも、一行の足取りを遅くする。気を抜けば奈落のごとき穴の底に叩きつけられかねない状況に口数が少なくなる中、グラトニーの後ろを行くイーダがふと声をあげた。
「グラトニーさんはどうしてラースさんを助けるんです?」
穴の底で目をぎらつかせているかもしれない魔物を刺激しないためか抑えられた声量でありながら、真っ直ぐに突き出された疑問は風の合間を縫うようにグラトニーの耳に届く。
その証拠に肩をわずかに揺らしたグラトニーは、けれど無言で足を進めている。
「私、グラトニーさんはラースさんが終わりを迎えるの、うらやましがるかと思ったんです。うらやましがってそのまま死なせてあげるんじゃないかって。グラトニーさん、出会ったときからずっと死んじゃいたいって言ってたから」
風の音と足音だけが渦巻く岩場に、イーダの静かな声は不思議なほどよく通る。
確かに届いたその声に答えまま数歩進み、グラトニーは立ち止まった。
「……そうだな、うらやましいと思った。大勢に囲まれ、惜しまれるラースがうらやましかった。あいつは俺と同じ魔人なのに……」
終わりを自覚し受け入れようとするラースを前に、グラトニーが感じたのは共感ではなく羨望だった。
少年王に請うて砂の下で百年の時を無為に過ごしたグラトニーと違い、ラースは極北の地で人々の暮らしを助け今日まで生きてきたのだ。
はじまりは己の錨をもやし尽くすためであったかもしれないが、いつからか集った人びとのために火を灯し続け、命にも等しい核を燃やし続けた彼女は村に受け入れられていた。短い滞在時間のなかでグラトニーはそれを感じ、望まれて人々に囲まれているラースを羨ましく思ったのだ。
「あいつはもう村の一員になっていた。だから、あいつをこのまま死なせるわけにはいかない。せめて、あの村の人々がラースの炎に頼らなくとも生きていけるようになるまでは」
グラトニーが口にしたのは理由の全てではない。それでイーダが納得したのか否か。確かな反応があるより先に、岩場の足元にある大きな空隙に行き着いた。
グラトニーとイーダ、そしてディッシュは底も見えない深い穴を取り囲んで覗き込む。
「大きな穴です。これなら竜も出入りできそうです? んんんー、でもここからじゃ穴の底まで見えないです」
「降りられる箇所があれば良いんだが。なだらかでなくてもいい、せめて坂になっていれば……」
ぐるりと見回したグラトニーの声は尻すぼみになる。同じく穴のふちに視線をやったイーダが足元を覗き込んで眉を寄せた。
「むしろ抉れてます? それになんだか暗闇のなかから怪しい唸り声がちらほら聞こえるんですけど。これって私たち、飛び降りたら大歓迎です?」
覗いた穴のなかから吹き上げる風の音とは別に、低い唸り声が聞こえていた。空耳でないことは、目を凝らすまでもなく暗闇の奥底でチラつく黄色い眼光が裏付けている。
「まあ、無策で飛び降りれば良い餌食だろうな。しかし降りられる場所を探していてはどれだけ時間がかかるかわからない、俺が縄で降下して手当たり次第に喰うのが良いところか」
「ぶるっふふぅん……」
グラトニーの言葉にディッシュが切なげに鳴いた。心なしか肩も落としているように見える馴鹿の横に立ち、イーダはその横腹を撫でる。
「それだとディッシュがいっしょに行けないです。地上部に置いていくんです?」
「そうだな……」
思案するように肯定を口にしかけたグラトニーは、けれどゆるく首を横に振った。
「いや、置いていくんじゃない。地上部と地下とに分かれて進もう。竜が地下で暮らしたかどうかもわからない。岩場の高いところに巣を作った可能性もあるし、風の合間におあつらえ向きの住処が無いとも限らない」
「それって私とグラトニーさんのふたり組と、ディッシュひとりに分かれるってことです? ディッシュ、危なく無いです?」
眉を下げたイーダの心配に、馴鹿は鼻を鳴らしてスタスタとその場から離れていく。それを待っていたかのように岩の影から蛇型の魔物が飛びだした。人の背丈ほどもある蛇の牙が迫るなか、ディッシュは鳴き声もなく後ろ足だけで立ち上がる。高く上げた前脚が蛇めがけて振り下ろされ、地響きがあたりを震わせる。。硬い蹄が持ち上げられたその下には、無惨につぶれた魔物の姿があった。
「ぶふぅん」
鼻を鳴らすディッシュはいつも以上に堂々とした立ち姿でグラトニーとイーダに流し目を送る。まるで「これでも心配が?」と言いたげだ。
「……危なく無いわけですね。ひとりでも大丈夫そうです」
イーダがなんとも言えない顔で頷き納得する横で、グラトニーは得意げに戻ってきた馴鹿に手を伸ばす。
「ディッシュ、ここからは別行動になる。俺たちは地下を行くから、お前は地上を移動してくれ。南にくだったところ、岬の付け根あたりで落ち合おう」
「ぶふんっ」
力強く頷いたディッシュの背から下ろした荷物を探り、グラトニーは縄を手に取った。近くにそびえる岩の柱を二度三度押して揺らし、びくともしないのを確かめると縄の端を括り付けていく。残りの荷物はディッシュの背に戻し「頼むぞ」と従魔の背を叩く。
「あのぅ……その縄ってもしかしてですけど……」
結びつけたのとは反対の端を握ったグラトニーにイーダが恐々とたずねるその最中に、グラトニーは足元の岩場に空いた大穴へと飛んだ。
「魔物を片付けたら縄を引く。それから飛んでこい」
言いながら暗い穴の中へ消えていったグラトニーを見送って、イーダはパチパチと瞬きを繰り返す。
岩のそばにわだかまる縄の束が勢いよく穴の中へと吸い込まれて、瞬く間にカサを減らしていく。程なくして縄の動きは止まる。縄の先が地についたのか、あるいは重りがわりに捕まる人物が落ちたのか。断末魔の悲鳴が聞こえないことから前者だと信じたい、そう願いながらイーダは恐る恐る暗闇をのぞきこむ。
「あの、私、飛ぶの嫌なんですけど……」
あっと言う間に見えなくなったグラトニーに訴えたところでもう届かない。ひとり取り残されたはずのイーダは呆然としていたが、とんと肩を叩かれてゆっくりと振り向いた。
そこに居たのは一頭の巨大な馴鹿の魔物。グラトニーの居なくなった穴のふちに、イーダとディッシュがふたりきり。
「えっと……?」
「ぶふぅん」
これまでイーダに対して小馬鹿にするような態度ばかりを取ってきた馴鹿が、やけに優しい目で彼女を見つめる。その眼差しに不穏なものを感じ、戸惑うイーダの手にディッシュが乗せたのは中身の入っていない予備の布袋。馴鹿の鞍に括り付けられていたものを自身で食み外したのだろう。ディッシュは頑丈な布で作られたそれをくわえて、イーダの手に巻き付けるように頭を動かす。
「あの、これは……」
嫌な予感にイーダが冷や汗を流していると、すぐそばの岩に結びつけられた縄が動きを見せた。ぐいぐいと下に引っ張る動きは、グラトニーが無事に地に着いたならば彼からの合図だろう。彼でないのなら、魔人をくらった魔物がおかわりを催促しているのか。
「……これ、もしかして風で縄が動いてるだけとかじゃないです? それかグラトニーさんは途中で引っかかってて、縄だけが穴の底に落ちて魔物が引っ張ってたりとか、そういう可能性があったりとかしますよね。飛ぶには不確定な要素が多すぎるので」
イーダがぐだぐだと言葉を重ねている間に、彼女の両手は頑丈な布でしっかりと覆われていた。手袋のように包み込まれた手は、きっと強い摩擦からもイーダの手を守ってくれるだろう。
「あの、これって、やっぱり……」
その手の上に縄がそっと乗せられ、イーダは反射的に握り込む。
「ぶふうんっ」
どん、とディッシュがイーダの背中に腰をぶつけた。不安定な足場で簡単に体勢を崩した彼女の身体が穴の上に浮いたのは、一瞬。
「やっぱりいぃぃぃぃぃぃ~~~~~!」
悲痛な叫び声を残しイーダは暗い穴の底に消えていく。風の騒ぐ地上には、ディッシュの巨躯とイーダの悲鳴の余韻だけがあった。
ディッシュが静けさに浸っていられたのはほんのわずかな間だけ。盛大な物音を聞きつけたのだろう、岩の合間を縫って忍び寄ってくる魔物たちの気配を捉えて、馴鹿は巨大な角を一振りする。
従うべき主の元で従順な魔獣として過ごすのも悪くはないが、命のやり取りに身を置くのも嫌いではないと、ディッシュは鼻を鳴らした。




