十、海の幸に絶望を添えて
ずっと舟の舳先にもたれていたグラトニーだが、いつその海域に入ったのかわからなかった。
気づいたときには海がひどく静まり返っていた。
波がない。風がない。魚の跳ねる音もなく、空をゆく海鳥の姿もない。空に浮かぶ雲さえ流れず、形を変えるのは遥か遠方の雲ばかり。
何の変化も見受けられない海はまるで絵画を見ているように、ひどく静かだった。死の海と呼ばれるのもなるほどとうなずける。
「時が止まっているかのようだな」
つぶやいたグラトニーの脳裏に、ふと魔人のひとりが過ぎる。時が止まったかのように空間の時間経過を遅くする、範囲防御の権能を持つ魔人。言葉を交わした記憶はほとんどない。魔人同士、結託することを恐れた帝国が接触の機会を最少にしていたせいだけでなく、相手の魔人がいつ見ても寝ていたからだ。
「名前はなんだったか……」
グラトニーが記憶をたどっていると、不意にぐわりと船が揺れた。
通常の海ならばすこし大きな波に揺られたのだと思うだろう。けれどここは死の海だ。ないはずの波が船を揺らしたことに、漕ぎ手たちの居る船の中央部からざわめきが上がる。
「あ、いたいた、グラトニーさん! 揺れましたね。いまの地震です?」
声のしたほうから駆けてきたのはイーダだ。海中に動くものが滅多に見当たらないと見るや「行きつく港の名物料理を事前確認してきます!」と船乗りたちのところに行っていた彼女は、今の揺れに気づいて出て来たらしい。
「波のない海でも地震は起こるのか?」
「わかんないです。船乗りさんたちもわかんないって言ってました。何度もこの海域を通ってるけど、こんな揺れははじめてだって。悪いことの前触れでなきゃいいって言ってましたけど」
冗談めかしたイーダの言葉は、再び船を襲った大きな揺れに遮られた。波が暴れ、ぐわんと船が持ち上げられる。
「さっきより大きいです!」
イーダはだてに浮揚板を乗り回していたわけではないようで、即座に体勢を立て直し警戒の声をあげる。その横で、よろけて船のへりにしがみついたグラトニーは前方を指さした。
「おい、あれはなんだ」
「海が、盛り上がってるんです? ううん、何か、来る……!」
ふたりが見つめる先で、ざばあと海を持ち上げるようにして姿を現したのは巨大な丸い物体。ぬらりと光る半球体の左右には瞳孔が横に割れた黄色い目、そこから伸びる幾本もの長い触手には無数の吸盤が並んでいる。その姿にイーダは見覚えがあった。
「タコ……?」
「いや、いくら何でもデカすぎるだろ」
滝のような海水がざばざばと落ちては船を揺らすなか、見上げるほどの巨大なタコと見つめ合う。まじまじと見つめてもやはりタコだった。その度を越した巨大さと海上に振り上げられた脚が八本より明らかに多いことを除けば、タコ以外の何物にも見えない。
そこへ船長がやってきた。左頬に抉れたような傷のある強面の船長は、グラトニーやイーダと並んでタコの化け物を見上げた。
「こいつは……大食渦潮じゃねえか!」
「カリュブディス?」
聞いたことのない名前にイーダが首を傾げると、青ざめた顔の船長がタコの化け物を見上げてつぶやくように口を開く。
「海に波を起こす魔物だ。普通は海底に居て、滅多に上がって来ない。こいつが出てくると嵐になるってんで、普通の海ならそこそこの大きさになったころに退治して食っちまうんだが。こいつはとんでもねえ化け物級の大きさに育っちまってる」
「これ、食べられるんです?」
深刻そうな船長に対して、イーダが食いついたのはあくまで食べられるかどうかという点だった。期待に瞳をきらめかせるイーダだが、大食渦潮に視線を固定している船長は気づかない。
「死の海域にゃあいないとばっかり思ってたが、海底で眠ってたのか。こんなにデカくなるまで……そいつが起きたから揺れたわけか。よりによって客を乗せてるときによぉ」
イーダの問いが恐怖をやわらげるためのものだと思って、船長は悲壮な顔で拳を握る。青ざめた顔でイーダに目を向けた彼は、強張った顔のまま笑ってみせた。
「安心しな、お嬢ちゃん。大食渦潮退治は海の男の通過儀礼だ。いつもよりちょっとばかしデカいが、誤差のうちよ。なあ、野郎ども!」
「「「おお!」」」
船長が声を張ると、いつの間に集まっていたのか、船の漕ぎ手たちが銛を手に手に甲板に集まっていた。
「危ねえから船の中央に下がっててくれよ」
「死の海は退屈だからな、ちょうどいい暇つぶしだぜ」
「かみさんたちに良い土産が出て来たもんだ」
口々に言う漕ぎ手たちの声は大きかったが、それらは強がりだと容易に知れる。手にした銛を握る太い指が震える者がおり、腰が引けている者がいる。それでも客として乗せたグラトニーとイーダを何とか守ろうとする気概が感じられた。
「お土産ってことは食べられるわけですね。じゅる。グラトニーさん、あれいけます? 不死鳥より大きいですけど」
「ああ、時間はかかるがやれる」
グラトニーも珍しく、進んで権能を発揮する気になっていたらしい。こそりと話しかけてきたイーダにうなずきを返したのだが。
そこへ、風が吹いた。
生ぬるく湿った気味の悪い風だ。およそ好天のもとに似合わない風に釣られるようにグラトニーが船の後部を振り向くと、いつの間にか立ち込めた鉛色の雲がすぐそこまで迫っている。
それだけではない。重く垂れこめる雲が海に落とす影のなか、にじむように浮かび上がってきたのは一隻の帆船だ。グラトニーたちの乗る船と大きさはそう変わらないだろう。けれどまとう雰囲気は圧倒的に違っていた。
「なんだ、あれは。ひどく薄気味の悪い……」
「ゆっ、幽霊船だ!」
グラトニーのつぶやきに、すぐそばにいた漕ぎ手のひとりが上ずった声を上げる。
「幽霊船だと!? くそ、俺たちの絶望を感じ取って現れやがったか。こっちは化け物の相手で忙しいっていうのによ!」
忌々し気に船長が吐き捨てると同時に、漕ぎ手たちの間に一気に動揺が広がった。大食渦潮相手に見せていた強がりも、後ろに迫る幽霊船のせいでもはや品切れらしい。
そうこうしている間にも幽霊船はするすると海面を滑るように近づいてくる。船の左右に伸びる折れた櫂が波を掻き分けられるはずもないのに、静まり返ったぼろ船はみるみる大きくなっていた。
見たこともないほど巨大な大食大渦と幽霊船。前後を挟まれた状態にグラトニーは舌打ちをひとつ、懐の卵を荷物に押し込んで船長に詰め寄る。
「どっちならあんたらに勝算がある?」
「え、どっちって言やあ、物理攻撃が効く大食大渦のほうがまだ、可能性はあるが……」
質問の意図がわからない、と言いたげな船長にグラトニーは背を向け、船尾に向かって駆け出した。
「説明している暇はない。幽霊船は俺が何とかするから、そっちは任せる!」
「あの! あの! 私はどちらに!?」
慌てたイーダが声を張り上げれば、グラトニーは振り向かないまま叫んだ。
「自分が食いたいほうへ行け! 俺は加減ができない。欲しいなら、欲しい分は確保しろ!」
***
幽霊船は海で命を落とした船乗りたちの無念が凝集して生まれる。
波に揉まれ洗われた無念は生者への純粋な羨望となり、生きている者の絶望を嗅ぎつけてはやってくるのだ。海で絶望した者の命に群がり仲間を増やそうと海を漂う亡霊、それが幽霊船。
牙を持つわけでなく、生を繋ぐわけでもなく、ただ絶望を運んでくるこの船を魔物と言って良いのか否か、グラトニーは知らない。
知らないし、関係ない。
彼の権能はすべてを喰らう。それだけだ。
「『暴食』」
がぱりと開いた口の中に広がるのは、幽霊船の内部に見える暗がりよりもよほど底知れぬ闇。
底なしの食への欲を集めに集めて造られた魔人がグラトニーだ。
その権能は、一度発動すれば獲物を喰らい尽くすまで収まらない。
そして今、暴食の魔人は幽霊船を獲物と定めた。
不気味なまでに静まり返り、絶望のままに海へ呑み込むべく並走しようとしていた幽霊船が、ぞるぞるとグラトニーの口のなかに消えていく。先の割れた舳先が腹に収まるたび、半ば折れかけたマストを飲み込むたび、破れ変色した帆布が吸い込まれるたび、船乗りたちを蝕むはずであった凝り固まった怨念無念が、グラトニーを内側から苛んだ。
「ぅあああ……ぁあああああ……!」
喰われた幽霊船が怨嗟の声をあげる。おぞましい声が耳から入ってグラトニーの脳を逆なでし、腹の内側からは怖気をもたらす寒さが広がっていた。。
不死鳥の炎に焼かれた熱がいまだうずく腹を冷やす寒さではなく、不快感ばかりを増強させる絶望感を覚えながらグラトニーはひたすら喰らう。いっそ権能に意識さえも明け渡してしまえば苦痛は和らぐだろう。けれどそうなれば周囲のすべてを無作為に喰らうと知っている彼は、苦痛に耐える時間をこそ選び、喰いたくもないのに喰うことに集中する。
「危ないですっ」
意識を幽霊船にばかり向けていたグラトニーの背後で叫び声がはじけ、ぐちゅんと濡れた音が鳴る。
ぐわんと揺れた船の上、よろけたグラトニーと背中合わせに立って彼を支えたのは、巨大なナイフとフォークを構えたイーダだ。
「ふふふ、これでタコ脚の先っちょ二本目ゲットです! 見てくださいグラトニーさん、すっごく大きいタコ脚ですよ!」
「…………」
弾んだ声にグラトニーが答えなかったのは、未だ発動したままの権能が幽霊船を飲み込む途中であり、口が塞がっていたためだけではない。甲板でのたうつ人の背丈ほどのタコ脚を前に、喜色満面のイーダに呆れていたせいだ。
けれど呆れは腹に溜まった絶望を薄れさせ、力を取り戻させる。振り絞った権能が幽霊船の船尾までを飲み込んだ。
「ぁっ、はあっ……はあ……イーダ、そっちの戦況は」
脂汗を拭い振り向いたグラトニーをイーダが支える。彼がよろめいたのは揺れる船のせいだけではないと、楽天的な彼女にもわかるほどグラトニーの肌は冷え切っている。
「私はタコ足二本取れました。他の人も銛でぐさぐさしてるんですけど、あのタコ八本どころじゃなくて、ものすごく足の数が多いんです。これならタコ脚食べ放題……じゃなかった、キリが無いです! それに、相手は海にいてこっちは船だから、伸びてきた脚を叩くことしかできなくて、船がちょっとずつ壊されてて」
「劣勢か」
聞くまでもなく舳先に目を向ければ状況の悪さは把握できた。
ほんの少し前まで凪いだ海を軽快に進んでいた船は今や帆が破れ、船べりに穴が開き、幽霊船とまでは行かないが酷い有様だ。船乗りたちが一体となって船を守り、決定的な打撃はどうにか防いでいるが、この瞬間にも大食渦潮のぬめりを帯びた巨大な脚がマストに絡み、ミシミシと音を立てている。このままでは船ごと海の底に引きずり込まれるのも時間の問題だろう。
「この野郎っ」
船を守ろうと、男たちはマストに絡む巨大な脚に銛を力いっぱい突き立てる。ぐねぐねと動く軟体は弾性に富むものの硬さは無いのだろう、突き立てた数の銛がざくざくと刺さるけれどそこには痛覚もないらしい。
マストを離した大食渦潮の脚が群がる男たちを煩わしそうに振り払い、振り回される脚に気を取られた彼らの死角から新たな脚が忍び寄る。
「うわっ」
「わあぁっ、離せ!」
絡めとられた二人の男の身体が宙に浮いた。
仲間を取り戻そうと立ち向かい手にした銛を投げる者もいるが、怪物の脚はこたえた様子もなく二人の男を海中に連れて行こうとくねり去っていく。
「そうはさせませんよ!」
「『暴食』」
触手の一本をイーダがナイフとフォークで切り分け、もう一本をグラトニーの権能が喰い千切る。
触手から解放された男たちと同時、よろめいたグラトニーが甲板に膝をつく。
「グラトニーさん! 腹痛ですか!?」
「……その言い方は不本意だ」
うずくまるグラトニーがうめくように答えて、腹を押さえながらも立ち上がる。腹痛といえば腹痛だが、グラトニーを襲うのは腹を焼く不死鳥の炎の残渣であり、波でも洗いきれない怨念にまみれた幽霊船の寒気である。イーダが傷んだものを食って腹をくだすのと同列にしてもらいたくなかった。
「全員下がれ。俺が喰う」
軋む身体を無視したグラトニーの宣言に、間近でその権能を見た者は戸惑いながらも場所を譲る。開いた甲板に進み出た彼の袖を引き止めたのは、イーダだ。
「グラトニーさん、身体すっごく冷たいです。具合良くないんです? 無理しないほうが」
「俺は魔人だ。お前たち人間とは違う。無理したところで死にはしない」
言って、グラトニーはイーダの手からすり抜けて船のへりに立つ。
対峙する大食渦潮も何か感じるところがあるのか、四方八方に伸ばしていた脚のすべてでグラトニーを狙っていた。
両者のにらみ合いが続いたのは、時間にすればほんの数秒。
大食渦潮が無数の脚をたわめたのに対して、グラトニーは権能の名を呟いて口を開いた。
がぱりと開かれた虚無を目がけて突き出された脚が、束になって飲み込まれていく。明らかに身体に収まる質量ではないはずの長大な脚であっても、暴食には適わないらしい。
けれど喰う側の魔人は人の形を逸脱し得ない。
「ぉげっ、があぁっ!」
明らかに過ぎた太さの獲物が口中で暴れ、権能の糧になるまいとグラトニーの喉に吸盤が張り付き喉の肉ごと抉り取る。
あふれた血が口端からこぼれるけれど、それでもグラトニーは喰らうことを止めない。暴食の魔人として飼われ、喰いたくもない物を喰わされ続けてきた過去に比べれば、自らの意思で喰う獲物を選べる今は苦しくとも辛くとも、むなしくはない。
そして、ひとりで戦っているのではないという状況がさらにグラトニーを奮い立たせる。
「みなさん、加勢してください! グラトニーさんが食べてる間に、本体を叩きましょう!」
イーダの声に、一歩引いていた船乗りたちのなかから船長が進み出た。よく日に焼けた毛のない頭をひと撫でした男は、太い眉をぐっと寄せている。
「あんたら、一体……」
戸惑うその目が、抵抗する魔物をずるずると喰らうグラトニーに向けられているのを知りながら、イーダは視線を遮るようにグラトニーとの間に立つ。
「細かいことはいいんです。私たちはみんなあのタコを倒したい、違います?」
問われて、船長は努めて公正に状況を洗い直した。
無数の足をひとまとめに喰われ、束ねられた形になった大食渦潮は船から離れることもできず、抵抗している。海中にある半球体部分は盛んに海水を吸い上げ放出し、捕食者から逃れようとしているらしい。嵐のように波が起こり、船は激しく揺さぶられている。この状況で不可解な能力を見せた男を海に放ったところで、船が安全に港へ向けて進めるわけはない。怒り狂った大食渦潮に襲われて終わるだろう。
それに、海の上では助け合うのが船乗りの掟だ。得体が知れなくとも幽霊船の脅威から船を守り、今もまた船員たちを守るために戦っている者を助けずして何が船乗りか。
「……いや、そうだな。違わない」
船長が腹をくくったのを見て、イーダはにっと笑う。
「んです! では、手始めに弱点など無いです? 小ぶりなものを仕留めるときのやり方はこの大きさには使えないです?」
「普通の大きさなら数人がかりであの丸っこいところをひっくり返して、内側にある内臓をざっくり切り落としちまうんだが」
「え、予想以上に残虐な行為です!」
純粋に驚くイーダの素直な反応に、周りで黙り込んでいた船乗りたちはうっかり笑いをもらす。緊張がほどけた彼らは一人、また一人と船長とイーダを囲むように近づいて来た。
「獲物をしめるのに残酷もなにもなあ。それにあいつは心臓や脳がいくつもあって、身体を切ったところで死なないんだ」
「え!」
驚きの生態にイーダは改めて大食渦潮に目をやる。
巨大な頭に見える半球体部分に心臓やそのほかの臓器が集まっているのかと思いきや、それ以外にもいくつかあるらしい。ぐねぐねと動く脚のどこかにあるのか、それとも他の場所か。攻撃すべき箇所さえ定かでない相手を倒すのは容易ではない。
それこそ丸ごと食ってでもしまわなければならないが、脚を喰い進めるグラトニーの顔色は蒼白であご下を染める血の赤がひどく映えた。暴食の力が尽きない限り魔人の身体も修復され続けるとはいえ、苦痛は確実にグラトニーを蝕んでいる。大食渦潮のほうでも喰われまいと抵抗を続けているのが、より彼を苦しめていた。
苦痛に蝕まれながらもグラトニーは権能をおさめず、魔物の長大な脚の大部分が彼の腹に消えていく。けれどその速度はひどく遅い。喰い終えるまでグラトニーの体力が持つとは傍目にも思えなかった。
「では、弱点なしです? あのサイズをひっくり返すってかなり難易度が高いのです!」
焦るイーダに別の男が言う。
「いや、無いわけじゃない。目と目の間、眉間のすこし下に急所がある」
「じゃあそこをやりましょう!」
待ちきれない、とばかりにナイフとフォークを構えて船のへりに足をかけた。けれどその襟首をつかんで引きとめる腕があった。
「ぐえっ」
「待て、お嬢ちゃん。そのナイフじゃ無理だ」
船長はイーダの愛用武器を見下ろして首を横にふる。その冷静な言葉にイーダは歯を食いしばり、武器を握る拳にいっそう力を込めた。
「じゃあこのまま見てろって言うんです!? グラトニーさんが丸呑みするまで、指くわえて見てろってことです!?」
悔しそうに吠えるイーダをなだめるように背を叩き、船長は彼女の目を覗き込む。
「いいや、それじゃ長さが足りないって言ってるんだ」
ぶつかった視線に宿る静けさと覚悟が、イーダの頭にのぼった血を鎮めてくれた。彼女が落ち着きを取り戻したと感じ取った船長は捕まえていた首根っこを離し、船員に告ぐ。
「マストに縄をかけて、錨を引き上げろ! 兄ちゃんの口からこぼれた脚は俺とお嬢ちゃんで叩く。総員、力を合わせて錨を引き上げ、あのタコ野郎の眉間にお見舞いしてやれ!」
「「「おうっ」」」
そこからは早かった。マストに登り引き上げ用の縄をかける者、錨の尖った部位が下に向くよう縄に固定する者、マストの天辺から指示を出す者。初めから役割が決まっていたかのように、男たちは別れて動き、あっと言う間に錨が引き上げられていく。
統率の取れた動きをはじめた船のうえに、異変を察したのか。大食渦潮は身震いし、グラトニーの口から千切れこぼれた数本の脚が船を狙おうと伸ばされる。
「そうはさせませんよ! タコ足、いただきです!」
「お嬢ちゃんもこの化け物を食う気か。あんたら、とんだ悪食だなあ」
イーダが嬉々として脚を切り飛ばし大切そうに抱える横で、船長は呆れを隠さず銛を振るう。グラトニーに余裕があれば「俺をこいつといっしょにするな」と怒っただろうが、彼は今も喰うのに忙しい。
血を吐き、呻きながら喰い進めた脚は今やほぼすべてがグラトニーの腹に収まっていた。魔人の口から逃れた数本もイーダと船長によって切り飛ばされ、今や大食渦潮はすっかりと甲板に引き上げられている。それでもなお海水を吸い上げようとしているのだろう、膨らんではしぼむ動きを繰り返す巨大な半球体部分と脚の付け根だけになった魔物は、もはや無力なように見えた。
だが、おとなしく喰われるつもりはないようで、脚を食むグラトニーは口と言わず鼻からも血を流している。そのうえ、喰った触手が腹で暴れるのだろう。ぼごりと異様に腹が膨らんだかと思えば彼の足元にどこから溢れたとも知れない血がこぼれる。
それでもせめて錨が上がりきるまでは、狙いを定めきるまではと、喰いついた脚を離すまいと血走った目をしたグラトニーだったが、こぼれた自身の血が甲板を流れ彼の足を滑らせた。
ぶづんっ、嫌な音を立てて大食渦潮の脚が根元から食い千切られる。残った脚の根元を使い、重い本体が海を目指して甲板をずるりと動いた、そのとき。大食渦潮の眉間が無防備にさらされたのを船乗りは見逃さなかった。
「ってぇーーーー!」
マストの天辺の船乗りが叫ぶと同時、綱を握りしめていた男たちが一斉に手を離す。
船のなかで一番背の高いマストを使い引き上げられていた錨が、大食渦潮の眉間へ狙いたがわず直撃した。落下速度に自重を加えた船具は、鋭利さなどなくともその重みで魔物の急所を突き破る。ごづん、鈍い音をたてて錨は魔物の肉を裂き、甲板で止まる。
「ぷぎゅ、ぎゅぎゅぎゅぐぎゅぎぎぃぃぃぃいいいいいい!」
泡を吐くような断末魔の声と共に、巨大な魔物の口吻から黒い液体が噴き出した。図体の割に量の少ない液体を被ったのは、至近距離にいたグラトニーひとり。
「あ……?」
床に手をつき、起き上がろうとしていた身体が傾ぐ。
「グラトニーさん!?」
慌てたイーダが駆け寄るのを船長が静止する。
「触るな! その黒い液は麻痺毒だ。くそっ、滅多に吐かないから油断した」
「そんな! どうすれば!?」
青ざめるイーダをよそに、ひと仕事終えた船乗りたちが手に手に紐のついた桶を持って駆けて来る。
そして船べりから海水を汲みあげると、グラトニー目がけて桶の中身をぶちまけた。
「海水で洗うのが一番だ。幸いここにゃあいくらでもあるからな。遠慮なく浴びてくれ!」




