九、渡りに船とは
海は青いものだと思っていた。塩辛さを感じさせる妙な風が吹き、落ち着きなくゆらゆらと揺れるもの。グラトニーの認識ではそういうものだった。
けれど夕焼けに染まる海は美しかった。
昼間、陽光を照り返し暑いほどだった潮風がやさしく頬を撫でる。太陽の動きに合わせて刻一刻と色を変えていく海は青とも赤ともつかない、染み入るような色味でもって空虚な魔人の心に刻まれようとしていた。
けれど、それ以上にグラトニーの心に深く刻まれたのは美しい景色ではない。
水を吸った服は重く、身体にまとわりついてひどく身動きがしづらくなるということ。さらに海水の場合、生乾きの状態になるとべとつきと塩辛さが発生してひどく不愉快だということまで心に刻まれた。無理やりに刻み込まれた。
あまりの不愉快さに、上半身を覆う衣類だけでも脱いでしまおうかとグラトニーが自身の福に手をかけたところへ、シキが声をかける。
「服、着といたほうが良いよ。日焼けに塩は最高に痛むらしいから」
「……気持ち悪い」
忠告を受けても気持ちの悪さはぬぐえない。日焼けが傷認定される域に達したならば権能の力が勝手に修復するだろう、と投げやりになって服を脱ぎかける。
「グラトニーさんが脱ぐならわたしも脱ぎますからねっ」
脅しなのか何なのか。濡れそぼった上衣を際どいところまで引き上げて絞るイーダに、グラトニーはそっと手を下ろした。
「あー! 何ですかグラトニーさん! わたしの魅惑の身体を見たくないって言うんです!?」
「……けふ」
「あー! あー! 黒煙なんて吐いてぇ! 怒りますよ、わたしだって怒るんですからね!」
「まあまあ、イーダちゃん。お兄さん、百年も寝てたからほら、色々枯れちゃってるんだよきっと」
「枯れてない」
くだらない話をしているうちに、港からやってきた船が島にたどり着いた。不死鳥を倒した後、シキの打ち上げた合図を見て港を出てくれた船だ。
その船に乗り込んだふたりは、島に残るシキを見上げた。火山活動の調査のほか、不死鳥の巣に残された痕跡を回収したいという彼は、数日後に迎えを頼んでいた。
「ふたりが居なかったら火山の爆発は抑えられなかったよ。ありがとう。それに、不死鳥の魔核までもらっちゃって」
うれしそうに目を細めて、シキが撫で回しているのは真紅の魔核だ。本体が食べられないならせめて魔核だけでも! と噛みつこうとするイーダの口から奪い取り、海水で何度も何度も洗った一品である。
今もまだ諦めきれないのか、イーダは恨めしげな視線を向けている。
「いい、手元にあってもどうしようもない」
むしろ面倒だとばかりに首を振ったグラトニーが懐を探り、取り出したのは手のひらに乗る小さな卵。水を浴びたせいか、親鳥が消滅したせいか、不死鳥を倒し島に戻ったときにはこの大きさになって転がっていた。陽光めいた色味と、シミのように残る黒い点が無ければ別の物体だと思うところである。
「むしろこの卵も置いていきたいくらいなんだが」
迷惑そうに卵を摘むグラトニーに、シキが苦笑する。
「ここにあったらいつか孵って、また火山が危なくなるかもしれないからね。ふたりは北に向かうんでしょう? 要らないなら要らないで、できるだけ寒いところに埋めてもらったほうが安全なんだよ」
「そこはいっそ食べてしまって……!」
にゅ、と伸びてきた手はイーダのもの。するりとかわして懐に卵をしまうグラトニーを恨めしげに見る彼女に、シキが「だめだよ」と眉を寄せた。
「まだ火山の活動がおさまったわけじゃないんだよ。卵を割ることでどんな刺激があるかわからないんだ。僕だって色々研究したいのを我慢してるんだから……!」
拳を握りしめ、悔しがる彼の勢いにイーダも食欲をこらえたらしい。「ひと気の無いところに行ったら割っても良いってことですよね。覚えてるんですよ、卵ちゃん」と呪いのような言葉をグラトニーの懐に向ける。
そんなイーダの視線を振り切るように、グラトニーはシキに顔を向けた。
「あんたも研究、ほどほどにな」
「冷果の魔具、普及させてくださいねー! 大陸のどこにいても食べられるように、お願いですー!」
すかさずイーダも自分の願いを口にするものだから、シキはたまらず笑い出す。
「ありがとう、またねー!」
大きく手を振るシキの姿が遠ざかっていく。
夕凪の海のようにおだやかな別れの後、船に揺られるふたりはその便利さを噛み締めていた。近づく港の灯りを見ながら、ふとイーダがため息をついた。
「でもこれからどうしましょうねー。浮揚板が壊れちゃったから、徒歩で移動です?」
「そうなるか。だが移動用の動物なりを買うにしても、向かう先が北だからな。このあたりの動物で、寒い気候にも適応できるものとなると何がいるか……」
ふたりが首をひねっていると、老人が甲板を歩いてやってきた。ただの暇な老人かと思われた彼は、実は船乗りたちを束ねる港の主だったらしい。この船も港の男たちも彼のひと声で動くという。
「おお、おお。北に行くのかね。それなら明日、ここから北にある町に向かう船があるから乗せてもらうと良い。この船に負けない、立派な船じゃぞ」
「わー、良いんですか!? やったあ! おじいちゃんありがとうです!」
停泊している船の運行予定も網羅する彼の言葉に、イーダは一も二もなく飛びつく。そんな彼女に待ったをかけたのは老人だった。
「ただ、進みはすこしゆっくりになる。それでもよければじゃが」
「何かあるのか?」
含みのある言い方にグラトニーが話を促すと、老人はゆるりと首を横に振った。
「何も無いんじゃ。ここから北に向かう船が通る海は、波が無く風も無く静まり返っておる。魔石を使うにも距離が長すぎて割りに合わんから、ひたすらに漕ぎ手の力のみで渡らねばならんほどでな。あまりの静けさに、死の海と呼ばれておるのじゃ」
「えええー、それって海の幸も居ないってことです?」
がっかりしたと全身で伝えるイーダの嘆きように老人は「ほほほ」と楽しげに笑う。
「いやいや。少ないが、生き物も魔物もおるよ。海は死んではおらんからの、ゆっくりとじゃが生物が生まれ、成長して命を繋いでおる。ものによっては死の海で獲れたもののほうが身がやわらかくてうまいこともあるのう」
「クラーケンの丸焼きみたいな!」
「そうじゃ」
老人の首肯にイーダが飛び上がる。
「行きましょう、行きましょう! 期限のある旅じゃ無いんです、ゆっくりまったりたっぷり味わっていきましょうね、グラトニーさん!」




