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3.山田

 



 ほんの出来心だった。

 妬みからこぼれた、たった一つの小さな嘘。そのせいでなにもかも変わってしまった。





 地下鉄の改札を抜け、地上へ続く長いエスカレーターに乗る。

 左側にぼんやり立つ俺の横を、糊の効いたワイシャツを着込み、きっちりとネクタイを締めたサラリーマンたちが駆け上がるように早足で進んでいく。


 ぱっと視界がひらけて、光が差し込んだ。

 空は、驚くほど遠かった。


 地上に出ると、真上を仰ぐようにして、都心のビル群がそびえていた。空を突き上げるようなその姿に、思わず立ちすくむ。


 出口の先には、まっすぐに続く長いエントランス。地面はコンクリートで無機質に覆われ、雑草ひとつ顔を出していない。両脇には等間隔で並んだ木々。枝ぶりまで形よく整えられていて、まるで王宮の門を守る兵士みたいだった。




 今さら確かめてなんの意味があるだろう。──そうわかっているのに。











 崇は死んだ。




 首刈峠で死んだ。












 ──俺が、嘘をついたから。








 どこが分岐点だったのだろう。崇に嘘をついたこと? 浮気をしやすいように仕掛けたこと? それとも、そのもっと前から──。

 あの子に、千景に出会ったことも、間違いだったのだろうか。



 大学2年のときのことだ。

 うっかり、文学部の授業を履修してしまった。


『物語理論』は眠くなるような講義だった。本も読まない俺には退屈で、内容は頭に入らなかった。それでも、ひとつだけ妙に耳に残った言葉がある。


「物語はね、必ず“帰ってきて終わる”んです」


 講師はその一文を何度もくり返していた。


 あれから何年も経った。

 最近テレビや広告でやたらと目にする異世界転生モノに、ふと思う。──帰ってくるって、うそじゃん。

 行ったきりの物語ばかりだ。


 話がずれた。

 そう、あれは。テキストを忘れてしまった日のことだ。


「よかったら一緒に見る……?」


 控えめに声をかけてくれたのが橿本千景(かしもと ちかげ)だった。


 自分の学部にいるときの俺は、おちゃらけた”崇の取り巻き”。だから一人の男性として接してくれる人はいなくて。新鮮だった。話しかけるとぽっと顔を赤らめる千景のその様子だけで恋に落ちてしまった。




 千景には意外なことに、派手な雰囲気の女友だちがいた。


 名前は早織。

 まつ毛命と公言しており、ひじきのようなまつ毛が特徴だった。早織と話してみてすぐにわかった。流されやすくて、しかも面食い。学内でも有名人の崇との飲み会を持ちかけたら──きっと乗る。

 飲み会で千景と距離を縮めたかっただけだった。




 肝試しを提案したのは俺だった。隣に座った千景が頷いてさえくれれば、このまま彼女をバイクの後ろに乗っけて走れると思っていた。

 そこに水を差したのが崇だ。





「グーとパーで、はじめましょ」


 あいつはおもむろに言った。


「は?」

「なんだよそれ」


 俺たちは口々に茶化した。


「グッパージャス」


 俺が言うと、崇が「やべ、なにそれ」と腹を抱えて笑った。


「”グーどっパー”だべ?」

「グーパーじゃんけん、せーの」


 あちこちで声が上がる。どうやら地域よって差があるらしい。

 組分けを進めること数分。


 崇と千景がペアになってしまった。崇はあからさまに不満げな顔。それがまた嫌だった。むしろ代わってほしい。そう言えたら、なにかが変わったのだろうか。






 俺たちは首刈り峠までバイクを走らせた。

 爪のように細い三日月が冴え冴えと輝く不気味な夜だった。石造りの古いトンネルが見えてきた。



 トンネルの中は完全な闇。




 声がした。耳元で。すすり泣くような声が、トンネルを揺らすように響いている。正直ビビったが、それを表に出すことはできなかった。早く終われと念じながら先に進んだ。


 そしてトンネルを抜けた。異様な雰囲気だった。ただ岩肌がせり出しているだけの、道路をつくりかけのまま放置したといった行き止まり。






 ──あっちゃーん──






 不気味な声が響いた。しわがれた老婆の声。それは何度も何度も木霊して、すうっと溶けるように消えていった。おかしいのは、だれもそれに気がついていないことだ。

 ひっと息を飲んだ。


 小柄な老婆が、ぺたぺたと裸足で歩いている。ぼさりとした白髪を後ろで小さくまとめており、あずき色のベストを着ていた。半透明とかそういうんじゃない。生身の人間とかなんら変わりがないのだ。


「なぁんもおらんねえ」


 後ろから早織の間延びした声がして現実に引き戻される。


「こんなもんかあって感じ。怖がって損したあ」


 同じような声が口々に上がった。




 そうして俺たちはもと来た道を引き返すことになった。


「あれ、……崇くん、おらんくない?」


 早織が口を尖らせた。トンネルに入る前までは確かにいたのに。千景といっしょに姿を消していた。










「おまえさ、ビビったの」


 次の日、午前中の授業に崇は来なかった。髪の毛をセットすることもせず、カチューシャで前髪を後ろに流して午後から大学に来た崇に詰め寄る。


「いや、違うって。あいつ……千景だっけ。あいつとさ、ちょっといろいろ」


 崇はにやにやした。頭をガツンと殴られたような衝撃だった。


「付き合ったって、こと?」


 努めて冷静に絞り出した。すると崇は、心底驚いたというように目を丸くした。


「いやいや、ありえんやろ」


「え?」


「だって、地味じゃん」






 すぐ終わると思ってた。でも崇はそれからも、名前のない関係を続けていた。




 なんとかその関係を断ちたくて、いろんな女を宛てがってみる。崇の顔があればいくらでも釣れた。あいつはおいしいところを持っていきながら、それでも千景を解放しなかった。


「ベルラ風ドリア。作ってくれたんだよ、あいつ」







 待ちに待った瞬間がやってきた。就活がきっかけで、崇にようやく”本命”ができたのだ。でも、彼女、霧島梓(きりしまあずさ)は、異様な人間だった。


 はじめて会ったとき叫ばなかったことを、ほめて欲しい。

 ちょっと勝ち気な雰囲気で、かなり目立つ美人だった。でも、そんなことが霞んでしまうくらいにはどうかしていたのだ。


 梓の後ろには、この世のものとは思えない存在が憑いていた。


 鬼。──”鎧を纏った鬼”としか表現出来ない。そして背中からびっしりと生えた、烏のような真っ黒の翼が、ソレが人間どころか幽霊ですらないことを証明していた。





「首刈峠に行かん?」


 ある日、崇が梓を連れて、俺のアパートにやってきた。


「前も行っただろ」


 ぶっきらぼうに返すと、俺の肩を組むようにして顔を寄せてくる。


「あんときはさ、あいつをお持ち帰りしたから」


 梓に聞こえないようにそう言った。


 あの夜とは違う。俺は今度は一人で、崇は後ろに梓を乗せて。また、首刈峠へ向かった。




 気が重かった。なにより、あのとき──”本物”を視てしまったから。




 ただの読みものだったはずだ。オカルトなんて「こえー」って笑って読んでるだけでよかったのに。あれ以来、いろんなものが視える。聴こえるようになってしまった。

 トンネルを抜けると、そこにはやはり、あの老婆が彷徨っていた。真っ黒な目をして、歩いている。ところが。





 ひたり。






 老婆は足を止めた。真っ黒な目が、俺たちを捉えた。そうしてこちらに向かってきたのだ。一歩ずつゆっくりと、すがるように。






 ──あっちゃーん。──






「なんもおらんな」


「……いないね。幽霊、ちょっと視てみたかったんだけど」


 くすくすと笑う梓を見て、今おまえの前にいるんだよ!と叫び出したかった。身体が動かない。とにかく寒くて。冷たくて──。やばい。どうしたら。

 そのとき。老婆の姿が掻き消えた。シャキン、と、刀を鞘に納めるような音がした。直感的にわかった。あいつがやったんだ。


 梓の後ろにいるやつ。







 ──啞っチゃーn。──






 老婆の姿は見えないが、とぎれとぎれに掠れた声だけが響いていた。









 目的を果たした俺は、都心のオフィス街を後にした。




 次に向かったのは、崇の家の近くのベルラ。昼メシは食っていなかったが食欲が湧かない。甘いイタリアンプリンだけをちびちびと口に運んだ。


「おい、あんた」


 この女が来るのを、待っていた。腕を掴んだせいでひっと声にならない声を上げた女だったが、その顔に浮かぶ怯えは、梓と対峙したときとは比べものにならない。


「やっぱり。──あんた、あのとき視えてたんだろ」


 俺たちは答え合わせをした。女の名前は、(かえで)と言った。







「あの夜、ただ居合わせただけなんです」


 楓はそう切り出した。仲間内で肝試しに行こうという話になったこと。自分は”視える”から残ったこと。

 そしたら崇が声をかけてきた。


「顔を上げて驚きました。──女の人がべっとりと絡みついていたんです」


 俺はスマホ画面を見せた。


「この人だよね」


「ああ……そう。この人です。この人の生霊(・・)……」










 今から10年ほど前、ようやく崇と千景が別れた。やっとチャンスが巡ってきた。そう思ったのだ。


 卒業式のあと、千景のバイト先へ向かった。だが、目に映ったのは様子のおかしい彼女だった。話しかけても反応がない。心配になって、ただ後ろをついていった。


「なあ、橿本ちゃん。そろそろ戻ろう。危ないって」


 ふらふら、糸で引かれるように千景は進む。


「橿本ちゃん!」


 嫌な感じにどきどきしながら、俺たちはバスで首刈峠へ向かった。道中も声をかけ続けたが、届かない。隣に座っても腕を掴んでも、千景には俺が見えていなかった。


「あぶねえ!」


 そしてトンネルを過ぎ、端のガードレールを超えて茂みに入ろうとする千景の腕を慌てて掴んだ。

 すると、消えた。透明になるように、ふっと。




 俺の意識も落ちていき、次に目覚めたのは病院だった。外傷もなくただ倒れていたという。





 後に早織から、千景の近況を聞いた。

 生きていてほっとしたが、もう、会おうとは思えなかった。あの夜のことを思い出すのが怖かったのだ。

 千景を排除しようとしたのは、あの鬼だったのではないか。



 梓が痴漢に遭いかけたのを見たことがある。

 助けようとした。瞬間、後ろのやつが動いた。痴漢は白目をむいて倒れ、意味のわからないことをつぶやきながら運ばれた。あのとき俺は喜んだ。いつか崇もああなるのだ──! けれど、崇がいくら不義理を続けても、二人はついに結婚までしてしまった。







 崇が首刈峠で死んで残ったのは、後悔と恐怖だった。







 広場のベンチにぼんやり座る。正午を少し過ぎていた。あちこちのビルから一斉に人々が出てくる。スマホと財布だけを持ち、どこか開放的な顔つきで。


 その中に俺は、橿本千景(かしもと ちかげ)を見つけた。32歳になった彼女は、あの頃よりずっと美しかった。

 つやつやした黒髪は後ろの低い位置でゆるくまとめられている。窮屈そうなスーツの中にはフリルのついたブラウスを着込んでいて、華やかだ。


 ──いや、あの人で合っているだろうか。クラウドに保存した卒業アルバムの画像を呼び出す。文学部、……橿本千景。あった。化粧っ気のない、でも穏やかで理知的な雰囲気の顔だち。

 一瞬、目が合った気がした。彼女は困惑したようにしばらく俺のほうを見たが、同僚に声をかけられたようで、そのまま去っていった。







 千景は、彼氏に振られて自殺した。崇にそう言った。嘘だ。ちょっとした仕返しだったのだ。


 警備員が近づいてくる。無精髭にスウェット姿でオフィス街をうろつく俺は、不審者に見えるのだろう。名残惜しく振り返る。千景の薬指には、銀の指輪が輝いていた。


 そのとき、背すじが凍った。


 彼女の後ろになにかがいることに気がついたのだ。真っ白な少女だった。肌も髪も白く、目だけが血のように赤い。少女は愛おしげに千景を見ており、──俺に気がつくと、くちもとに人差し指を当てた。









 崇の葬儀。喪服の梓は美しかった。涙ひとつこぼさない。素顔のままでも意志の強そうな瞳が凛としたきらめきを放っていた。


「思ってたより辛くないの」


「……そうか」


「要らない。そう思っちゃったんだよね」


 梓の目が妖しく光った。








 ベルラで楓と会ったとき、最初に見せたのは千景の卒業アルバムの写真だ。


「……違います」


 楓は、怪訝な顔をして首を振った。背筋が粟立つのを感じながら別な写真を見せた。ウェディングドレスを着てほほ笑む美しい女の──梓の写真。


「ああ、……そう。この人です。この人の生霊……」




 あの通夜の日から、血まみれの崇がいつも後ろにいる。許してくれ。すまなかった。どうか。











 梓。













「崇くんに女の子紹介してたの、山田くんだったんだね」


 通夜のあと、梓は言った。










 後ろのやつと目が、合った。









 寒い。








 気づくと道なき場所にいた。──首刈峠? 足元の小石が落ちて、ぱっくりと闇に呑まれた。


 なあ先生。やっぱうそじゃん。


 帰れないよ。俺。





山田《完》



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