2.梓
ドリアは嫌いだった。
入籍後、23区の端っこに小さな家を買った。旗竿地に建っているその家は、妙に安かった。
不動産会社の人が「……この物件、あまりおすすめしないんですけどねえ」と言う。よく聞いてみるとオカルト話だったから一蹴した。
霊なんかいる筈がない。
夫と彼の友人の山田に何度も心霊スポットに連れて行かれたけれど、怖いことなんてなにもなかったのだ。
でも、オカルト関係なく、シンプルに嫌な家だなというのが第一印象だった。
手前にそびえる古い二世帯住宅が、まるで要塞のように視界をふさいでいたのだ。
その陰に押し込まれるように建つ我が家は、三階建てなのに空がやけに遠い。旗竿地の細いアプローチには陽が差し込まず、午後でもうっすら湿気を含み、境界に建てられた塀は苔で覆われている。
三階にベランダがあった。洗濯物が丸見えになるので外に干すことができずにいたが、崇は前の家の窓しか見えないのにその閉じられた場所で煙草を吸うことを好んでいた。
ある日、家のそばにイタリア料理チェーンの「ベルラ」がオープンした。夫は「なつかしい」と笑い、洗いものをしている私に、急に後ろから抱きついてきた。
「あれ作ってよ、あれ」
「え?」
「ベルラのドリア。前に再現してくれたじゃん」
崇は、くっきりした二重の目を細めて笑った。
この顔に弱かった。でも。私、ドリアなんかつくってない。つくってないのだ。
──誰に作ってもらったの?
笑顔の裏から、過去の匂いがじっとりと染み出してくる気がした。皿を拭く手が思わず止まる。
「なに怒ってんの」
崇は不機嫌そうに言った。
「私、仕事終わりで疲れてるんだけど。むり、そんなの」
むっとしてそう答えたあの日からだったと思う。かけ違えたボタンみたいに、少しずつ日常が狂っていった。いや違う。はじめからそうだったんだ。ただ私には見えていなかった。それだけのこと。
崇と出会ったのは就活中だった。
会社の一次面接。説明会のあとにそのままグループワークをさせられる流れ。みんながみんな同じ服を着て、同じような髪型をしているあの場だからこそ、彼の顔の良さが際立っていた。でもそれだけじゃない。
妙に、なつかしくて──。
爽やかで人当たりがよく、緊張で硬くなっている女子をうまく会話に参加させる気遣いに心惹かれた。
ちょっと妬ましいとも思った。私はああいう庇護されるようなタイプじゃない。思ったことは全部口に出しちゃうし、目もきゅっと吊り上がってきつめに見えることも知ってる。
男性に守ってもらうことなんてない人生だった。
だから、帰りの電車で彼と一緒になって、連絡先を聞かれたときは舞い上がった。今思えば私は、彼に恋をしていたのではないのかも。ただ、あのとき崇が女子学生にしたみたいに、守ってもらえると勘違いしたのだと思う。
結局、崇も私も内定をもぎ取った。彼が庇っていた女子は落ちていた。
内定式で再会し、付き合い、結婚した。若いうちは楽しくデートを重ねたが、結婚してみると彼は思っていた人ではなかった。
離婚を決意して実家に戻ったあと。両親は甲斐甲斐しく子育てを手伝ってくれた。
職場までは実家からだと片道1時間半もかかったが、まったく苦にならなかった。帰宅したらできたての温かいごはんが待っている。家は片づいており、清潔で、私はただ、ゆっくり食べて風呂に浸かるだけでよかった。
崇と結婚していた頃よりずっと楽になった。──いや、離婚届は出されていないので、一応まだ夫なのだけれど。
5歳になったばかりの愛莉にも、笑顔で接することができる日が増えていた。ああ、読み聞かせなんてしてあげたの、いつぶりだろう。
自分が親になってはじめて、母の気持ちがわかったような気がする。
今でこそこんなにもサポートしてくれる優しい母だが、子どもの頃は冷たかった時期があったのだ。きっと母もなにかを抱えていたのだ。懐かしい自室で、捨てられずにいたくしゃくしゃの絵を、ゴミ箱に放った。
実家に戻ってから10日ほど経ったころだろうか。夫の会社から電話があった。
「お母さん……あの人、行方不明だって」
「え?」
母の顔が青ざめた。なんだか視線が合わない。どこを見ているのだろう。
「とりあえず、家とか見に行ってくる。愛莉のことお願いしてもいい?」
「わ、わかった……」
母は歯切れの悪い感じで言った。
懐かしのわが家にたどり着いたのは昼過ぎだった。
途中で、急に後ろに立った人が奇声を上げたから驚いたが、なんとか無事に来ることができた。相変わらず前の家はうちを隠すようにそこに建っていて、今日も屋根の上には烏がいる。
鍵を回した。
「うわ……」
玄関には宅配の段ボールが山積みになっていた。
リビングに入るともっとひどかった。鼻を覆う。シンクからは嫌な匂いが立ち込めていて、コバエが湧いていた。
床のあちこちに裏返しになった靴下が落ちており、棚からは卒業アルバムが今にも落ちそうにはみ出している。ゴミ箱の中身は溢れ出し、その横にはいくつものゴミ袋がぱんぱんに詰まった状態で置かれていた。
「あいつ」
思わず口に出してしまった。
崇の浮気に気づいたのは、いつだっただろう。不快だった。でも、思ったより悲しくなくて。このころには、私の中でも彼への感情が冷めはじめていたのかもしれない。
だって、私だってフルタイムで働いているのに、家事も育児もすべて私任せ。それでいて文句だけは言ってくる。
マスクをつけて家じゅうの窓を開けた。目の前の大きな家の屋根には、烏が何羽も止まっていた。
まずは、片手にゴミ袋を持って、レシートや丸めたティッシュなどを詰めていった。特にひどいのはキッチンだった。顔をしかめながら、まだいくらか残っていたおむつ用の防臭袋を出してきて、排水皿の中身を捨てる。
「眼鏡で来ればよかった……」
そうしたら見えないのに。
汚いものなんて、見たくない。
「──要らない」
気づくとそうこぼしていた。
《……わった……》
「え?」
なにか聞こえた気がしたが、何も居ない。窓の向こうで、烏が飛び立っていった。
ごとり。卒業アルバムが落ちた。崇のページが開いた状態で。
夫が最後に目撃された場所に行ってみることにした。丘の上のベルラ。家を出て、ゆるやかな長い坂道を登っていく。母からの着信があった。
『崇さん、見つからなかったでしょう』
母の声は、これまで聞いたことのないトーンだった。なにかが滲んでいた。嫌な予感がした。
「うん……」
『……やっぱり』
笑い、声……? 話題からは考えられないような、くつくつとした笑い声とともに、そのまま電話は切れてしまった。
そのときだった。
突然、ぎゅいいんと嫌な音がした。
そして目の前に車が突っ込んできた。私のつま先からほんの数十センチのところに。
「だ、大丈夫ですか」
運転席の男性に声をかける。
奇跡的に怪我はなさそうだった。けれども白目をむいて、なにかわけのわからない言葉をぶつぶつと呟いている。
後ろから走ってきたサラリーマン風の男性が救急車を呼んだので、私はそっと、その場を離れた。
心臓がばくばくしていた。昔からこうだ。私は運が良い。なにかに守られているみたいに。
不気味に思いながらも、そのまま丘を登る。そうして坂の上のベルラにたどり着いた。
夕方の店内には、家族連れが多かった。肉が焼けるにおいや、トマトの酸味のあるにおいがふわりと広がっている。私は窓ぎわの席を選んで腰掛けた。
これまでを振り返るように、登ってきた坂道をぼんやりと眺める。
ふとスマホの通知が鳴った。崇の友人・山田だ。
《突然すみません。崇と連絡つかなくて》
そんなふうに始まっていた。
「……ドリアで」
ぶすっとした声で注文し、私はふたたびスマホに目を落とした。
『崇、行方不明なの』
それだけタップする。
《は?》
《え?》
《何の話っすか?》
ぽんぽんぽんと、通知が鳴る。
『今、ベルラにいるんだけど。ここで目撃されたのを最後に、見つからないのよ』
《崇ん家の近くのですよね? ……行きます》
待っている間、イカ墨の入ったパスタも頼んだ。そういえば、ベルラに来るのはこれがはじめてかもしれない。
隣の席にドリアが運ばれていった。
……本当は、一度だけ、ベルラ風ドリア作ったことがあった。はじめて崇から作ってほしいと言われたとき、ネットで調べたのだ。過去の女に負けているなんて悔しかった。
スーパーでホワイトソース缶とミートソース缶、ピザ用チーズを買ってきた。グラタン皿に白ごはんを入れて、ホワイトソースをぬり広げ、ピザ用チーズをぱらぱらと撒く。それから中央にミートソース。あとは焼くだけ。
確かにおいしいものができあがったはずだった。それなのに崇は「これじゃない」と言ったのだ。
「不味くはないよ、でも、俺が食べたいのってこれじゃないんだよ」
「梓さん」
はっと顔を上げる。山田がばつの悪そうな顔をして立っていた。
「……久しぶりっす」
山田は見上げるほど背が高く、元ラグビー部らしくがっしりした体格をしている。
「なに頼む?」
「俺は……」
「頼まないと。……奢りますよ」
山田は渋々メニューを開くと、カルボナーラを注文した。
「この間、首刈峠まで行ったんだけどさあ」
衝立の向こう側から、若い女の子の声が聞こえてきた。舌っ足らずな感じの喋り方だった。
「出たんだよ。幽霊」
「え?」
「噂は本当だった。おばーちゃんの霊がね、出たの」
「おばあさんの……」
「真っ白な髪を後ろでひとつ、お団子にしてて。小さい人。薄茶色のシャツとズボンで、小豆色の……なんていうんだっけ。ちゃんちゃんこ? ジレみたいな感じのやつを着てたんだよ」
まるで私の祖母みたいだ、と思った。
でも、どうしてだろう。会ったこともないはずなのに。
「……首刈峠、昔3人で行きましたね」
山田が言った。
「うん。なにも出なかったね」
「それは……」
彼はなにか口ごもった。カルボナーラが運ばれてきた。ふと思い立って、店員の男性に崇の写真を見せてみる。
「あの、この人知りませんか。夫なんですけど、帰ってこなくて」
男性はぎょっとした表情になり、それから眉を下げた。
「……あの、覚えてます。まさに、今みなさんが座っている席にいらっしゃって」
「え……」
「ラストオーダーの少し前でした。ずぶ濡れの若い女性が、なぜかそちらの方に数珠? なんか変なのをはめたんです。それからしばらくして様子がおかしくなって、お渡ししたドリアにも手をつけず、お会計を済ませると、青ざめた顔で震えながら北のほうへ走っていかれました」
「北……」
店員は気の毒そうに頭を下げると、厨房のほうへ戻っていった。
「……お客さま」
先ほどの男性が戻ってきた。そして、メモを差し出す。そこには『おとなりにいらっしゃる女性、ご主人に数珠をはめていた方です』と書かれていた。山田と私は顔を見合わせ、頷いた。
「あの、すみません」
衝立の向こう側にいたのは、大学生くらいの二人の女の子だった。
一人はピンクの髪の毛に長いまつ毛が目立つ綺麗な子だ。そしてもうひとりは、茶髪で服装も気を遣っている感じがあるのに、妙に地味に見えた。たぶん元の造作はいいのに。
「行方不明になった家族を探してるんです」
ピンク髪のほうが、面白そうに目を輝かせた。崇の写真を見せる。
「……うーん、知らないですね」
彼女はつまらなそうに言った。もう一人は怯えたように黙りこくっている。
「あの、最後に話したのってあなた……ですよね」
もう一人の方に目線を向けた。彼女は目をまんまるに見開き、ガタガタと震え、そして走り去っていった。
「ちょ、楓……?」
ピンク髪のほうも追いかけていく。
昔からたまにああいう反応をする人がいる。確かに私はきつめの顔立ちかもしれない。でも失礼だと思わないのだろうか。
帰り道、母から着信があった。
「お母さん? さっきなんだったの」
『覚えてる……?』
母は問いに答えずに言った。
『あんた昔、誘拐されたことがあるの。おばあちゃん……私の母に』
祖母にさらわれるように連れて行かれたという。そして山の中にある小さな集落で1ヵ月ほど暮らしていた。そこは、首刈り峠のすぐそばだったらしい。
どうして忘れていたんだろう。
きいん、と耳鳴りがする。
「羽黒の儀式をする」
祖母はそう言って梓を神社に押し込めた。丸い鏡に梓の手を押しつけた。
私がそこを出ると、足元には祖母が倒れていて。
《真っ白な髪を後ろでひとつ、お団子にしてて。小さい人。薄茶色のシャツとズボンで、小豆色の……なんていうんだっけ。ちゃんちゃんこ? ジレみたいな感じのやつを着てたんだよ……》
女子大生の言葉が蘇る。祖母は今も、首刈峠にいるのだ。
すっかり日が沈み、世界は濃い紫色に染まっていた。遠くに見える夕日を眺めながら坂道を降りていく。烏がまた鳴く。
すれ違った人の口元が、わずかに動いた気がした。
——「邪魔者は取り除いた」。
『梓』(完)




