1.崇
・各話完結。でも、それぞれにつながりがあるので最後まで読むと真実がわかります。ぜひ考察しながら楽しんでもらえるとうれしいです。
・Webでの読みやすさや演出を重視して、改行多めになっています。
「ニセモノは誰?」
冷めきった惣菜の蓋を開けた。
帰りがけに閉店間際のスーパーで買った「まんばのけんちゃん」には、値引きシールが貼られている。
豆腐が青く染まっていた。まんばはアクが強いと聞いたことがあるが、そのせいだろうか。頭の中に、声が蘇る。
「ああ、ごめん。失敗しちゃった。……下ごしらえが足りなかったかも」
おっとりした声。
口元まで運んだが、味わうことなくパックに戻した。箸を置く。
給食で出たなつかしい味を都内で見つけられたうれしさから、即座にかごに入れてしまったが、どうにも食欲が湧かなかった。
ネクタイを緩め、ふっと息をつく。
リビングの一角には、シンプルな写真立てにたくさんの家族写真が飾られている。あんなにも騒がしいと思っていたのに、家の中は妙に寒々しく、暗く思えた。時計の音がやけに耳につく。
とりあえず、朝ぬいだスウェットに着替える。洗濯かごには汚れたシャツや下着が山積みになっていた。
ベランダで一服。この家は旗竿地に建っており、目の前にあるのは隣家の壁だけ。
煙が、狭い夜空に溶けていく。
寒の戻りというやつだろうか、もう五月も目前だというのにやけに寒い。腕をさすりながら階下に戻る。時間を置いてみたけれどもやはり箸は進まないのだった。
──梓がつくったドリアが食べたい。
ほかほかと湯気を立てていて、とろりとチーズが伸びる。ちょっと甘めのミートソースとややあっさりしたホワイトソースがかかっていて。あれは格別にうまかった。
一度そう思ってしまうとがまんできなくなった。
箸をつけなかった惣菜をパックごとゴミ袋に捨てると、財布とスマホだけ持って外に出た。
土くさい湿った匂いがする夜だった。
ポケットに手を突っ込んで坂道をのろのろと登る。21時を過ぎたというのに、やけに若者が目につく。向こう側からたくさん歩いてくるし、俺の後ろにも、若い女が一人。
ああそうか。入学式から二週間ほど経ったところだ。新歓コンパがあるのだろう。
納得しながら丘を登り続けた。
まだまだ若いつもりでいたが、このほんの少しの距離で息切れしてしまっており、愕然とした。
歩いているうちにじんわり汗ばんできた。十字路に「ベルラ」が煌々と明るく佇んでいる。ベルラは、廉価なチェーンのイタリア料理店だ。
シャッターを下ろして眠る街はどこか昼間と違うような感じがしていたから、なぜだかほっとした。でも今夜、本当に食べたかったのは"ニセモノ"のほうなんだが。
店内は騒がしかったが、歩き進めてみると思ったよりも人が少なかった。
窓際の席を選び、すぐに呼び出しボタンを押した。
「ドリアひとつ」
昔は妻にもかわいいところがあった。
ベルラに行くと、いつも俺がドリアを注文するものだから、家で再現してくれたのだ。
後ろから彼女を抱きしめながら、作る様子を眺めていた。皿にバターを塗り、黄色いメシを詰める。慎重な手つきでホワイトソースをとろりと薄く流し、真ん中にミートソースを乗せる。
それからオーブンへ。
青い花柄のミトンを使って、焼き上がったドリアを慎重に取り出したときの、香ばしいチーズの香りが忘れられなかった。
でも、結婚してからは一度も作ってくれていない。
それどころか、リクエストを出すと毎回目を吊り上げて怒り出すと来た。結局女なんていうのは、釣った魚に餌をやらない生き物なのだろう。
「このまま肝試し行く人ー!」
酔いの混じったどこか上擦った声が響いてきて、俺は不快な気分でそちらに目をやった。大学生の集団か。赤い顔をした男が、上機嫌な感じで言った。
「えー、どこに行くのー?」
甘えたような声で女のひとりが言う。
「首刈峠!」
「え、名前からして怖いんですけど。てかどこ?」
「失恋して自殺した女の霊が出るらしいよ」
「昔、村人が虐殺されたところでしょ?」
「えー、あたしはおばあさんの霊って聞いたけど……」
「俺飲んじゃった」
「後ろ乗れよ」
「……怖いけどあたしも行こうかなぁ」
「じゃあ決まり」
ガタガタと椅子を引く音がして、奴らは一斉に立ち上がった。
「あれ、楓は行かないの?」
ひとりだけ座ったままの女がいる。顔はよく見えないが、今どきの雰囲気だった。薄い前髪の感じとか、くびれるように凹凸のあるロングヘアだとか。
美人に、見えた。
「……私は……、えっと、早朝からバイトなの」
楓と呼ばれた女は、控えめに言った。
「あーそっか。パン屋だもんねえ。残念。またねぇ」
もう一人の女は大して残念でもなさそうに口にすると、ひらひらと手を振った。
喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
しばらく見ていたが、帰る様子はない。怖がりな子なのだろう。俺は立ち上がると、ひとり残って本を読んでいる楓という女に声をかけた。
「なに読んでるの」
女は驚いたように顔を上げた。
妙にアンバランスな女だと思った。髪の毛は明るい、オレンジに近いような茶髪だ。服も今どきの格好をしてる。それなのに眉がもっさりと濃くて、化粧が薄い。
垢抜けきれていない曖昧なこの感じ。──既視感があった。
「……わ、私」
さっと顔が変わった。まるで不快感が滲むような。
「……急いでるんで」
女は見え透いた嘘をつくと、怯えたような表情でガタガタと大げさに音を立てて店を出て行った。
こんな反応をされたのは初めてで驚いた。
それから自分の格好を見下ろす。ああ、このせいか。くたびれたスウェットにサンダルで家から出てきてしまった。だらしなく見えてしまったのだろう。
ややあって、店の外からバイクのエンジン音が響いてきた。さっきの大学生たちだろう。二人乗りしながら、数台のバイクが北のほうへ向かって行った。
なんだか懐かしく思えた。昔は俺も乗っていた。就職して乗る機会がなくなり泣く泣く手放した愛車があった。
たまに肝試しに行ったりしたっけ。同じ学部の山田がオカルト好きだったからだ。万が一にも幽霊を見られたら面白いなと思ったが、ただの一度も怖かったことなどなかった。
首刈峠にも行った。
確かに不気味な場所だったけど何事もない。……でも女や婆さんの霊か。俺らの時代は、サラリーマンのおっさんの霊って話だった。こういうのを聞くと、幽霊ってやっぱり作り話だなって思う。
首刈峠での肝試しがきっかけでよく遊んだ女がいたことを思い出す。既視感の正体がわかった。
さっきの女、あいつに似てるんだ。誰だっけ。髪を染めて、服も今風にしてるのに、顔だけが加工されてないちぐはぐなやつだった。
連れ歩くのは正直いやで、あいつとは夜にしか会ったことがない。
ベルラかあいつの家か、どちらかでしか会わなかった。
学生にしてはちょっといいマンションに住んでいて、バイト帰りに立ち寄ると、エレベーターを降りた瞬間からふわりとチーズのにおいがした。
「……あ」
妻が離婚届を置いて出ていった理由に気がついてしまった。
「しくったな」
そうだ、ドリアを作ってくれたのは妻じゃない。あいつだ。……名前、なんだっけ。
卒業してから10年が経っている。
今さら会いたいとかはないけれど、頭の中に靄がかかったみたいに思い出せないのが気持ち悪い。俺は山田にLINEを送った。
山田はミニマリストを自称している。家には何度か行ったことがあるが、布団とローテーブルしかない。そんなあいつが、卒アルですらすべてデータ化して捨てたと言っていたのを思い出したのだ。
すぐに返信が来た。
同じ学部だった100人の顔が、数枚の画像に分かれて送られてきた。顔写真と名前を流しみる。
スワイプ。スワイプ。スワイプ。
「あれ、いねぇな……」
もう一度、山田にLINEを送る。
「いっしょに肝試しに行った女、覚えてない?」
《いつごろ?》
「いやw 覚えてないってw でも首刈り峠で俺の後ろに乗せたんだよ」
《あー……文学部じゃね?》
いつの間にか、雨が降り出していた。さっき肝試しに行ったあいつら、やばいんじゃないか。
しばらくすると、今度は文学部のページが写真で送られてきた。
スワイプ。スワイプ。スワイプ。
いた。こいつだ。千景。──橿本千景。
「わかった。橿本千景だ」
そう送ったが、山田からは返事がない。
先に頼んであったポップコーンシュリンプが来たから、つまみながら赤ワインを飲む。
橿本千景の顔を、はじめてちゃんと見た気がした。野暮ったい女だという記憶があったが、こうしてまじまじと見てみると顔立ちは綺麗だ。
切れ長のすっきりした目をしているし、くちびるは薄くて形がいい。主張しない形のいい鼻も。素顔がメイクや髪に負けてしまうから、野暮ったいのだろうなと思った。
もう十二年くらい前のことだ。
肝試しに行くとき、こいつをバイクの後ろに乗せた。女は3人いたが、じゃんけんで負けたからだ。
でも、しがみつかれたとき、悪くないなって思った。
そのまま二人で抜けて連れて帰った。昼近くまで寝て、ベルラでドリアを頼んだのは覚えている。
明るい中で見ると、一緒にいるのが急に恥ずかしくなって、会計を終えたら帰った。
ある日、なんとなくそいつの家に行った。金欠だったし、腹も減ってたから、ふらりと。出てきた料理がうまかった。薄味なんだけど沁みるっていうか。
「白飯ですらうめえ」
そう言うとあいつは可笑しそうにわらった。
「いや、まじで。俺もメシ炊くんだけどさ、なんか不味いんだよ」
”映え”とは対極にあったんだけど、あの味に惹かれて月に2回くらい会っていた。
夜の薄闇の中で見ると綺麗に見える、変な女だった。
《それまじで言ってる?》
山田から、やっと返事が来た。
「なにが」
《……橿本千景、首刈峠で死んでるよ》
「は?」
《彼氏に手ひどく振られたとかでさ》
しん、と音が消えたような気がした。
卒業する少し前、千景からいっしょに暮らさないかと言われた。
「は? なんで?」
素で聞いた。
「俺たち付き合ってすらないのに」
そう言って笑うと、千景は目を見開いた。
「え……?」
めんどくさ。そう思って、振り向かずにあいつの部屋を出た。
マンションの外のアスファルトは、黒くてらてらと濡れていて、ヘッドライトを鈍く反射していた。
──あのときも、こんな雨の夜だった。
ふと窓の向こうへ目をやる。雨足がどんどん強まっていた。窓の水滴が滲んで、黄色信号が揺れている。
坂の下のほうから登ってくる女が見えた。
ぞくりと背筋が粟立った。
いや違う。幽霊じゃない。見覚えがある。さっき声をかけた女、たしか、──楓だ。目が合った気がした。
気味が悪くて俺は窓の向こうを見ないようにして、ワインをくっとあおった。椅子のビニールが肌に張りつくように重く冷たい。冷房の風が妙に強くて、テーブルの紙ナプキンがふわりと舞った。
ぽたり。ひたり。
突然、手首に冷たいものが触れた。
驚いて後ずさる。雨に濡れた女が立っていた。楓だ。
じゃらり。腕に違和感があって視線を落とすと、白と黒の数珠が通されていた。
「は?」
楓の髪の毛はぐっしょりと濡れており、水滴がぽたぽたと滴っていた。それが俺の手に垂れているのだ。
「……何これ」
「悪いことは言いません。持ってたほうがいいです」
楓は真っ白な顔をして言った。息を切らしている。雨の中を走ってきたのか、濡れた服が貼り付いていた。
「おい」
俺の声を無視するように、楓はまた走って店を出て行った。
「大丈夫ですか。……変わったお客様ですね」
ちょうどお盆を持って通りかかった店員が、怪訝そうに言った。
「ああ」
「まもなくラストオーダーですが……」
「大丈夫」
店員が去ったあと、数珠を腕から引き抜いた。気味が悪かった。さっき声をかけたときは、あんな、頭のおかしいやつだなんて思わなかった。
窓枠のほうへ数珠を投げるように置いた。
外は変わらず雨が降っていた。
硝子の向こうに女が立っていた。いや、違う。映っているのだ。
俺の後ろに。後ろから抱きしめるようにして。
はくはくと声にならない言葉が漏れた。
──やっと気づいたの?──
掠れた声だった。
──ずっと、そばにいたのに──
そう言うと、別れた女は、愛おしそうに俺の頬に冷たい頬をこすり合わせた。
ドリアの湯気が、夜に溶けていった。
崇《了》




