34 パラダイスロスト
「この世界に特異点が開いたのは半世紀前だと、学園でも義務教育でも教えているな。だが、それは事実ではない。この世界には、奥多摩にあるような巨大な特異点が存在する前から、特異点は在った。それは『窓』と呼ばれていたんだ。今では乱数特異点などと呼ばれている。
おとぎ話で聞いたことが無いか? 妖怪の話や、怪異現象、都市伝説──そして種々の神話。それらは全て──いや観測しうるものだけでも8割が本物だ。
現世と呼ばれる我々の世界。そして隠世と呼ばれる向こう側の世界。それらは一定のバランスを保ち、契約の元で互いの安寧を守ってきた。日本では阿蘇乙女家、武蔵降神家、京都東雲家、奥州藤原家の四家が、その守護を担っていた。……だが、その均衡が崩れたのが半世紀前だ。
隠世とはこの世界の裏側だ。電子に対して陽電子があるのと同じく、世界にも対となる反世界がある。その軸は生命の有無だ。人間や動植物は限りある命を持つ代わりに豊かさを持つ。
だが、あちら側の者は、終わりなき命を持つ代わりに虚無だ。永遠の虚無を抱く彼らは、いつしか、ひと際眩しい『心』を持つ人間に執着するするようになった。それが、悪魔が人に手を出す理由。
それを疎ましく思った西側諸国──ヴァチカンは、彼らを『悪魔』と呼んだ。
来訪者と呼ばれるようになったのは奥多摩が開いてからの事。それまで、俺たちはずっと、悪魔との境界線を守ってきた。
だが、世界同時多発的に特異点は開いた。そして今、実感はないかもしれないが、俺たちは戦争の只中にいる。
奴らは終わりのない豊かさを神から取り戻すために──俺たちを滅ぼそうとする。
そう。十三獣王とは悪魔の諸王の名だ。既に千里行黒龍と純情女王のことは知っているな。
テミスは純情女王の眷属だ。
……それと同時に、アレが持つ天秤は、天秤座を司る十三獣王の一柱でもある。
ああ。テミスというのは十三獣王の一柱正義決壊天秤が存在するための飾りに過ぎない。
お前が二度相対したのは、紛れもない十三獣王だったんだよ」
乙女カルラの話ははいそうですかと信じるには突飛で、それでも彼の目が嘘偽りで私を騙そうとしているようには見えなかった。
彼は徐に服を脱ぎ始め、私がぎょっとする間もなく、私に背中を見せる。そこには、色彩を失った背中があった。灰色で、触れたら崩れそうな背中だった。形容するなら、その背中だけ死んでいる。
「これは──」
「何故俺がこんなに純情女王に詳しいと思う?」
「──契約?」
「乙女家は代々純情女王と契約を行い力を借りている。その代償は寿命だ。あと何年生きられるかはわからない。だがその分、この世界は守れる」
「なんでそんな契約を──」
「誰かがやらないといけないからだ」
服を着たカルラは静かに語り出す。
「純情女王は元々穏健派なんだ。他の諸王とは違う。契約はあるが人に力を貸してくれる。そして乙女座が持つ天秤──正義決壊天秤と共にバランサーとして機能していた」
私はその口ぶりから、次を読み取った。
「6年前の千里行黒龍が崩した?」
「物分かりが良いな。千里行黒龍は蛇使い座の王だ。そして、黄道十二星座からはじき出された異端者でもある。それが前触れもなく現世に降臨した。当然、現世と隠世のバランスは崩れる」
「でも、先代の剣聖が倒したんじゃ……」
「魔の力を借りて、魔の王を倒せると思うのか」
「じゃあ──」
「勝てるわけがない。だから封印したんだよ」
彼の指先が私の胸をノックする。ここに──と。
その言葉で、ここまで持っていた疑念が確信に変わり、心臓が揺れた。
私は黙って胸に手を当てる。
「今までそれがどこにあるかなんてわからなかった。あの当時現場にいた人間は50万人以上いたからだ。なんでお前なのかも知らない。でもお前はそれをこの年になるまで抱え続けていた。俺は見つけた。論理的じゃないが、状況がそう言っている」
「私の中に何かいるって言ってたのは」
「幾多の悪魔を喰った龍王。蛇使い座の千里行黒龍だ」
「そんなの……──なんで誰も教えてくれないの」
「言ってどうなる。パン屋の娘に、悪魔の大名が住んでるなんて、お前は信じるのか?」
私は俯いた。でもだったら、なぜ今──。
「お前の中の龍が目覚めようとしているのか、或いはその力と向き合うことを決めたか。それはわからないが、この世界にもう一度千里行黒龍が顕現すれば、またバランスは崩れる。言っただろ、バランスを守ってきたのは正義決壊天秤なんだ。だからそれを持つテミスはお前を狙った。均衡を維持するために」
「あなたは純情女王と契約しているから、私に目星をつけられた」
「あの時はまだかまをかけていただけだったがな。しかし忠告はした。器であるお前にひびが入れば水は流れ出す」
彼は眠る東雲さんを見つめた。
「被害者はもう出ているんだ」
「──っ」
「これは状況からの推測でしかない。だが、ほとんど当たっていると思う。東雲スズカは天秤座、均衡の王正義決壊天秤と契約をした。心臓を差し出して、何かを得たんだ」
「心臓はどうなるの──?」
「視覚的には奪われた様に見えるが、あれはあくまで概念だ。俺の背中が死んでいるが機能に問題がないのと同様に、心臓は奪われたが血液循環に問題はないんだろう。でなければここで眠ってない」
「なら、東雲さんはどうなるの? 助かるの? 私はどうすれば──」
「訊いてばかりだな。答えてもいいが、それに何の意味がある。俺はお前よりも情報を知っているというだけだ。大きな問題に対する解決策を持っているわけじゃない。──お前自身が探すしかないんだよ」
私、自身が──。
そうだった。私は昔から独りだった。誰にも頼らず、頼れないでここまで来た。私は幸せの代わりに、ひとりで歩くための足を貰った。
何をすべきかは、もう決まっている。
「君はどうしたい?」
私は東雲さんのおでこに手をやった。ツンデレのおでこ。姫カットはいつも誰かに頼んでいるのかな。黒髪、手入れ頑張ってたな。
「勝つよ」
「え?」
「定期考査本選で、彼女と戦って勝つ。私がしたいのはそれだけ」
「そんな事をして何の意味がある──ッ! 余計に被害を出すぞ!」
「私が東雲さんなら天秤座にこう言うよ。『浅倉シオンをぶちのめせる力をくれ』って」
「まさか……──」
その時、東雲さんのまぶたが持ち上がり、瞳が見えた。その右目には、天秤座のサインが浮かび上がっていた。
「アタシに触れないで。人間ごときが』
そう言って起き上がり、点滴を引き抜く彼女。ぐっと顔を歪め頭痛に苦悶する。だが、その目は冷酷に燃えていた。
「……せいぜい、足掻くことね。小娘もこう言っている』
東雲スズカはそう言って立ち上がり、壁に何度もぶつかりながら苦痛の表情を浮かべ、そしてゆっくりと、その部屋から立ち去った。
その目に宿る何かが、私たちに近づくなと言っていた。何も出来ず見送ったふたりは目を逸らした。
「……──天秤座と東雲スズカの人格が混ざり合っている」
「じゃあなおさらぶっとばさないとね。私の友達の中から出てけって」
私はすっと立ち上がり歩き出す。
「どこへ行くんだ」
「一旦寮に戻るよ。気持ちの整理をつけたいの」
私は走り出した。廊下にはもう、誰もいない。
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