百九十三話 教えてくれたもの④
何の変哲もない山間の景色が、どこまでも続いている。
青空は突き抜けるように澄んでおり、綿をちぎったような雲が気持ちよさそうに泳いでいた。シャーロットは小川のほとりに咲く小さな花を見つけ、顔をほころばせる。
「ふふ、昔を思い出します。昔はよくお花を摘んだりして、ひとりで遊んでいました」
「同じ年頃の子供はいなかったんだっけか」
「そうですねえ。このあたりはかなりの田舎ですし、移住する人も少なくて……あっ、でもハーヴェイさんは来たことがあるんでしたっけ」
「ああ、そんな話もしたなあ」
先日、エヴァンズ卿が屋敷を訪れたときのこと。
付き添いに来ていたハーヴェイと、シャーロットの故郷の話になったのだ。
それがきっかけでこうして墓参りに来たのだが――アレンは首をひねるしかない。
「だが……叔父上の反応は妙だったなあ」
和やかな、当たり障りのない会話だったと思う。
それなのにその地名を聞いて、ハーヴェイは少しばかり意外そうに目を丸くした。
『へえ、シャーロットさんの故郷はあの辺りなんですか。私も昔、一度だけ行ったことがありますよ』
『そうなんですか? 奥様とご旅行とか?』
『いえ、暗殺者に狙われまして』
『……はい?』
きょとんと目を瞬かせるシャーロットに、ハーヴェイは事もなげに続ける。
『仕事で訪れた街で、手練れの暗殺者に襲われたんです。難なく返り討ちにしたんですが、下手人を逃がしてしまって。それでけっこうあちこち探して回ったんですよねえ。いやあ、懐かしいなあ』
『やっぱりアレンさんのお父様なんですね……』
『納得しないでもらえるか』
しみじみするシャーロットだった。悪気がないのが厄介である。
それはともかくとして、アレンは顎に手を当てて唸る。
『しかしその話は初耳だな。叔父上が一度は敵を逃がすとは珍しい』
『いやあ、それが厄介なことに……おや?』
そこでハーヴェイの笑みが途端に凍り付いた。
シャーロットとアレンの顔をまじまじと見比べて、おずおずと問う。
『……シャーロットさんがこの地にお住まいだったのは、十年以上前なんですよね?』
『は、はい。その通りですけど……どうかしましたか、ハーヴェイさん?』
『顔色が変だぞ、叔父上』
『…………っっ!?』
その瞬間、ハーヴェイはガタッと席を立った。
『きゅ、急用を思い出しました! 私は一足先に帰ります!』
『お、おう。気を付けてな……?』
勢いに押され、アレンを含む全員がぽかんとそれを見送ったのだった。
今にして思えば絶対に怪しい。
アレンはあごに手を当てて、じっくりと考え込む。
「ひょっとすると、暗殺者云々はデタラメで、この辺りに昔の女が住んでいるのかもしれんな……ちょっと後で探してみようか」
「だ、ダメですよ。ご夫婦喧嘩が起こってしまいます」
慌てて止めようとするシャーロットだ。
しかし、ふと思い付いたとばかりに顔を明るくする。
「もしかして、アレンさんの故郷がこの辺りなんじゃないですか? だからハーヴェイさんが慌てたのかも」
「む……その可能性は考えてもみなかったな」
アレンはあたりを改めて見回す。
やはりどこにでもあるような山間の風景だ。
なだらかな稜線にも、地面に生えた草花にも、見覚えはない。そのはずなのに――。
(覚えはない……よな?)
なぜか、自信を持って断言することができなかった。
シャツのボタンを掛け違ったまま過ごしているような、足の裏が妙にむずがゆいような、そんな据わりの悪さに襲われる。
「あっ、見てください。アレンさん」
アレンが考え込むなか、シャーロットが小川の対岸を指し示す。
そこにはただの雑草が茂るだけだった。
「もう枯れてなくなっちゃっていますけど、あそこに昔――」
「ノイチゴ……っ!?」
その単語がふっと口をつき、一番驚いたのはアレン本人だった。
シャーロットは目をキラキラさせる。
「見ただけで分かるんですね。やっぱりアレンさんは博識です」
「いや、そんな馬鹿な……」
昔そこに何が生えていたかなんて、地質と周囲の環境を調べれば推測できる。
だが、今のはそんな思考プロセスを経て答えたものではなかった。
知らないはずの小川に小さな赤い実がなっている光景が、まざまざと脳裏に浮かんだのだ。
(まさか本当に、俺はこのあたりの出身なのか……?)
アレンはますます思考に沈むのだが、シャーロットはそれに気付かなかった。
懐かしさからか、ついつい足が逸るらしい。
アレンの数歩先を歩きながら、道に沿って大木を曲がる。
「この向こうに……あっ!」
そこで大きな声を上げて立ち止まった。
呆然と立ち尽くす彼女の隣にアレンは並ぶ。
果たしてその向こうには、小さな家が建っていた。
平屋のシンプルな家屋である。人が住まなくなって久しいのか、外壁にはひびが入ってしまっていて、家の周りには雑草が目立つ。もうあと何年も経てば自然に埋もれてしまうだろう。
その空き家を前にして、シャーロットは口元を押さえるのだ。
「お、お母さんと暮らした家です……まだ、残っていたなんて」
彼女はそのまま言葉を失い、家を見つめる。
亡き母との思い出が想起され、感極まっているようだった。
それにアレンは声をかけることができなかった。
感傷を邪魔したくなかった――わけではない。
「なっ、あ……!?」
雷に撃たれたような衝撃で、息すら止まっていたからだ。
アレンはその小さな家を前にして、確信を抱く。
(間違いない……! 俺は、この場所を……知っている!)
そう気付いたその瞬間、ふっとアレンの膝から力が抜けた。
「へっ……!? あ、アレンさん!? どうしたんですか、アレンさん!」
「う……」
シャーロットが何かを叫んでいる。
それが分かっていても、地面に倒れたアレンに答える余力はなかった。
抗いがたい何かに誘われるまま目を閉じて、泥のような眠りについた。
◇
それは、底冷えのする冬のある朝のことだった。
「わ、あ……!」
少女が窓を開けると、家の外は真っ白に染まっていた。
家に続く小道やずっと向こうの山に至るまで、すべてがくすみのない純白だ。
生まれて初めて見る雪景色に、少女は声を弾ませる。
「おかーさん、見てください! 雪です!」
「あら、本当だわ」
母親も外をのぞき込み、にっこりと笑う。
しかし彼女はすぐに背を丸め、小さく咳き込みはじめた。少女は慌てて母の背中をさする。
「だ、大丈夫ですか、おかーさん」
「……平気よ。すこし冷えただけだから」
母親はかすかに笑い、少女の頭をそっと撫でる。
「さあ、朝ご飯にしましょう。その前に、外を見ていらっしゃいな」
「雪……さわっても平気ですか?」
「もちろん。でも、手袋は忘れちゃダメよ」
「はい!」
こうして少女は母が作ってくれたマフラーと手袋をつけて、外に繰り出すことになった。
庭も一面雪で埋まっており、少女が歩くたびに小さな足跡が刻まれる。
まるでまっさらな紙に、自由にお絵かきしているみたいだ。
そのワクワクで、凍えるような寒さもへっちゃらだった。
「えへへ……あれ?」
ふと少女は小首をかしげる。
少女が一番のりで歩くはずの雪面に、他の小さな足跡を見つけたのだ。
それは庭を横切って小道の方へと続いていた。不思議に思って、少女はその足跡を追いかけた。他の町民とは誰ともすれ違わず、やがて小川のほとりにたどり着く。
足跡は、雪をかぶった茂みの中へと続いていた。
「……?」
少女は意を決し、茂みをのぞき込む。
そうしてハッと息を呑んだ。
「だ、だあれ……?」
「……ちっ」
小さく舌打ちするのは、不思議な髪色をした少年だった。
左右の髪がそれぞれ白と黒に染まっており、薄汚れた服を身にまとっている。
初めて見る少年だった。少女より少し年上だ。
彼は少女を睨んでぶっきら棒に言う。
「俺にかまうな。あっちに行け」
「で、でも……」
「うるさい。消えろ」
「ひっ……!」
少年は鋭い目で凄んでみせた。
今にも噛み付かれそうなその気迫に、少女は小さく悲鳴を上げて茂みを出た。
しかし、少し走ってから立ち止まってしまう。息を切らせながらも、そっと茂みを振り返る。少年が出てくる気配はない。
少女が歩いたせいで、元の小さな足跡は完全にぐしゃぐしゃになっていた。
「……どうしましょう」
家に戻って、母に『変な男の子がいた』と訴えるべきだろうか。
それとも――少女はじっと茂みを見つめたまま、逡巡する。
「ちょっとすみません」
「っ……!」
慌てて振り返れば、見知らぬ男が立っていた。黒いローブをまとっており、柔和な笑顔を浮かべている。男はしゃがみ込んで少女と目線を合わせ、にっこりと笑う。
「こんにちは、お嬢さん。ちょっと聞きたいことがあるんですが」
「な、なんですか……?」
「この辺りで子供を見ませんでしたか? こんなふうに、白と黒の髪をした男の子なんですが……」
その男が事細かに語るのは、間違いなくあの少年のことだった。
少女はもう迷わなかった。ゆっくりと首を横に振る。
「し、しりません。この町には男の子なんていません」
「そうですか……もしも見つけたら誰か大人に言ってくださいね?」
男は軽く会釈して、小径を急ぎ足で去って行った。
その背が見えなくなってから、ようやく少女は息をつく。
「び、びっくりしました……」
「おい、ちび」
「きゃっ!?」
また突然、背後から声をかけられた。
少女がおずおずと振り返れば、件の少年が怖い顔で睨んでいる。
「どうして俺を庇ったんだ。何を企んでいる。言え」
「だ、だって……」
少女は目の端に涙を溜める。
震える指で示すのは、少年の膝頭だ。薄く血ががにじんでいて、少女にとっては見ているだけでも痛そうだった。
「ケガ、してるから……」
「……はあ?」
少年がぽかんと目を丸くする。
しばし、ふたりの間に重い沈黙が落ちた。
小川で魚が跳ねる。小さな水音が響いたのを合図にして、少年はぷいっとそっぽを向く。
「……変なやつ」
「えへへ……」
少女は頬をかいて笑う。
相変わらず少年の態度は冷たいものの、もう怖さは感じられなかった。
どこまでも続く真っ白な世界。そこにいるのはふたりだけ。
それが少女にとっては何か特別なことのように思えてならなかった。
逸る気持ちを抑えきれず、少年の顔をのぞき込む。
「あ、あの、わたしはシャーロットっていいます。あなたは?」
「……アレン」
少年は、小さな声でそう名乗った。
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