帰路
翌朝、一睡も出来なかった私は一足早く一人ムノの屋敷に帰ることになった。
本来ならば父も一緒だったのだが、父はもう一度王宮に赴くようであった。その理由は教えてはくれなかったものの、昨夜の件に関わることに違いなかった。
父はタニイからどこまで聞いたのだろう。気になりながらもそれを尋ねるのは何だか憚れて、忙しそうに準備して早朝に出て行く父に何も声を掛けられなかった。
そんな父の代わりに見送りに来たのは兄たちだった。
「今回のこと、お前は何も気にすることはない」
輿に乗り込んだ私に長兄が安心させるような口調で告げた。
ナイルから流れてきた涼しい朝の風が、砂を含んで吹き抜ける。陽の眩しさに目を細めて「もうテーベに来ることはないかもしれない」と考えた。
「母上には昨夜の内に知らせを出しておいた。話を聞いてくれるだろう。ゆっくり休め」
「ありがとう……あの、王子はご無事かしら」
どうしても気になっていたことを聞くと、アネンは母に似た微笑を浮かべて首を縦に振った。
「ぴんぴんしていらっしゃる」
兄の返答に胸を撫で下ろした──けれど。
「今回のことで、私の縁談がなくなったりしないかしら。またお父様たちを困らせることにはならないかしら」
それだけが心配だった。もう両親を困らせたくはない。そのことを考えるだけで泣き出しそうだ。
「馬鹿だな。そんなことを心配しているのか」
鼻で嗤ったのはアイだった。神官の服装をしているから、仕事の合間を縫って長兄と共にわざわざ来てくれたらしい。普段いけ好かないはずの次兄ですら、今は頼もしい存在に見えてくる。
「お前は自分が今どういう立場に立たされているのか分かっていないんだ。縁談どころじゃない」
「アイ」
アネンが「余計なことは言うな」と弟を止めた。
「ティイ、縁談のことも気にするな。何も問題はない」
「兄上」
アイはアネンの肩を掴んだ。
「我らの妹は頭が良い。好奇心の塊だ。それだけが取り柄なんだ。ムノに帰って自分の立場を思い直す時の手がかりを教えておいてやろう」
アイは兄を押しのけて、私の方へ踏み出した。
「俺は昨日、王子が倒れられて運ばれた時、父上の指示で王子の傍に居たんだ。ちゃんとご無事だからそこは心配しなくていい。で、その場にいたのは王子の側近と最高神官殿と侍医、そしてヘルネイトだ。王子が心配でついてきたらしい」
ヘルネイト。倒れている王子に走り寄ったあの人。彼女が彼の傍にいたと知って、無意識に肩を落とす自分がいる。
「目覚めたあの王子、あの女が胸に縋り付いて看病してたってのに、最初に呼んだのはお前の名だった。ティイはどこだ、と。俺はこの耳で聞いたよ」
アイの得意気な顔を息を飲んで見つめた。
私を、呼んでいた。あの人が。
「ヘルネイトのやつ、お前に相当妬いてたぞ。王子の前で顔を真っ赤にしてた」
そう話すアイはとても楽しげだ。
「ヘルネイトはもともと王子の気を引こうと必死だった。あの美貌から自分こそが選ばれると信じて疑わなかった自信の塊だ。だが違った。自分ではなかった。王子の頭にはお前だけらしい」
寝不足のせいか兄の言葉の意味がうまく飲み込めず、ただただ混乱してしまう。
「今回のこと、最高神官殿には伝わっているだろうから、ヘルネイトも勿論知っただろう。今までの宴で、広間に姿を現さない王子が正体を隠してお前と会っていたことも。お前に惚れたと発言したことも。大事な自分の即位名を誰よりも先にお前に教えたことも」
昨日のことがついさっきの出来事のように脳裏に甦ってきた。兄たちがここまで知っているのなら、多くの人が私が王子を殴ったという失態を知っているのだろう。頭痛がしてぐっと目を閉じた。
「ヘルネイトは昨夜屋敷でひどく取り乱し、狂乱状態だったらしい。お前に王子を取られたと。騙されたと。笑えるな」
言われてはたと顔をあげる。アイはさも人を小馬鹿にした薄笑いを唇に浮かべていた。
彼女が望んでいたのは好きな相手──王子の側室になることだった。
私が取った、ということは、それは「私が側室になる」ということだろうか。
「でもアイ兄様、それは」
「あとはじっくり自分で考えることだ。お前ならもう大方察しはついているだろうが」
これ以上、兄たちは具体的なことは何も私に教えてくれなかった。
二人に見送られ、私は父の配下の衛兵と従者、ラジヤをはじめとした侍女たちとともに帰路についた。
テーベからムノに戻った私を、母は優しく迎え入れてくれた。
いつもと変わらず接してくれて、今までのことがすべて夢であったかのような感覚になる。
ただ、何かがいつも通りではなかった。どこにもやれない気持ちのまま、私は着替えを済ませるとすぐに母の部屋に向かった。
「お母様」
メティトに告げて部屋に入ってきた私を見て、母が目を細めた。
「まあ、ティイ。もう着替えを済ませたの?長旅だったのに休まなくて大丈夫?」
寝台に腰掛け、こちらを振り返る母の暖かな微笑みを目にしたら、身体から空気がすっと抜けるように力みが消えていった。
「お母様……!」
そのまま足は駆けだし、脇目も振らず母の胸に飛び込んだ。
「まあ、ティイったらどうしたの」
母は迷うことなく、私を抱き締めてくれる。
優しい母の温もりがある。大好きな母の香りに満ちている。柔らかな手で私の髪を撫で、乱れた髪を耳に駆けてくれる。
私は、母にテーベでの出来事を何も話さなかった。自分から母に言ってしまったらすべてが変わってしまう気がして、何も言えなかった。兄たちからの知らせですべて知っているだろう母もまた、私に何も尋ねなかった。
幼子だった頃のように、私は母に思う存分に甘え、母は赤子を抱くように私を包んだ。
──あとはじっくり考えることだ。
次兄の言葉が脳裏に響く。
自分の周りが私を残して大きく動き出していることだけが明確だった。それを実感するのが怖くて、考えることをやめて安心の中に身を投げ出してしまいたくなる。
落ち着かせるように肩や背を緩やかに撫でる母は「もう子供ではないのだから」と仄かに笑って言いつつも、どこか寂しげだ。
「でももう、こうすることもないのかしら」
腕の中にある私の髪を撫でて、母はそう零した。
私がこの屋敷から居なくなるとでも言わんばかりに。
ぐっと瞼を閉じる。
父から次の知らせが来るまで、もう何も考えまいと心に決めた。




