ミルターナ小紀行(7)
「やっぱり……ヴォルフ、だよね……」
目の前には泣きそうな顔をしたカリナがいる。
ヴォルフはどうしていいのかわからずに固まった。そのうちに、誰かが近づいてくる足音がした。
ヴォルフはとっさにカリナの腕を掴んで建物と建物の間の影に引きずり込む。
やがて、足音は通り過ぎて行った。
ほっとして視線を下げると、至近距離にどうしていいのかわからない、というような顔をしたカリナがいた。
そこでやっと今の状況を認識して、ヴォルフは慌てて掴んだままだったカリナの腕を離した。
「ごめんっ」
望まぬ愛人契約を持ち掛けられ、さらには卑劣な手段で襲われかけた直後なのだ。
あまり男の自分が近づくべきではないだろう。
そう思って離れようとした瞬間、衝撃を感じた。
「っ……ヴォルフ!」
柔らかく暖かな感触。おそるおそる視線を下げると、カリナが力いっぱいヴォルフに抱き着く……というよりもしがみついていたのだ。
慌てて引きはがそうとして、そこでヴォルフは気が付いた。
カリナの体は、細かく震えていた。あんな出来事があった後では無理もないだろう。
カリナは小さく嗚咽を上げている。
ヴォルフは引きはがそうと上げかけた手を、そのまま下ろした。
……抱きしめ返すことはできなかった。どうしても、脳裏にクリスの顔がよぎる。
しばらくした後、カリナは自らそっと体を離した。
その目は少し赤かったが、もう涙は流れてはいなかった。
「……ごめんね」
「いや……大丈夫」
カリナはそっと目元をぬぐうと、まっすぐにヴォルフを見据えた。
「ごめんね……ちょっと、感傷的になっちゃって」
「……さっきの男は」
「前に依頼で知り合ってね。ちょっとしたお金持ち。それはいいんだけど……なんでか気に入られちゃったみたいで、冒険者なんてやめて愛人にならないかって持ち掛けられてたんだ」
カリナは苦しげな顔でそれでも笑顔を作ると、ぐっと拳を握った。
「住む場所も、きれいな服も、お金もなんでもくれるっていったんだけど……馬鹿みたいだよね。そんなので人の心を買おうとするなんて」
「…………あぁ、最低だ」
そう答えつつも、ヴォルフはじわじわ嫌な事実に気づき始めていた。
「もう冒険者として働かなくてもいいって……そんなの、私が好きでやってることなのに。飼い殺しにしようとするなんて……」
金で、権力で、立場の弱い相手を縛り付けようとする。
……同じことをしたのは誰だ?
「そんな手段で、愛が手に入るわけがないのに」
……そうだ。その通りだ。
「愛人なんてやめた方がいい。絶対に後悔する」
「うん、わかってるよ。また来てもはっきり断るし、これ以上やるなら公にするつもり」
「……そうだ、それがいい」
そう言うと、カリナはやっと安心したように微笑んだ。
「……ありがとう。細かいことは聞かないけど、ヴォルフに会えてよかったよ」
彼女とて、ヴォルフが吸血鬼だと疑われて解放軍から逃げ出したのを知らないわけはないだろう。
それでも以前と同じように接してくれる彼女に感謝した。
「あ、でも……ひとつだけ聞いてもいい?」
カリナは少し躊躇した様子で、それでも顔を上げてヴォルフを見据えた。
その気迫に思わず頷くと、彼女はほっと表情を緩める。
「クリスとは……今も一緒にいるの?」
正直に答えてもいいものか、迷った。
それでも……彼女に嘘はつきたくなかった。
「……あぁ。あの人も一緒だよ」
「そっか……やっぱりそんな気がしたんだ」
カリナはくすりと笑うと、何かを思い出すように目を閉じた。
「二人がいなくなって……心配だったんだ。でも、一緒にいるなら大丈夫だよね」
クリスはヴォルフと共にいる。
……それは、本当にクリスの意思なのだろうか。
「ふふ、私が怪我したとき、あの子自分の方が泣きそうな顔して怒って……きっと今も変わらないんだろうな」
「……今も、よく怒ったり泣いたりしてる」
「やっぱり!」
そう言って笑ったカリナは一瞬目を伏せ、そしてまっすぐにヴォルフを見つめた。
「あ、あのね……ヴォルフ、私…………」
カリナは何度か緊張したように息を吸ったり吐いたりしていたが、やがて小さく頭を振ると一歩ヴォルフから離れた。
「……引き留めてごめんなさい。助けてくれてありがとう」
「これからも気を付けた方がいい。あと、誰かに相談した方がいい。アニエスなら頼りになるだろうし、ダリオなら怒って相手の家に特攻しそうだ」
「ふふ、そうだね」
カリナは幾分かすっきりとした顔をしていた。
大通りまで彼女を送り、手を振って別れる。
カリナは何度も、名残惜しそうにこちらを振り返っていた。
彼女に背を向け、ヴォルフも再び歩き出す。
……どうしても、一人になるとダリオやカリナの言葉が蘇ってしまう。
クリスは、ヴォルフのことを好きだといったことは一度もない。
……なのに、どうして自分はあんなに浮かれていたのだろう。
『そんな手段で、愛が手に入るわけがないのに』
あぁ、その通りだ。
金で愛が買えるなんて愚かな考えだ。金で愛人を囲おうとするなんて最低だ。
……その結果生まれた子供が、どんな思いをするのか考えもしない癖に。
「……それは、僕も同じか」
ヴォルフの母親は貴族の妾だ。両親がどのように出会いそうなったのかは知らないが、周囲の反応からしてとても歓迎されるものではなかったのだろう。
幼いころから、自身の存在が疎まれていたのは知っていた。
優しくしてくれたのは、兄たちと少数の使用人だけだ。
だから、ヴォルフは父が苦手だった。
今でも対面すると事務的な話をするのがやっとだ。
心の底では、妻を持ちながら母を妾にした父を軽蔑していたのかもしれない。
……だが、そんなヴォルフも、同じことを繰り返そうとしている。
そう、気が付いてしまった。
クリスはヴォルフのことを好きだといったことはない。
正直な人だ。きっと……自分の気持ちに嘘はつけなかったのだろう。
クリスやクリスの家族が危険にさらされる可能性を考えて、リグリア村から自分の元へと連れてきたのはヴォルフだ。
あそこでラザラスに任せることもできた。
だが、ヴォルフはそうしなかった。したくなかったのだ。
クリスを誰かに渡したくない。そんな、幼稚な独占欲でクリスを自分のもとへと縛り付けようとした。
あの時のクリスに正常な判断ができたとは思えない。
元々、追いつめられるととんでもない方向へ進んでしまう人だ。
きっと……思いつめてしまったんだろう。
今の生活はヴァイセンベルク家が与えたものだ。
ヴォルフの機嫌を損ねれば、路頭に迷うどころか家族を危険に晒すかもしれないとクリスは考えたのだろう。
そこで、クリスは望まずヴォルフの恋人のように振舞うようになった。
……きっと、本人にその自覚はないのだろう。
クリスは追いつめられ、思いつめ……ヴォルフを愛していると思い込むようになってしまったのだ。
だが、心の奥底では激しく嫌悪を感じていた。
だから、ヴォルフへの好意など口に出せなかったのだろう。
……それなのに、自分はなんてことをしてしまったのだろう。
クリスの気持ちにも気づかず恋人のように振舞い、血を捧げさせ、あまつさえ半ば強引に抱き、純潔を奪った。
前世が女だったとはいえ、クリスは17年間男として育ったのだ。
日常生活ならまだしも、男と体を重ねる行為となれば嫌悪が、抵抗があって当然のはずだ。
実際に、その時クリスはひどく泣いていた。それを哀れに思ったが、止められなかった。
きっとその時点で、クリスは諦めたのだろう。
気が付けば、街はずれの宿屋へと戻ってきた。
気が進まないまま、部屋へと歩みを進める。
小さく部屋の扉を叩くと、すぐに中から声が聞こえた。
ぎぃ、ときしんだ音を立てて扉が開く。
そこから、クリスが顔をのぞかせた。
「おかえり、遅かったんだな」
その柔らかな笑顔を見ると、胸が締め付けられる。
……できれば、何も気づかなかったことにして、今まで通りの関係を続けたい。
だが、そんなことはできない。
クリスがそうでないとしても、ヴォルフは誰よりも深くクリスを愛していたから。
これ以上、クリスを傷つけたくはない。
「……? なんか疲れてるけど大丈──」
心配そうに伸ばされた手を振り払う。その途端、クリスは驚いた顔をした。
「……もう、いいんです」
そんな風に、無理をする必要はない。
もう、自由になっていいんだ。
「あなたが何をしようが、どう振舞おうがあなたとあなたの家族の安全はヴァイセンベルク家が保証します」
「え……?」
クリスはヴォルフが何を言ってるのかわからない、といった様子で目を見開いている。
「だから…………もう、やめましょう」
意を決して告げると、クリスの顔がこわばった。
その体を抱きしめたい衝動を押さえ、ヴォルフは一歩身を引く。
「この部屋は好きに使ってください。今夜は帰りませんから」
「な、なに言ってんだよ……全然わかんないよ!」
クリスが慌てたようににじりよってくる。
その肩を強く抑えると、クリスはいよいよ顔をひきつらせた。
「や、やめるって何を……」
大きく息を吸い、ヴォルフは最後の一言を口に出す。
「もう、こうやって恋人同士のように振舞うのはやめようって言ってるんですよ」
呆然とするクリスの体を軽く押し、部屋の中へと押し戻す。
これ以上その顔を見られなかった。
素早く扉を閉め、未練を断ち切るようにヴォルフは部屋に背を向け駆けだした。
相手を思うが故の空回りです!




