星を探して(4)
『……めん……ご、めん…………』
必死に絞り出したような、苦しげにかすれた声だった。
一年ぶりに聞いたクリスの声は、激しくヴォルフの魂を揺さぶった。
やっと見つけた、誰よりも大切な人。
◇◇◇
「幸い処置は早かったので大事には至らないでしょう。まったく、彼女も無茶をする……」
一通りクリスの診察が終わった医者がそう口にする。すると、傍らで固唾をのんでその様子を見ていた夫婦がほっと息をついた。
「あぁシレーナ……よかった……」
女性の方はすすり泣きながらクリスの手を握っている。
クリスは相変わらず眠ったままだ、医者の話だとじきに目を覚ますという事だったが、どうしても不安がぬぐえない。
じっと眠るクリスを見つめていると、そっと肩を叩かれた。
「……少し、いいかい?」
先ほどまで慰めるように女性の肩を抱いていた男性が、そっとヴォルフに囁いた。
そのまま、クリスを女性に任せ、音をたてないようにそっと部屋を出る。
ゆっくりと部屋の扉を閉めると、男性はヴォルフに向き直った。
「……まずは、礼を言わねばならないな。この島の危機を救ってくれてありがとう、君がいなければ今頃どうなっていたか……」
「いえ、当然のことです」
卑劣な手を使い次々と支配勢力の拡大を続けるルディス教団。その排除は、ヴォルフにとっては当然のことだった。
「私はパトリック。今あの子と一緒に居るのは妻のマルタだ。それで……」
パトリックは少し緊張したように大きく息を吸うと、真剣な目でヴォルフを見つめた。
「……君は、あの子のことを知っているのかい?」
ダリオの話では、この島に流れ着いた『人魚姫』は記憶喪失という事だった。
それでも間違いない。間違えるわけがない。
……あれは、クリスだ。
「…………はい。ずっと、探していました」
もう二度と会えないかと思った。
心のどこかで、クリスが既に死んでいるのではないかと疑った事もあった。
だが、クリスは生きていた。
「やはりそうか……あの子は一年ほど前に島の海岸に流れ着いてね。口もきけず過去のことも覚えていないようなので、今日まで私と妻と一緒に暮らしていたんだ」
──記憶喪失
クリスは、過去のことを……ヴォルフ達のことを覚えていないのだろうか。
そう考えて少し心が沈んだが、それに気づいたようにパトリックに声を掛けられた。
「それでも、あの子はとっさに君を庇おうとした。おとなしいあの子がそんな事をするなんて驚いたよ」
クリスがおとなしい……?
ヴォルフにはその言葉が信じられなかった。
「君を見て記憶が戻ったのか……それとも反射的にそのような行動に出たのか……まぁどちらでもいいだろう。あの子の記憶が……それに声も戻ったとなれば喜ばしいことだ」
パトリックは心底嬉しそうにそう言って笑った。その表情を見て、ヴォルフは安堵した。
一年間、クリスがどこかで苦しんでいるのではないかと気が気ではなかった。
だが、目の前の男性は見た通りの善人だろう。クリスが彼らに保護されていたとなると、胸のつかえが取れたようだ。
パトリックに促されクリスの眠る部屋へと戻る。
大丈夫、クリスはすぐ傍にいる。目が覚めたらゆっくりと話をすれないい。
パトリックの言う通り、もしかするとクリスは反射的にヴォルフを庇っただけで、記憶が戻っていないのかもしれない。そんな懸念もあったが、すぐに打ち消した。
記憶があろうとなかろうと関係ない。クリスはクリスなのだから。
◇◇◇
腕の中で嗚咽を上げていたクリスがおとなしくなった。何かあったのかとそっと様子を確認して、ヴォルフは驚いた。
「…………寝てる?」
どうやらクリスは泣き疲れて眠ってしまったようだ。思わず脱力してしまう。
……クリスは、記憶喪失ではなかった。
ただ目の前でテオの死を見たショックで口がきけなくなり、テオを救えなかったことを誰かに糾弾されることを恐れて記憶喪失の振りをしていた。
その行動を咎めるつもりはない。そんなことできるはずがない。
『…………あなただけでも、生きていてくれて良かった』
その言葉に嘘はない。
クリスが生きていた。ただそれだけで、ヴォルフにとっては至上の奇跡のようなものだ。
腕の中で眠るクリスをもう一度強く抱きしめる。
確かな温かみが伝わり、ぎゅっと胸が詰まったような感覚が込み上げる。
思い返せばたった一年だったが、クリスを探す日々はひどく長く感じられた。
これからは何があっても傍でクリスを守ると誓い、そっと力の抜けた体をベッドに横たえる。
名残惜しいが、まずはあの親切な夫婦に事情を説明しなければならない。
その後のことは……ゆっくりと考えればいい。
もう一度そっとクリスの髪を撫で、ヴォルフは意を決して部屋を後にした。
◇◇◇
クリスは大陸に戻り、テオの意志を継いでルディス教団と戦うことを決めた。
ヴォルフとしてはできればこの島に残って欲しかった。今の大陸は安全とは言い難い。クリスがここに残るなら、同じくヴォルフもクリスの傍にいるつもりだった。
それでも、クリスは苦しみながら戦う道を選んだ。
……きっと、テオの為に。
「そっか……ルディス教団か……」
島を案内するというクリスに連れられて、今は二人で海岸沿いを歩いている。
簡単に今の世界の状況を説明すると、クリスはじっと何か考え込んでいた。
一度にいろんな話を聞きすぎて中々状況を整理しきれないのだろう。だが、それはヴォルフも同じだ。
クリスはアンジェリカという女性の生まれ変わり。更には、そのせいでルディス教団の長である枢機卿に狙われている。
とにかくわかるのは、強大な敵を相手に油断はできないという事だけだ。
「……いいんですか、教団と戦えば、その枢機卿の目につくかもしれない」
言い聞かせるようにそう告げると、クリスの体がびくりと跳ねた。
細い肩が細かく震えている。クリスは、よほどその枢機卿が恐ろしいようだ。
百年前からアンジェリカを──今はクリスを狙う枢機卿。
その事を考えただけで、胸の中がどろりと濁っていくような気がした。
嫉妬よりも深い、仄暗い独占欲がじわじわと心を浸食していく。
「そりゃあ、ちょっと怖いけど……でも、だからって俺だけ何もしないわけにはいかないだろ」
まだ少し顔色が悪いが、クリスは気丈にそう言ってのけた。
その表情に、少しだけ心が軽くなる。
「ここにいても、いつかは枢機卿に見つかるかもしれない。だったら、先にできることをやっておきたいんだ」
そう言って目を伏せたクリスから、視線が外せなくなる。
一年、会えなかった。
それだけでクリスが大きく変わってしまったような気がして、クリスの姿を目にするだけで胸が激しくざわめく。
最後に会った時は同じくらいの高さにあった目線が、随分と下になってしまった。これはクリスが縮んだわけではなく、おそらくヴォルフの身長が伸びたからだろう。
そのせいだろうか、やけにクリスが頼りなく感じられる。
手足はあんなに細かっただろうか、肩はこんなに華奢だっただろうか。
見慣れないワンピースの裾がひざ下で揺れ、その下からほっそりとした足が覗いている。
その光景に視線を奪われるのは、果たして自分だけなのだろうか。
先ほどクリスと二人で島を回った際には、幾人も島民に声を掛けられた。
声を掛けてくる者はまだいい。多くの者が、クリスが声を取り戻してくれたことを喜んでくれた。
だが、問題なのは声を掛けずに遠くから眺めている輩だ。
何人もの男が、遠巻きに連れだって歩くクリスとヴォルフの姿をじっと見つめていたのには気が付いていた。
中には、あからさまに嫉妬混じりの視線を寄越す者もいた。
──口のきけない、美しい記憶喪失の少女
きっと彼らにとっては、手の届かない高嶺の花だったのだろう。
この一年あの親切な夫婦がクリスの心身を慮って、「あまり刺激しないでくれ」と島民に頼んでいたらしい。そのせいで、彼らはクリスに近づきたくとも近づけなかったのだろう。
クリスはおそらくその視線に、自分が他人にどう見られているのか気づいていない。
この一年で、クリスはますます美しさを増したように思えてならなかった。
元々クリスの持つ子供のような快活さに加え、悲しみを知る者の憂いを帯びた表情が混ざるようになった。
それが、ますます人を引き付ける。
近くの畑からじっとこちらを見ている視線に気が付いて、ヴォルフはそっとクリスの耳元に口を寄せた。
「それで、リルカちゃんのことなんですけど……」
別に声を潜める必要はない。
ただ、見せつけたかっただけだ。お前たちが指をくわえている間に、自分はここまでクリスに近づくことができるのだと。
思った通り、こちらへ向けられる視線に少し険呑さが混じったのを感じて、ヴォルフは笑い出したくなった。
傍から見れば無様な光景なのかもしれない。
いくら近づいたとしても、クリスにとってはヴォルフも島の男達もそう変わらないだろう。
クリスの心は、ずっと昔からテオにだけ向けられているのだから。
そうわかっていても、どうしても近づこうとするのは止められない。
少しでも傍に居たい、意識されたい、触れていたい。
浮かんでは消える身勝手な欲望を自嘲しながら、ヴォルフはしばしの優越感に浸った。




