1 英雄の祈り、乙女の追想
《ミルターナ聖王国北部・リグリア村》
「それでクリスの奴は一旦戻って来たんだが、すぐにまたどこかに行っちまいましたよ。その後は余所から来た女の子があの家に出入りしてましたが、少し前にブルーノとモニカと一緒にどこかに引っ越してったみたいでさぁ……」
「そうですか……ご協力感謝いたします」
情報提供をしてくれた村人に丁寧に頭を下げ、一人の騎士がラザラスの元へと戻ってきた。
「やはり、クリス・ビアンキは既にこの地を発っているようですね。彼の両親もいないとなると、一体どこへ行ったのか……」
「そうか……。君は引き続き聞き込みを続けてもらえるか? 俺はビアンキ邸の方を確認しよう」
そう指示すると、ラザラスの部下である騎士は律儀に別の村人へと話を聞きに行った。
その姿を見届けて、ラザラスは踵を返す。
目指すのは、ビアンキ家……クリス・ビアンキの生家だ。
元々リグリア村はそれほど大きくない村だ。しばらく歩くと、小さな古い家にたどり着く。
そっと入口の戸に手をかけると、鍵はかかっていなかったのか難なく戸は開いた。
足を踏み入れた家の中は、確かに多くの家具や家財道具が持ち去られがらんとしていたが、どこか夜逃げのような様相を残していた。
じっくり荷造りをする時間もなく、慌てて出て行ったのだろう。
……クリス・ビアンキは、教会の手が及ぶ前に無事に逃げ出せたようだ。
こっそり忠告をした甲斐があったものだ、とラザラスは小さくと笑う。
何を隠そうルディスを倒したクリスやレーテ、それにその仲間たちをここリグリア村まで送り届けたのもラザラスだ。
ラザラスはその後すぐに神殿騎士の役目を果たすために王都へと戻ったが、少し前にここリグリア村へとやって来て、クリスに直接伝えたのだ。
教会がクリス・ビアンキを探している。面倒事が嫌なら、しばらくは身を隠すべきだ……と。
人気のない家の中へと進む。
古く、小さな家だった。
ここはクリス・ビアンキが……そして、クリストフが育った場所だ。
彼らの行き先を示すような痕跡が残っていないのを確認し、ラザラスは家を後にする。次に向かったのは、家の裏手にある小さな納屋だ。
その納屋の存在は、クリス本人から聞いていた。
……何かが残っているとすれば、すぐに見つけられそうな家の中ではなくそこだろう。
納屋の扉に手をかけると、重い音を立てて鍵のかかっていない扉が開いた。
家の中とは違い、その納屋の中はまだまだ古いがらくたが残っているようだ。
埃の舞う中を進み、奥の不自然に物が寄せ集められている箇所を見つける。乱雑に積み重ねられた木箱をどかすと、その下に補修するかのように真新しい床板が張り付けられているのが見えた。
少し躊躇したが、一思いに床板を壊す。その下に、地下室のような空間があるのがわかった。
はやる気持ちを抑え、警戒しながら下へと降りる。
辿り着いたその場所も多く物が運び出されたような形跡があったが、空間の中央に小さな机が残されていた。
その上には、一本の剣、一冊の本、そして……一枚の羊皮紙に短い走り書きが残されていた。
そっと羊皮紙を手に取る。
『かつての英雄へ』
そこには、確かにそう記されていた。
それを見て、ラザラスは小さく笑みを浮かべる。
……はっきりとは告げなかったが、クリス・ビアンキは確かにラザラスの言いたかったことをわかってくれたようだ。
誰にも話したことはないが、幼い頃からラザラスにはいわゆる「前世の記憶」というものがあった。
……かつて「勇者アウグスト」として、世界を救った記憶が。
かつての仲間であるアンジェリカが謀殺され、クリストフが故郷に逃げ延びた後、アウグストは孤独だった。
世界を救った英雄と称えられ、常に人々からの称賛を浴びていても、心の中は空虚だった。
何が英雄だ。自分は、大切な仲間すら守れなかった愚か者だ。
ほとんど家族を人質に取られ教会に飼い殺しにされるような余生の中で、アウグストは自問自答を繰り返した。
女神は、何故アンジェリカを救ってくれなかったのか。何故クリストフにあんな悲しみを与えたのか。
何故、アンジェリカを殺した者どもが今ものうのうと生き延びているのかと。
何年も、何十年も悩み続けた。
そして、ある一つの答えにたどり着いた。
不条理こそが、この世界の真実なのだと。
女神も、人も万能ではない。頑張った者が報われず、悪事ばかり働く者が野放しにされている。努力の分だけ報われることもあれば、そうでないこともある。
そのアンバランスが、この世界の在り方だと。
そう思うと、少し楽になれた。
次に生を受けた時、英雄アウグスト――ラザラスはまた悩んだ。
何故か自分は前世の記憶を持ち、いくつかの常人離れした力を持って生まれた。
……これには、一体何の意味があるのかと。
自分の特異性を悟られないように生き、いつしか神殿騎士としてまたティエラ教会に戻っていた。
あれほど憎んでいた教会に何故戻ったのかは、自分でもわからない。
百年前と同じように世界は危機的状況を迎え、教会は「英雄アウグスト」の再来を求め、各地から勇者となる人物を選定していた。
その中に、見覚えのある名前を見つけた。
――クリス・ビアンキ
かつての仲間、クリストフ・ビアンキの縁者であることはすぐに察しがついた。
だが、あの時からもう百年も経っている。その人物はクリストフではないとわかってはいたが、どうしても懐かしさが胸を締め付け、ラザラスは「勇者クリス」の騎士に志願していた。
だが、初めて「クリス」に会った時にわかった。
見た目はかつての友、クリストフに少し似ていたかもしれない。
だが、体と魂があっていない。
目の前の「勇者クリス」は本物の「クリス・ビアンキ」ではない。その体を乗っ取った何者かだとすぐにわかった。
だが、ラザラスは何もしなかった。教会に密告することも、「勇者クリス」を問い詰めることもしなかった。
そのまま「勇者クリス」とラザラスとティレーネ。三人で大地を守る為に旅立った。
ラザラスは最初から「勇者クリス」が偽物である事に気が付いていた。
共に過ごすうちに、ティレーネが抱える闇にも、彼女がルディスと通じる枢機卿を崇拝している事にも気が付いた。
その歪みを知っていながら、放置していたのだ。
不条理こそがこの世界の真実だ。
ならば、たとえこのまま世界が滅んだとしても、きっとそれが自然の流れなのだろう。
ラザラスは一介の神殿騎士以上のことはしなかった。すべてを自然の流れに任せることにしたのだ。
ティレーネがこの世界に引導を渡すと言うのなら、それでもいいと思っていた。
だが、このまま滅ぶかと思われた世界はまたしても救われた。
ラザラスのかつての仲間である、アンジェリカの生まれ変わりである存在の尽力によって。
彼女に初めて会った時、ラザラスは驚いた。
アンジェリカは非業の死を遂げた。だから、その生まれ変わりの存在にも暗い影を落としていると勝手に想像していたのだ。
だが、その少女は笑っていた。
怒り、泣き、そして楽しくてたまらない、といった様子で笑っていたのだ。
しかも、彼女こそが本物の「クリス・ビアンキ」だという。その事実を知った時、ラザラスはかつてないほど驚愕した。
かつての仲間、クリストフと同じ血筋に生まれ、アンジェリカの魂を持つ者。
不思議な巡り合わせの元に生まれた彼女は、確かにこの世界を守ろうとしていた。
世界はアンジェリカとクリストフにあれだけの酷いことをしたのに、彼女はこの世界が好きだと言ってみせたのだ。
その少女――クリスを見て、ラザラスはアンジェリカの死から百年以上も経って、初めて救われたと感じた。
悲しいこと、楽しいこと、そのどちらも訪れるのがこの世界だ。
憎悪に、悲しみに沈んでいた魂も、きっといつかまた笑える日が来る。
彼女にはっきりと自らの正体を告げたことはない。
だが、きっと彼女は悟ったのだろう。だからラザラスにこの納屋のことを教え、そこにこうして証を残したのだろう。
置いてあった剣を手に取る。
この剣は、百年前クリストフが故郷へと逃げ延びる際に、アウグストが餞別に贈ったものだ。かつての親友は、ずっと大事に取っておいてくれたのだろう。
剣を置き、本を手に取る。
随分と古びた本だ。中をめくり、アウグストは目を見張る。
これは……クリストフが記した日記だ。
百年前、クリストフとアンジェリカと共に旅をしていた頃の思い出が蘇り、ラザラスはそっと目を閉じてしばしの間感傷に浸った。
いつまでも過去ばかりを振り返っていられない。
だが、たまにはこうして過ぎ去った美しい光景に思いを馳せてみても良いだろう。
クリスは……アンジェリカの生まれ変わりであるあの少女も、そう伝えたかったのではないか。
ラザラスは勝手にそう解釈した。
……クリストフも、自分やアンジェリカと同じくこの世界へ戻ってきているのだろうか。
それとも、今もまだどこかを彷徨っているのだろうか。
ラザラスにはわからない。
ただ、いつか再会できることを信じて進むだけだ。
剣と本を手に、ラザラスは小さな納屋を出た。
ラザラスにはこの不条理な世界の在り方を変えることはできないのかもしれない。
だが、目の前で苦しんでいる人を救うことなら……きっと自分にもできるはずだ。
今頃アンジェリカは……クリスは新しい道を歩み始めているのだろう。
ラザラスはこれまでと同じく、神殿騎士として世界に……人に尽くす道を全うするだけだ。
いつかまたどこかで、その道が交わることがあるかもしれない。
ビアンキ家に背を向け、ラザラスは再び歩き出す。
騎士の戦いは、終わらない。
◇◇◇
「……暇だねー」
「暇だなー」
アンジェリカは大きくため息をつくと、傍らの男を見やった。
見張りの任を受けているはずなのにその男――クリストフは既に地面に背を預け、既に寝る体制になっていたのだ。
「寝ちゃうの?」
「だってよー、どうみても魔物の大群なんて襲ってこねーだろ」
確かに、とアンジェリカは心の中で賛同した。
旅の途中立ち寄った町で、アンジェリカ、アウグスト、クリストフの三人はその町が魔物の大群に狙われているとの情報を入手した。
義憤に駆られたアウグストは町の戦士たちと共に防衛網を整えており、アンジェリカとクリストフの二人はこうして哨戒にあたっているという訳だ。
……だが、どこを見ても魔物の大群の影は見えない。
魔物一匹いない草原と山々が広がっているだけだ。
風が草原を吹き抜けていく。アンジェリカはうっとりと目を瞑った。
……こんなに穏やかな時間は、久しぶりかもしれない。
「なんかリグリア村に似てんな、ここ……」
独り言のようにクリストフが呟く。
「リグリア村って、クリストフの故郷だっけ」
「なんもねード田舎だぜ。まぁ……いい所ではあるんだけどなぁ」
「ふーん……」
アンジェリカはいまだ目にしたことのないリグリア村を想像してみた。
小さな村の周りに広がる緑の草原。そこで昼寝したら、きっと気持ちがいいだろう。
「リグリア村……か……」
「平和になったら行ってみるか。案内してやるぜ! 何もねーけどな!!」
「何それぇ」
懐かしい、幸せな頃の記憶だ。
冷たい石の床に横たわりながら、アンジェリカは前にクリストフから聞いた話を反芻していた。
もうすぐ、自分は殺される。
きっと助けは来ない。アンジェリカはここで死ぬのだ。
誰でもいい、助けてほしい。心からそう願っているけれど、きっと自分の運命は変えられない。
なら、少しでも楽しい事を考えよう。
自分が死んだら、いずれまた生まれ変わるはずだ。その時のことを考えよう。
思えば、アンジェリカはあまり幸福な人生を歩んでは来なかった気がする。
物心ついたころから窮屈な修道院で育って、最後はこんな死に方だ。
次に生まれた時は、もっと幸せになりたい……!
優しい両親の元に生まれて、何でも好きな事をして、わがままほうだいに生きるんだ。
今度は男の子に生まれるのもいいかもしれない。
場所は……そうだ、前にクリストフから聞いたあそこがいい。
田舎だけど、緑が綺麗な素敵な場所。
そうしたら……いろんな所へ行って、いろんなものを食べて、恋とか、おしゃれとか、アンジェリカにできなかった、やりたいことを思いっきりやってみるんだ……!
……大丈夫、怖くない。
次に目覚めるときには、そんな人生が待っているはずだから。
そう信じて、アンジェリカは目を閉じた。




