3 黄昏に染まれ
ヴォルフは素早く聖堂の扉を閉めると、すぐに氷漬けにして開かないようにした。これで、しばらくの間は大丈夫だ。
きっとテオやレーテならヴォルフの意図を察してくれるはずだろう。
……この扉の向こうに、クリスがいる。クリスの傍にはテオとレーテがついている。彼らなら、必ずクリスを守ってくれるだろう。
だったら、自分の役目はここでこの扉を守ることだ。
もう一度扉が開かないことを確認して、ヴォルフは魔物たちを押しとどめるリルカの元へと向かう。
リルカは強力な風魔法で魔物を一斉に吹き飛ばすと、そのまま頭上を見上げた。
暗雲を切り裂くようにして現れた、巨大な時空の歪みの穴を。
「気づかれてないよね?」
「少なくともクリスさんにはね。テオさんとレーテさんはわからないけど」
ヴォルフがそう答えると、リルカはほっとした顔をした。
聖堂の入口からは、屋根に阻まれてこの巨大な時空の門が出現しかけていたのは見えていないはずだ。
もし気が付いていたら、きっとクリスはヴォルフとリルカがここに残るのを許さなかっただろう。
地上を闊歩する魔物ならば、聖堂内に入ってしまえばしばらくの間は安全だろう。ここには、頑丈な聖堂への扉を壊せそうな魔物は見当たらない。
だが、あの空に現れた巨大な門は話が別だ。
あそこから危険な生き物……例えばドラゴンなどが現れた場合、聖堂ごと破壊される可能性だってある。そうなれば、中で生き埋めになる危険性もあるし、壊れた部分から外の魔物が侵入してくる可能性もある。
だから、危険の芽は早めに摘んでおかなければならない。
ここで魔物を抑えれば、聖堂内に進んだクリスたちの危険を一つ減らすことができるのだから。
いつの間にか現れた精霊フェンリルが、上空に向かって唸り声をあげる。
それと同時に、空が割れた。
姿を現したのは、銀色にきらめく鱗を持つ巨大なドラゴンだった。
「……残ってよかったね」
「ほんとにね」
ヴォルフとリルカは思わず顔を見合わせると、お互いに頷きあった。
上空に現れたドラゴンは今まで見たものよりも随分と大きく見える。あんなものが聖堂を攻撃すれば、クリスたちが潰されてしまうかもしれない。
ヴォルフもリルカもわかっていた。
何があっても地上の魔物と、上空のドラゴンからクリスたちを守る。それが、自分たちの役目だ。
「……上は、リルカがやる」
傍らの少女がはっきりとそう告げたので、ヴォルフは驚いて目を見開いた。
「大丈夫?」
「うん。リルカは……こんな所では、終わらない、から」
リルカはぎゅっと手に持った杖を握りしめると、頭上のドラゴンを睨み付けた。
その様子を見て、ヴォルフはため息をつく。
初めて会った時はまだ小さく、怯えてばかりいた少女だが、いつの間にか随分とたくましく成長したものだ。
「……風よ、私の元へ集まって」
小さくそう唱えた途端、リルカの体はふわりと宙へ浮いた。きっと彼女自身と、彼女と共にある精霊たちの力だろう。
「飛行能力を奪って、地上に落としてくれればいい。僕が殺るから」
そう告げると、リルカが訝しげにヴォルフの方を振り返った。
「でも、地上には魔物もいるのに……」
「大丈夫。十匹殺すのも、百匹殺すのも同じことだ。それと、しばらく地上には降りないでね」
「えっ?」
リルカは驚いたような顔をしたが、それ以上何も言わなかった。リルカが空へと飛び立ったのを見て、ヴォルフも地上にひしめく魔物の群れを見据える。
考えろ、今の自分にとって、何が一番大事な事か。
今最も重要なのは、聖堂内にいるクリスたちを守るという事だ。
ヴォルフは、テオのような勇者ではないし、クリスのように勇者に憧れているわけじゃない。
自分の限界もわかっているつもりだし、無理なことは無理だと言える。
だから、自分は彼らのように全ての者を救えるとは思っていない。
自分にとって一番大切なもの。それを最優先に考えて、それ以外は最悪切り捨てる覚悟で行く。
この聖堂さえ守れれば、それ以外はどうなってもいい。
そう考えると、少しだけ心が軽くなった。
「……フェンリル」
呼びかけると、神獣はゆっくりとヴォルフの方を振り返った。
「扉を、開こう」
元々自分は勇者の仲間になれるほどの清廉な人間ではない。
他者を傷つけ生き続ける吸血鬼、幾多の「死」の上に存在するヴァイセンベルク家。その血を引いた自分は、きっと呪われた存在なのだろう。
そんな自分がテオやクリスと一緒にいてもいいのか、今まで何度も何度も悩んだ。
それでも、今の自分はこうしてここにいる。
ヴォルフは生まれて初めて、自分が生まれ持った力に感謝した。
破壊してしまえばいい。自分の大切なものを脅かそうとする存在、その全てを。
手のひらを強く握りしめる。ヴァイセンベルクの指輪は、今も変わらぬ光を湛えていた。
制御できなければ、この王都ごと……いや、ミルターナごと滅びかねない。
それでも……最愛の人を、大切な仲間を守る為、自分は戦わなくてはならない。
冥府への扉を開き、この地に「死」を呼び込む。
世界を壊す力を、今ここに発現させる。
◇◇◇
『リルカ、大丈夫?』
「うん……平気だよ」
傍らの精霊に呼びかけられ、リルカはしっかりと前を見据えながらそう答えた。
フリジア島に棲むリルカのきょうだいである風の精霊たちの何体かは、駄目だと言ったのにリルカについてここまで来てしまった。
でも、今はそれが心強く感じられる。
リルカは一人じゃない。だから、頑張れる。
視線の先では銀色のドラゴンがまるでリルカを挑発するかのように翼をはためかせている。
その口は大きく、リルカなどあっという間に丸呑みにできてしまうだろう。
だが、不思議と恐ろしくはなかった。
むしろ……リルカは高揚していた。
きっとあのドラゴンは強い。でも強い敵と戦えば、勝つことができれば、リルカはもっと強くなれる。
リルカは負けるわけにはいかない。
大切な場所を、大切な人たちを守る為に。
それに……もっと強くなってあの男に喰らいつくために……!
「世界を巡る風よ、鋭き刃となり敵を貫け……!“塵旋風!!”」
風を集め、呼びかけ、強大な力として敵にぶつける。
リルカの放った凶器のような突風は、真っ直ぐに銀色のドラゴンへと襲い掛かる。
だがドラゴンも慌てる様子はない。すぐにリルカに向かって大きく口を開くと、その口から激しくブレスを吐きだした。
リルカの放った風と、ドラゴンのブレスが激突し、せめぎ合う。
押し負けたのは、リルカの風だった。
「っ……!」
リルカの放った風は四散し、ブレスがリルカめがけて迫りくる。間一髪でブレスの直撃は避けることができたが、凄まじい熱風がリルカへと襲い掛かった。
「ぁぐっ……!」
肌が、髪が焼けるように熱い。でも、そんなことは気にしてはいられない。
リルカの全力を注いだ突風は、ドラゴンに押し負けてしまったのだ。
……いや、まだ負けたわけじゃない!
もう一度、防がれたらさらにもう一度と、リルカは何度もドラゴンへ風の魔法をぶつける。
ついてきてくれた精霊も一緒に攻撃を仕掛けてくれた。
だが、ドラゴンに傷一つ与えることはできなかった。
完全に、相手のペースに飲まれている。そう頭では分かっていたが、リルカにはどうにもできなかった。
段々と魔力も尽きてくる。作り出す風は、明らかに最初のものよりも勢いを失っていた。
『リルカ、落ち着いて……!』
「わかってる!」
傍らの精霊が忠告するようにそう呼びかけてきた。
リルカは落ち着きを取り戻そうとするかのように大きく息を吸う。
ドラゴンは幾度リルカの攻撃を受けても、悠々と空を飛んでいる。
……勝てない。
リルカは、そう悟らざるを得なかった。
じわじわと絶望感に支配されていく。今のリルカでは、どうあがいても目の前のドラゴンには勝てないのだ。
もうすぐ魔力が付き、リルカはなすすべもなくあのドラゴンに殺されてしまうだろう。
そうしたら、きっとあのドラゴンは背後の大聖堂へと攻撃を仕掛けるはずだ。
そうなれば、クリスたちが危ない……!
「……まだ、負けてない」
鼓舞するように、そう口にする。
そうだ。ヴォルフは飛行能力を奪い、地上に落とせと言っていた。
落ち着け、集中しろ。やみくもに攻撃を仕掛けるのではなく、狙いを絞れ。
ドラゴンの飛行能力を支えている部位、すなわち翼を傷つければ、あのドラゴンは地へ落ちるだろう。
……もうあまり力も残っていない。落ち着いて、一撃に全てを込めるしかない。
再び呪文を唱えようとした時、優しい風がリルカを包んだ。
『リルカ、大丈夫だよ』
そう呼びかけられた途端、抱えていた不安が、恐怖が、ゆっくりと消えていく。
『私たちがついてる』
『思い出して、空を飛んだ時のこと』
優しい風が、ゆっくりと体に染みわたるような心地がした。
そして、リルカは悟る。
リルカは風の精霊だ。
魔法で風を作り出すだけではなく、自らが風になる事だってできるはずだ……!
ゆっくりと風に身を任せる。
ドラゴンはもう勝利を悟ったのか、まるで挑発するかように翼を羽ばたかせている。
そうだ。リルカは精霊だ。
この世界中を旅する風と、一つになる。
限界なんてない。どこまでだって、リルカは飛んで行けるのだから。
「……行こう」
周りの精霊たちに、そして吹き抜ける風に、そっと呼びかける。
ゆっくりと風を身に纏い、一つになる。そして目標――ドラゴンの翼を見据える。
何も難しい事はない。
ドラゴンがゆっくりと口を開ける。次の攻撃で、リルカを仕留めるつもりなのだろう。
今がチャンスだ……!
「はああぁぁぁぁぁ!!!」
その瞬間、リルカ自身が鋭い風の刃となり、一直線にドラゴンへと突進した。
ドラゴンは慌てたように回避行動をとろうとしたが、遅すぎた。
風と一体化したリルカの方が、ドラゴンよりも数段速い。
何かをぶち破るような感覚がしたと同時に、一気に視界が開ける。
後方から凄まじい唸り声が聞こえた。振り返ると、翼に大きな穴の開いたドラゴンが、地上へと落下していくのが見えた。
リルカの突進は、ドラゴンの丈夫な翼を突き破ったのだ。
ドラゴンの姿を目で追いながら、地上へと視線を向けたリルカは、そこに現れた光景に思わず息を飲む。
地上が、金色に染まっていた。
「ヴォルフさん!?」
慌てて地上へと降りようとすると、すぐに周囲の精霊たちに止められる。
『行っちゃだめだ!』
「でもっ……!」
『黄昏が、始まりかけてる……』
「ぇ……?」
その言葉の意味は分からなかったが、地上に視線を走らせると見覚えのある姿を見つけることができた。
美しい白銀の狼。あれは、精霊フェンリルだ。
だが、リルカの知っているフェンリルとは違っていた。
普段のフェンリルは狼にしては大きな姿をしているが、精々馬と同じくらいの大きさだ。
それが、今のフェンリルは先ほどリルカが戦っていたドラゴンにも引けを取らないほど巨大化しているのが見て取れた。
フェンリルのすぐそばに、翼を傷つけられた銀色のドラゴンが落下する。
次の瞬間だった。
巨大化したフェンリルがドラゴンに飛び掛かり、一瞬でその体を噛み砕いたのだ。
断末魔を上げることすら許されず、一瞬でドラゴンが絶命したのが分かった。
リルカは呆然と、その光景を見ている事しかできなかった。
事切れたドラゴンの体が、地上を覆う金色の光の粒に飲まれる。
今や魔物がひしめいていた聖堂前の広場は金色の粒に覆われ、フェンリル以外に動いている生き物は確認できなかった。
金色の粒はまるでじわじわと浸食するかのように、ゆっくりと広がっていくようだった。
それは凍りつくほどに恐ろしく、そして、美しい光景だった。
戦意も、抗う気力すら飲み込んでいく。
金色の粒がじわじわと足元へと迫ってくる。リルカは逃げることもせず、そっと目を閉じた。
「……リルカちゃん!」
自分を呼ぶ声が聞こえて、リルカははっと目を開ける。
声の方へと視線を下へ向けると、地上からヴォルフがリルカを見上げているのが目に入った。
気がつけばリルカの体は相変わらず宙に浮かんでいて、地上を覆い尽くしていた金色の粒はいつのまにか消えていた。
「もう降りてきても大丈夫だよ」
ヴォルフはそう言って、リルカに笑いかけた。
そっと地上に降り立ち、リルカはあたりを見回す。
リルカと戦った銀色のドラゴンをはじめ、多くの魔物がまるで眠るように倒れていた。
……いや、眠るように死んでいるのだ。
視線を上げると、じっとリルカを見つめていたらしいヴォルフと目が合う。
傍らには、いつもと同じ大きさの精霊フェンリルも控えている。
「……何を、したの?」
咎めるつもりはなかったが、自然と声は固くなっていた。
先ほどの金色の粒が幻だったとは思えない。おそらく地上の魔物を葬ったのが、あの金色の粒だったのだろう。
まるで世界の法則のように、抗いがたい大いなる力。
もう目の前の少年と初めて会ってから随分と経つが、あんなものを目にしたのは初めてだった。
ヴォルフはじっとリルカを見つめると、少しだけ笑って口を開いた。
「…………秘密」
リルカは思わずため息をついてしまう。
そんなリルカに、ヴォルフは同情するように語りかけた。
「……お互い、大変な場所に生まれついたと思わないかい?」
「そう、だね……」
リルカの母はこの大地を守護する大精霊だ。
そして、目の前の彼はリルカとは異なるが世界を根本から変えてしまう程の力の、引き金を握っている。
……もし少しでも運命の歯車がずれていたら、きっとこうして共に戦う事はなかっただろう。もしかしたら、彼とは敵対していた可能性だってあったのかもしれない。
そうならなくてよかった、と思いつつ、リルカは背後の大聖堂を見上げた。
「大分時間が経ってしまったけど、クリスさんたちを追いかけよう」
地上の魔物が死んだのと同時に、魔物たちをこの世界へ呼び込んでいた門もきれいさっぱり消えていた。
上空にも、新たな門が出現する気配はない。
しばらくの間は、ここを離れても大丈夫だろう。
「……うん!」
リルカがしっかりと頷き返すと、二人はクリスたちの後を追って大聖堂へと走り出した。




