5 彼方の呼び声
悪夢のような時間だった。
レーテの経験した悲惨な過去。それが一つ一つ俺に向かって襲い掛かってくるようだった。
人を騙し、殺し、搾取する奴ら。
魔術結社にはレーテやイリスと同じようにどこかから連れてこられた子供もいたが、途中で殺されたり、力尽きたりする子供もたくさんいた。
ここを逃げたレーテだって、まさかイリスが生き残っているだなんて思わなかったんだろう。
レーテの経験した怒りが、憎悪が、恐怖が、だんだんと俺の中に入り込んでくるようだった。
俺が家族に囲まれてリグリア村で退屈な毎日を過ごしている間に、世界のどこかでこんな非道な事が行われていた。
それは、確かなんだ。
急に、ぎぃぃ、という重い扉の開く音が聞こえた。
その途端、レーテの記憶の断片はぱっと消えてしまう。
思わず膝にうずめていた顔を上げると、扉の隙間から地上からの光が漏れているのが見えた。
しゅっと燭台に明かりが灯り、一気に牢屋の中まで明るくなる。そこに立っていたのは、最初に俺をここに連れて来た浅黒い肌の男だった。
「どうだ、レーテ? おとなしく言う事を聞く気になったか?」
男は相変わらず意地の悪い笑みを浮かべて、俺を見下ろしている。
そして男の背後には、イリスがいた。
だが、どこか様子がおかしい。目はうつろで、立っていてもどこかふらふらと危うく見える。
……明らかに、正常な状態じゃない。
「イリスに、何を……」
「またてめぇがレーテじゃないとか暴れやがったからな。ちょっとおとなしくさせただけだぜ」
男はげらげら笑いながらイリスの背を叩いた。そのままイリスはふらりと壁にぶつかる。
だが、手を突くことも悲鳴を上げる事も無くその場に倒れただけだった。
もう一人、背後に控えていた体格のいい男が乱暴な仕草でイリスを立ち上がらせる。
「イリス!!」
慌てて呼びかけたが、イリスは相変わらずうつろな視線を床に向けたままで、俺の呼びかけに反応することはなかった。
俺の知っているイリスは、いつも快活で、人をからかうような悪ガキで、でもいつまでも姉が迎えに来てくれると信じている……少し泣き虫で寂しがり屋な少女だった。
そのイリスを、こんな風にしてしまうなんて……。
一体何をされたのか、じわじわと恐怖が込み上げる。
「イリスを治してっ……」
「俺たちの頼みを聞いてくれるなら、考えない事も無いぜ」
猫なで声で男が告げる。
そのまま体格のいい男がイリスを引きずって行き、俺は慌ててその後を追いかける。
そして、連れてこられたのは大きな部屋だった。
「喜べ、レーテ。ついに完成したんだぜ」
浅黒い肌の男が、珍しく興奮した様子で部屋の中央を指差した。
部屋の中には、いくつもの紙束や、ガラス管や、宝石のような物が散乱している。
その中央には、強大な鏡のような物が鎮座していた。
鏡の縁には、びっしりと呪文のような物が書き込まれていた。きっと、これも魔法道具で、おそらくはイリスが言っていた「魔導砲」というものなんだろう。
数発で、大学を壊滅させることができるほどの兵器。
これが、そうだというのか……。
俺が絶句したのに気が付くと、男はにやにやしながら俺の背を押して部屋から出した。
そして、また廊下をしばらく歩き別の部屋へと連れて行かれる。
その部屋に入った途端に空気が重くなったような気がした。
それに気を取られている間に、だんだんと頭がぼんやりとしてくる。
「レーテ、難しい事じゃない。昔みたいに少しだけ力を貸してくれればそれでいい」
男が猫なで声でそう告げる。背中を押され、部屋の中央まで連れてこられる。
「お前は何もしなくていい。ただ、そこにいればいいんだ」
なんだ、なにもしなくていいのか。
だったら簡単なのかもしれない。
頭がふわふわする。何か大事な事を忘れているような気がしたけど、もう難しい事は考えられなかった。
部屋の中央には、巨大な青い水晶が置かれていた。見ているとまるで吸い込まれそうな気がしてくる。
「……妹が大事だろう? お前が言うとおりにすれば、妹は助かる」
視界に様子のおかしいイリスが映る。
「イリスを、助けてくれる……?」
「ああ、約束しよう」
その言葉を聞いて、俺は安心した。
今はどこか様子がおかしいけど、きっと俺がこいつらの言う事を聞いていればイリスも元通りになるだろう。
……大切な事を忘れているような気がする。
でも、何も思い出せない。
男に手を取られ、水晶に触れさせられる。
「ここにいろ、レーテ。それだけでいい」
「イリスは……」
「すぐによくなる。お前がちゃんとやればな」
そっか、それでいいのか。
俺がここにいれば、イリスは助かるんだ。
だったら、それでいいかな。
そう思った瞬間、水晶に触れた指先から溶けていくような感覚がした。
でも、怖くはない。
どろりと温かな水に飲まれるような感覚がして、だんだんと自分というものがわからなくなってくる。
自分とそれ以外を隔てる境界線があいまいになって、意識までもが溶けていくような気がした。
「ここにいればいい。……力尽きるまでな」
嘲るような声が聞こえたのを最後に、ゆっくりと眠りに落ちるように俺の意識は薄れていった。
◇◇◇
「……ちゃん、おいしい?」
懐かしい声がして、そっと目を開ける。
目の前では、優しい笑みを浮かべた女性が俺の事を見ていた。
この人を知っている。そんな気がしたけど、誰だかは思い出せない。
でも、とても懐かしい気がする。
「たくさん食べろよ。食べないと大きくなれないぞ?」
今度は別の声が聞こえた。
そっちに視線を向けると、同じように優しい表情をした男性が俺を見ていた。
この人の事も、知ってる気がする。でも、やっぱり誰なのかはわからない。
目の前のテーブルには様々な料理が並んでいる。
二人はしきりに食べろと促してくるが、なんだか他にやらなきゃいけないことがあるような気がするんだ。
「なにか、忘れてないかな……」
そう呟くと、二人はぽかん、とした顔をしたが、一瞬後におかしそうな顔で笑い始めた。
「気のせいよ、気のせい」
「そうそう、気のせいだ」
そう言われても、やっぱり何か忘れているような焦燥感が止まらない。
そうだ、俺はこんなところにいちゃいけないんだ……!
「行かないと……!」
「行くって、どこに?」
女性が優しく問いかけてくる。だが、俺は答えられなかった。
俺は、どこに行こうとしていたんだろう。
……そもそも、ここはどこなんだろう。
「なぁ、ここって……」
「どうだっていいじゃない。ここにいれば安全なのよ」
「そうだぞ。外は怖いことだらけだったじゃないか」
二人が悲しそうな顔をしたので、とたんに俺の胸がずきんと痛む。
急に、外に出るのが怖くなった。
なんだかとても嫌なことがあった気がする。すがるように二人を見ると、二人はまた優しく笑っていた。
小さな家の、小さな食卓。
……きっとここにいれば安全だ。
「大丈夫、ここにいればいいのよ。ずっと……」
「そうだ、外になんて出て行く必要はない」
やっぱり、そうなのかな。
二人のことも、この場所のことも何も思い出せないけれど、ここはとても懐かしくて……すごく安心する場所だった。
ふわふわとした多幸感に頭が支配されていくような気がした。
ここに、いてもいいのかな……。
そう考えた瞬間、空間を切り裂くような大声が響いた。
「……いいわけないでしょー!!」
その途端、何故か天井から食卓に女の人が降ってきた。
…………!!???
俺も優しい二人も、呆然とその光景を見ている事しかできなかった。
紅い髪に、鋭い目つき。食卓の上に降り立った女性は、鋭い瞳で俺を睨むと勢いよく床へと飛び降りた。
「いいわけないじゃない! あなた何やってるのよ!!」
「……え?」
いきなり肩を掴まれて、紅い髪の女性にそう怒鳴られる。
その途端、忘れかけていた焦燥感がぶり返してきた。
「やらなきゃいけないことがあるんでしょ!? だったら、こんなところにいちゃだめよ!!」
「何だお前は!」
「出ていきなさい!!」
さっきの優しかった二人は、豹変したように紅い髪の女性を追い出そうとした。だが、女性は逆に二人を軽く振り払う。二人は床に倒れたが、女性は全く気にせずに今度は部屋の壁を指差した。
「ほら、聞こえるでしょ! 忘れないで、あなたを待ってる人のこと!!」
いつの間にか、どんどん! と激しく壁が叩かれる音が部屋中にこだましていた。
いつからこうなっていたんだろう。もしかしたら、さっきからずっと壁を叩かれていたような気もしてきた。
「聞いて。そして、戻って。……大丈夫、帰り道はわかるわね」
紅い髪の女性は、今度は優しく俺にそう言い聞かせた。
壁を叩く音と共に、誰かが必死に呼んでいる声が聞こえた。
その途端、すっと頭がクリアになった気がした。
「……父さん、母さん」
そうだ、床に倒れた二人は俺の両親で、ここは俺の実家の食卓だ。
何で、忘れていたんだろう。
「大丈夫、偽者よ」
紅い髪の女性は、床に倒れる二人を見て冷たくそう告げる。
「あなたをここに閉じ込めようとしていたの。本物の両親なら、そんなことはしないはずよね」
「うん……」
二人とも……特に母さんはちょっと心配性な所はあるけれど、俺が村を出るときはちゃんと送り出してくれたんだ。家に閉じ込めたりなんてするはずがない。
きっと二人も、この場所も、よく似た偽物なんだろう。
「ありがとう、アンジェリカ」
そう告げると、紅い髪の女性――アンジェリカは大きくため息をついた。
「……まったく、本当にあなたは危なっかしいわね。危機感が足りなすぎるわ!」
アンジェリカは心配そうな顔でそう告げた。
俺は、アンジェリカを受け入れ一つになると約束した。だったら、いつまでもアンジェリカに心配かけてちゃいけないよな……!
「大丈夫だよ、だって……俺はアンジェリカで、アンジェリカは俺だから」
はっきりそう言うと、アンジェリカは呆れたように笑う。
「……あなたみたいな能天気な子が私の生まれ変わりだなんて、今でも信じられないわ」
「そうかなぁ……」
俺としては結構いろいろ考えているつもりだが、アンジェリカからしたら能天気に見えるらしい。
ちょっと心外だ。
「まあ、それがあなたの良い所だとは思うんだけどね。それより……」
アンジェリカはそこで一回言葉を切ると、相変わらずどんどん、と戸を叩く音が鳴りやまない壁の方へ視線を向けた。
「行って。あなたには、やることがあるでしょ」
「……うん!」
壁を叩く音と共に、誰かが必死に呼ぶ声が聞こえてくる。
そうだな。いつだって……お前は来てくれた。
たった一人でブライス城に飛ばされて、毎日怖くて仕方なかった時も……真っ先に迎えに来てくれた。
枢機卿から逃げるために死ぬ覚悟で海に飛び込んで、それからずっと誰にも知らせずに孤島で暮らしていた時も、生きてるのかどうかもわからない俺を探しに来てくれた。
一人でアコルドの所に行こうとした時も、俺の事を好きだって、死んでほしくないって止めてくれた。
今だって……助けに来てくれたんだ。
だから、早く帰らないといけない。
いつだって、俺を救ってくれるお前の所に!
「……ヴォルフ!!」
すぐそばにいるはずの存在に向かってそう呼びかける。
その途端音もなく実家の光景は崩れ去り、真っ暗闇に放り出される。
傍にいるはずの相手に向かってやみくもに手を伸ばす。
そして、その手に何かが触れ、強い力で引っ張られた。




