13 歪んだ思いの果て
「……お元気そうで何よりです、アンジェリカ」
枢機卿は俺に向かってうやうやしく頭を下げた。
その姿を見ただけで、ぞくりと鳥肌が立つ。
……ティレーネちゃん達を騙し、いいように使っている男。こいつのせいで、今世界は大変なことになっているんだ……!
「……なあ、もうやめてくれ。アンジェリカはこんなことは望んでいない。お前のしてることは、アンジェリカの意志に反してるんだよ!!」
俺とアンジェリカは一つになった。だからわかる。
アンジェリカが望むのは、今の世界の異変を収めることだ。
こいつのいう新世界なんて、アンジェリカには迷惑なだけだ!
だが、俺がそう言うと枢機卿は俺ではなくラファリスを睨み付けた。
「……忌々しい女神め、また私からアンジェリカを奪おうと言うのか……! アンジェリカ! 今度こそ私があなたを救って見せます!!」
枢機卿は憎しみのこもった目でラファリスを睨み付け、怒気を露わにしている。
……駄目だ、やっぱりこいつには話なんて通じなさそうだ。
「……だいたい、あんたはなんでそんなにアンジェリカに執着するんだ!?」
俺の見たアンジェリカの記憶では、少なくとも本当の枢機卿――ニコラウスとアンジェリカは単なる知り合い、よく言って友人程度の関係だった。
アンジェリカが無残に殺されて憤るのはわかるが、転生を拒んで百年余りも執着し続けた挙句、アンジェリカの為に新しい世界を作ろうなんてどう考えても滅茶苦茶すぎる。
そう問いかけると、枢機卿は興奮したような大きく両手を広げた。
「……この百年、一度だって忘れたことはありません! 初めてお会いしたとき、あなたが私に微笑んでくださった瞬間のことを……! あの時誓ったのです、この先何があっても、必ずやあなたをお守りし、幸福にして見せると!! あぁ……私の愛しいアンジェリカ!!!」
まるで大地に響くように高らかに、ニコラウスはそう叫んだのだ。
俺は言葉が出てこなかった。
隣にいたラファリスが、気の毒そうにぽつりと呟くのが聞こえた。
「……随分と重い、一目惚れだね」
結局はそういう事なんだろう。
アンジェリカとニコラウスは恋人同士でもなんでもなかった。ただニコラウスが一方的に、アンジェリカへの思いをこじらせているだけなんだ。
……それだけで百年も執着し続けて世界を滅茶苦茶にするとか、はた迷惑にもほどがあるだろ!!
「人を好きになるっていうのは素敵な事だよ。でも、自分たちの幸せの為ならなんでもしていいってわけじゃない。それに、君は肝心のアンジェリカの思いを無視してる」
「黙れ! 貴様はまた私のアンジェリカを使い潰そうとしているだけではないかっ!!」
諭すようなラファリスの言葉に、枢機卿は激高したようだ。
どうやら彼はラファリスが女神アリアだという事もわかっているらしい。
その上で、彼はラファリスに怒りを向けている。
……もう、交渉の余地はなさそうだ。こいつには、何を言っても通じないだろう。
「……俺は自分の意志でここにいる。邪魔をするなら、お前は敵だ!!」
はっきりとそう告げると、枢機卿は悲しそうな顔をした。
彼の傍らにいたルディスが、ほら見ろ、とでも言いたげに枢機卿を振り返った。
「だから言ったではないか。あの女は我らの話など聞かぬと」
「……あなたは、まだその悪しき女神に操られているのですね。必ずや、私がお救い致します……!」
ぐっと杖を握りしめて、俺は構えた。
向こうもこっちも人間と神様の組み合わせだ。
勝てるかどうかはわからない。でも、俺はなんとしてでもここで枢機卿とルディスを止めなければならないんだ……!
「……二対二なら勝機があるとでも思ったか?」
ルディスは俺の心を見透かしたかのようににやりと笑うと、片手を空に掲げた。
そしてその手に呼び寄せられるように現れたのは、以前タンドラの村で人々を飲み込んだ黒い穴だったのだ。
その穴を見た瞬間、体が重くなったような気がした。
隣にいたラファリスも、その穴が出現した途端に焦ったような声を上げた。
「まさかっ、ここに暗黒点を出現させるつもりですか!?」
「……アリア、そなた次第だ」
ルディスが軽く手を振ると、現れたばかりの穴はまた姿を消した。
途端に体の重みが消える。
村の住人を一夜にして吸い込んだ穴。目にしただけでも、それがとんでもないものだいうことが伝わってくる。
黒い穴を消したルディスは、何故か俺たちに向かって優しく手を差し伸べた。
そして、ルディスは突然とんでもない事を言いだした。
「なあアリアよ。我と組まぬか?」
「はあ!?」
ルディスはさっきまでの挑戦的な態度が嘘のように、ティレーネちゃんの顔で優しい笑みを浮かべている。
「我はそなたを評価しておる。そなただけは、あの頭の固い年増の女神どもとは違うとな。……そちらの聖女もだ。過去の遺恨は水に流して、手を組もうではないか」
「よくもそんな事が言えますね……!」
ラファリスが底冷えするような声でそう呟いた。
俺だって思いは同じだ。こいつらがこの世界にしてきたことを、水に流すなんてできるはずがない……!
「何も悪い話ではあるまい。そなただって、この娘が直面したようなこの世界の闇の部分には心を痛めておるだろう」
ルディスがそう言うと、ラファリスは悔しげにルディスを睨み付けた。
俺たちが見たティレーネちゃんの過去は、どうしようもなく悲惨なものだった。
でも、信じたくはなくがあれが現実だ。
「この世界は理不尽な痛み、悲しみに満ちている。なればこそ、一度破壊して一から作り直した方がよいとは思わぬか?」
ルディスはそんな滅茶苦茶な事を言いだした。
ふざけんな! と言ってやりたい。でも……この世界が理不尽なことだらけだと言うのは、ある意味正しい事なのかもしれない。
俺はそう思ってしまった。
ティレーネちゃんのように罪のない子が、ひどい境遇の中で歪められている。
アンジェリカのように正しい行いをしたものが、無実の罪で殺されている。
どれだけ正しく生きたって、理不尽な目に遭う事はあるだろう。
それを因果応報……とはとても言えそうにない。
「そなたの努力は我も知っておる。だが、今のままでは何も変えられぬ。我と共に新たな世界を築こうではないか!」
俺は一瞬でも、ルディスが本当にこの世界を思ってそう言ってるんじゃないかと考えてしまった。
だが、ラファリスは舌打ちするとはっきりと告げた。
「お断りします」
「何故だ、悪い話ではないだろうに」
不満そうに口をとがらせるルディスに対して、ラファリスは大きく息を吸うとゆっくりと口を開いた。
「……確かにこの世界には理不尽な事、悲しいことがあります。罪のない人がひどい目に遭うことだってあります。でも、それも含めて皆で長い時間をかけて作り上げてきた世界なんです」
ラファリスの目は、迷いなく真っ直ぐルディスを見つめていた。
「この世界の良い部分も悪い部分も、光も闇もその全てを……僕は愛している。だから、あなたの要求は飲めません」
そう言ったラファリスは俺の知っているラファリスの姿をしていたけど、俺にははっきりとわかった。
……こいつは、本当にこの大地を守る女神様なんだって。
「……交渉決裂か、ならば仕方ない」
ルディスは特に気落ちする様子も見せず、再び頭上に黒い穴を出現させた。
そして、次の瞬間その穴の中からこれまでに感じたこともないほどにおぞましい、黒くどろどろとしたものが溢れだした。
まるで何百人もの人の断末魔が耳元で鳴り響いているような気がして、俺は思わず耳を塞いでその場にしゃがみこむ。
駄目だ、あの穴はいけない。
あの向こうは、言葉では言い表せないほどに恐ろしい空間だ。
今その場所から、この世界へ闇が溢れだそうとしているんだ……!
なんとかしなきゃ、そう頭では分かっていても、俺の体は動かなかった。
怖い、怖い。ただひたすらに怖くて、しゃがんだまま震える事しかできなかった。
そんな時、歌が聞こえた。
……どこか、懐かしい歌だった。
思わず顔を上げると、こんな状況なのにラファリスは歌っていた。
だが、彼が歌いだした途端こちら側に溢れ出そうとしている闇のスピードが弱まったように見えた。
そのおかげで、俺もなんとか立ち上がることができた。
ルディスは俺が立ち上がったのを見ると、ひどく愉快そうに笑った。
「やはりこのくらいでは潰れぬか。哀れな聖女よ、その力で再び我を止めて見せよ!!」
俺はぐっと杖を握りしめた。
俺が手に入れた、この大地の力。
それを使えば、ルディスを倒せるかもしれない。……その代償に、俺が死ぬけど。
どくん、と足元から大地の脈動が伝わってくる。
それだけで、どうすればいいのかわかった。
「待って」
だが俺が行動に移す前に、ラファリスが強く俺の腕を掴んだ。
「大丈夫、ここは僕が何とかしてみせる。だから……力を貸してくれるかな」
ラファリスはそう言って、にっこりと笑った。




