11 邪神降臨
扉の向こうは、元々俺たちが歩いてきた荒野だった。
振り返れば扉は消えていて、俺たちが最初に触れた巨大な岩が鎮座している。
どうやら元の場所まで戻ってきたようだ。
「あれ、みんなはまだ戻ってないのかな?」
ラファリスが不思議そうにあたりを見回している。
確かに、この場所にいるのは俺とラファリスの二人だけだった。
ヴォルフにリルカにレーテ……それにアコルドもいない。
「……三人に、何かしたんじゃないだろうな」
「まさか! 彼がついてるはずだから大丈夫だよ」
彼……というのはアコルドのことだろう。
あいつもよくわからない奴だが、安心していいんだろうか。
……そもそもあいつは何なんだ?
「……なあ、アコルドもお前の仲間なんだろ? あいつも、神様なのか」
ラファリスが女神様だとしたら、ラファリスと一緒にいたアコルドも神様なんだろうか。
二人は割と仲が良さそうだったし、アコルドもラファリスと同じく何か知ってそうな感じだった。
ラファリスは俺の方へ視線をやると、困ったように笑った。
「うーん、だいたいそんな感じなんだけど、どっちかっていうと……あっ、戻ってきたみたい!」
ラファリスは突然俺の背後を指差した。
振り向くと、何もない空間が奇妙に歪んでいる。
きっと三人とアコルドが戻ってくるんだろう。俺はそう思った。
だが、そこから現れた人物を見て思わず息を飲んだ。
背中のあたりまで伸ばされた波打つ亜麻色の髪。
いつもの修道服ではなく、黒を基調とした法衣を纏っており、どこかただならぬ雰囲気を感じさせる。
彼女は明るいライトグリーンの瞳で俺を見つめ、そして笑った。
俺は信じられない思いでその姿を凝視するしかなかった。
そこには、レーテと共に消えたはずのティレーネちゃんがいたのだ。
「なん、で…………」
ティレーネちゃんはあの枢機卿の仲間で、レーテの話だと追いかけたけど逃げられたという事だった。
そんなティレーネちゃんが、どうしてここに……。
「っ! 下がってっ!!」
いきなりラファリスが強い力で俺の腕を掴み後方へと引っ張った。そのまま、まるで庇うように俺の前に立ち、鋭い瞳でティレーネちゃんを睨んでいる。
……こんなに焦った様子のラファリスを見たのは初めてかもしれない。
俺はただ呆然とすることしかできなかった。
「……そう邪険にするでない。アリアよ」
ティレーネちゃんはそう口にすると、妖しく笑った。
「よくもそんな口がきけますね……!」
「まあ待て。今日はそなたと争いに来たわけではない」
怒気を露わにしたラファリスに対して、ティレーネちゃんは涼しげな顔を崩さない。
……彼女は、本当にティレーネちゃんなのか?
「……ティレーネちゃん?」
「騙されないで! こいつは……」
ラファリスがそう言いかけた時、ティレーネちゃんの視線がぐるりと俺の方を向いた。
そして彼女は、ひどく愉快そうに笑った。
「こうして会うのは二度目だな。いや、今のそなたとは初めてか」
その姿から目が離せない。
まるで凍りついたように、俺はその場に立ちすくんでいた。
「我が名はルディス。あのような目に遭いながらまた我の前に立ちふさがるとは……そなたも懲りない奴よ」
ゆっくりとそう言い放ち、ティレーネちゃん……いや、「ルディス」は昏い笑みを浮かべた。
彼女はティレーネちゃんの姿をしているけれどティレーネちゃんじゃない。
邪神ルディスに乗っ取られてしまったんだ……!
「今すぐその子を解放しろ!!」
「勘違いするでない、アリアよ。我がこの娘を乗っ取ったのではない。この娘が、自ら我をこの身に呼び込んだのだ」
怒りをあらわに叫んだラファリスに対して、ルディスはひどく愉快そうにそう告げた。
その途端、ラファリスの表情が凍りつく。俺も信じられなかった。
ティレーネちゃんは自らルディスを呼び込んだ。そんなこと、あるわけないじゃないか……!
「嘘だ。その子に何をした……」
「……これもそなたらが招いた結果だ。見るがいい!!」
ルディスがそう叫んだ途端、あたりに黒い霧が充満し、視界が黒く染まった。
「クリスちゃん!」
ラファリスが俺の手を掴み、何かつぶやいた。その途端、黒い霧は一瞬で霧散する。
だが、そこに現れた光景に俺は目を見張った。
アルカ地方の荒野は消えうせ、俺たちは小さな家の中にいた。
――小さな部屋の床に、二人の男女が血まみれで倒れている。
その光景を、外から帰ってきたのだろうか、部屋の扉を開けたまま三才ほどの幼い少女が凝視していた。
亜麻色の髪に、ライトグリーンの大きな瞳。
……すぐにわかった。これは、幼いティレーネちゃんだろう。
『パパ、ママ…………?』
まだ何が起こったのか理解できていないのかもしれない。
少女は部屋の中へ足を踏み入れ、ぴちゃりという音に足元へと視線を向ける。
彼女の足が、両親の体から流れ出した真っ赤な血で染まっていた。
次の瞬間、世界は一瞬にして変わっていた。
『大丈夫よ、ティレーネ。必ずティエラ様があなたを守ってくださるわ』
そこは、あたりを花壇に囲まれた大きな門の前だった。
すぐ近くには大きな建物が見える。俺はその建物に見覚えがあった。
あれは……アンジェリカが育ったオルキデア修道院だ!
『やだっ、いかないで!!』
その修道院の門の前で、幼いティレーネちゃんが泣きながら見知らぬ若い女性の腕を掴んでいた。
その後ろでは、中年の修道女が困ったような顔でティレーネちゃんを見下ろしている。
『やだ、おいてかないで……』
『ごめんね、ティレーネ、ごめんね……!』
若い女性も涙ぐみながらティレーネちゃんを抱きしめた。
そして、意を決したように立ち上がる。
『この子を、お願いします』
『……ティエラ様が導いてくださいますわ』
修道女に深く頭を下げた若い女性は、そのまま振り返らずに修道院を後にした。
泣きながら追いかけようとしたティレーネちゃんを、修道女が抱き上げた。
辺りには、幼い少女の泣き声だけがいつまでも響いていた。
「……これは、あの子の記憶だ」
隣にいたラファリスがそう呟く。
……ルディスがどんな手を使ったのかはわからないけど、俺たちはティレーネちゃんの過去を見せられてるということなんだろうか。
前にティレーネちゃんに会った時、彼女は自分の事を孤児で、修道院で育ったと言っていた。
……おそらく、さっきの倒れていた男女が彼女の両親で、身寄りのない彼女は修道院に預けられることになったんだろう。アンジェリカと同じく、このオルキデア修道院で。
俺はアンジェリカの記憶を通して、この修道院のことを知っていた。
アンジェリカは修道院の退屈な日常に辟易としていたが、旅に出るまではずっとこの場所で暮らしていたのだ。
何でこんな光景が見えるのかはわからないけど、きっとティレーネちゃんにも、そんな穏やかな暮らしが待っているのだと思った。
……でも、違った。
アンジェリカが修道院を出てからティレーネちゃんがここに来るまでの百年ほどの間に、オルキデア修道院は腐敗の一途をたどっていたのだ。
身寄りのない少女たちは目を背けたくなるような劣悪な環境に置かれ、病気になってもロクな手当てもされない者、売られる者、売春まがいの行為をさせらる者など、およそ神に仕えるもとしては信じられないほどの非道な行為が行われていた。
ティレーネちゃんはその光景をずっと見ていた。
彼女はまだ幼かったから、なんとか周囲の少女たちの助けも借りて生きていくことができたのだ。
だが、そんな状況も長く続かなかった。
やがて、修道院に出入りする教会の関係者に外に連れていかれ、戻ってこない少女たちは現れ始めた。
彼女たちはどうなったのかと尋ねても大人は何も言わない。身を寄せ合う少女たちは、恐怖に震えていた。
そしてある日、外に連れて行かれた少女の一人がふらふらと帰ってきた。
ティレーネちゃんたち修道女は喜んだが、彼女はどこかぼうっとした様子で、何も語らず眠りについた。
そして翌日の早朝、彼女は全身が干からび黒ずんだひどい状態で、息を引き取った。
『知ってる? 外に行った子たちがどうなるのか?』
『え?』
ティレーネちゃんと同じく身寄りが無くここに預けられた少女が、周囲に聞こえないようにそっとティレーネちゃんに囁いた。
周りの少女たちは、仲間であった少女のひどい死にざまにショックを受けすすり泣いている。だが、その少女だけは全てを諦めたような笑みを浮かべていた。
『私ね、前に教会の人が来た時偶然聞いちゃったんだ。……外に連れてかれた子は、人体実験に使われるんだって』
干からび黒ずんだ少女の遺体――通常、まだ若い女性があんな風になるはずがない。
きっと彼女は、その人体実験とやらで何かをされたんだろう。
『なにそれ……』
『私たちなんていなくなったところで誰も気にしない。外の奴らにとってはそれだけの価値しかないんだよ、私たちって。ただ踏みつけられるだけの存在なの』
そう言って笑った少し年上の少女も、その翌月修道院の外へと連れていかれ、二度と戻ってくることはなった。
ティレーネちゃんは連れて行かれる彼女の背中を、目を逸らすことなく見つめていた。




