23 落花
ヴォルフは固まった。
目の前のクリス……ではなくアンジェリカは、蠱惑的な笑みを浮かべてヴォルフを眺めている。
その細い体を守っているのはやたらとひらひらとした装飾のついた、極めて防御力の低そうな下着だけだ。
……はっきりと確認したわけではないが、クリスはもっと地味な下着を好むはずだ。
そんな事を考えているうちに、ヴォルフの肩に置かれていたアンジェリカの手に力が込められた。そう意識した次の瞬間、ヴォルフの体は勢いよく後ろのベッドへと押し倒された。
「な、何してっ……!」
慌てて引きはがそうと彼女のむき出しの肩に触れ、そして気が付いた。
アンジェリカの体は、何かに怯えるように細かく震えていたのだ。
そっと上半身を起こすと、彼女がゆっくりと顔を上げた。その瞳は、暗闇でもはっきりとわかるほど涙にぬれていた。
「…………がぃ」
蚊の鳴くような声でアンジェリカが何かを囁く。
そのしおらしい態度に唖然としていると、彼女が大きく腕を回して抱き着いてきた。
「お願い、私と一緒に逃げて!」
「…………はあ?」
一瞬、何を言われたのか理解ができなかった。思わずアンジェリカを引きはがすと、涙で潤んだ瞳と目があった。
思わずどきりとして息を飲んだヴォルフに、彼女はそっと囁きかけた。
「レーテは……もう止まらないわ。これ以上進んだら本当にクリスが壊れちゃう! だから、お願い……私達を助けて!」
アンジェリカはぎゅっとヴォルフの手を握りしめた。握られた箇所から、彼女の体温がじんわりと伝わってくる。
「私はずっとクリスを守ってきた。あの子が危ない目に遭った時はあらゆる手を使って安全な所へ退避させていたの。ねぇ、覚えてるでしょ?」
アンジェリカは必死な様子でヴォルフに語りかけてきた。
「鉱山が崩落しかけた時にクリスを移動させたのも私。ニコラウスの配下が迫って来た時にブライス城へ転移させたのも私。あの子が瓦礫の下敷きになった時に、あの子を回復させてテオの呪いを解いたのも私。海に落ちて死にかけていた時に安全な島へ運んだのも私! 私はいつも、クリスの事を守ってたの!」
一気に告げられた言葉に、ヴォルフは必死に今までの記憶を手繰り寄せていた。
アンジェリカの言った通り、クリスは今までに何度も死んでもおかしくないような目に遭っていた。その内の何度かは、まるで奇跡のような不思議な力が働いたように思えた。
その奇跡を起こしていたのが、アンジェリカだと言うのか……?
「……ブライス城に飛ばしたのは、よけい窮地に追いやっただけだと思うんですけど……」
「仕方ないじゃない! あなたの指輪が反応したのがあそこだったのよ! あんないろんな意味で危険な所だなんて思わなかったんだもの!」
憤慨したようにそう口を開いたアンジェリカは、ふぅ、と大きくため息をついた。
「……とにかく、私はずっとクリスを守ってきた。でも、もう駄目かもしれない。このままこれ以上進めば……クリスは完全に壊れてしまうわ」
悲しげな表情を浮かべてそう告げたアンジェリカに、ヴォルフの背筋がぞくりと震えた。
クリスが完全に壊れる? それはいったい、どういう事なんだ……?
「……だからお願い、私と一緒に逃げて」
アンジェリカが小さくそうささやいた途端、急に周囲の空気が変わったような気がした。
アンジェリカがゆっくりと体を近づけてくる。ヴォルフは身動き一つできずにその様子を見ていた。
彼女の全身から甘い香りがした。その香りを嗅いだ途端、心臓がどくんと大きく音を立てた。頭がくらくらする。
アンジェリカは優しく笑うと、再びヴォルフの手を取った。
「ヴォルフ、私達を助けて」
そのままアンジェリカはヴォルフの手を、自らの胸元へと導いた。
薄い布越しにわずかな、だが確かに柔らかなふくらみの感触が伝わり、ヴォルフの頭は一気にパニックに陥った。
自分は今、何をしている?
目の前の女は今、自分に何をさせようとしている……!?
左右の胸の間で下着の紐が緩く結ばれている。きっと軽く引いただけで紐が解かれ薄布は肌から離れ落ち、隠されていたものが露わになってしまうだろう。
「あなただってこの子の事……嫌いじゃないでしょ……?」
まるで全てを見透かすような目で、アンジェリカは妖艶な笑みを浮かべた。
そのまま胸元に導いた手とは別の手で、優しくヴォルフの髪を撫でた。
「…………あなたには感謝してるわ、私もクリスも。だから……これはお礼よ」
アンジェリカがヴォルフの髪の中に何かを差し込んだ。
彼女の体から甘いにおいが漂ってくる。頭がぼんやりする。
目の前のアンジェリカは全てを受け入れるかのような優しい笑みを浮かべている。
ヴォルフは衝動的にアンジェリカの体に手を伸ばし…………、
そのまま思いっきり投げ飛ばした。
アンジェリカは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに空中で体をひねると難なく床に着地した。
……クリスには、到底できない動きだ。
その隙にヴォルフは髪に差し込まれた何かを床に投げ捨てる。
ぱさりと床に落下したのは、人工的に作られたと思わしき、真っ白な花だった。
足でぐしゃりと踏み潰すと、その途端ぼんやりとしていた意識がはっきりとし始める。
「……魔法道具か。僕を操って、どうするつもりだった?」
おそらくこれは甘い香りと共に人の意識を朦朧とさせる何かを放出し、思い通りに操る魔法道具だったのだろう。
アンジェリカは、誘惑する振りをしてヴォルフを意のままに操ろうとしていたのだ。
幼いころからヴァイセンベルクの指輪を身につけていたヴォルフだからこそなんとか自我を保っていられたが、普通の人間だったらこうはいかないだろう。
こんな危険なものを作り出すのをアムラント大学の魔術師が許可したとは思えない。非合法なものだとはすぐに察しがついた。
「私の手作りなの。せっかくいい夢見させてあげようと思ったのに、無粋な男」
アンジェリカは笑みを崩さないままそう吐き捨てた。
なるほど、あの花のような魔法道具は彼女のお手製だったらしい。
「百年前はどうだったか知りませんけど、今は人を服従させるような魔法道具の開発、売買は禁止されてるんですよ」
「ばれなきゃ問題ないわ」
アンジェリカはやれやれ、とでも言いたげに肩をすくめた。
それを見て、ヴォルフは彼女を睨み付ける。
「……それで、一体何のつもりなんだ」
アンジェリカはヴォルフを籠絡して何かをさせようとしていた。
そう問いかけると、彼女は冷めたような目を向けてきた。
「だから何度も言ったじゃない。一緒に逃げて欲しいって」
「逃げるって……」
「世界を救う、とかもうやめたいの。別にいいでしょ?」
アンジェリカは悪びれる様子もなくそう言うと、にっこりと笑った。
ヴォルフは絶句した。
だって、クリスはいつも苦しみながらも世界を救いたいと願っていた。それに、目の前の女性だってかつて世界を救ったはずではないのか……?
「そんなの無駄なのよ。世界が平和になるって言ったってそんなの少しの間だけ。どうせまたすぐにぐちゃぐちゃにされるだけよ。だったら無駄じゃない!」
まるで馬鹿にするようにそう言うと、アンジェリカは大きく笑った。
ヴォルフは呆然とその様子を眺めていた。
「無駄…………?」
「そう、無駄なのよ。無駄。どれだけ頑張ってもまた壊されるなら、最初から放置して遊んでた方がいいじゃない」
嬉しそうにアンジェリカはそう告げた。ヴォルフは信じられない思いで問いかける。
「……それが、あなたの本心なんですか」
「そうよ、当たり前じゃない。わざわざ危険を冒して戦おうとするなんて、馬鹿のする事よ!」
アンジェリカはそう言うと、おかしそうに笑った。
その瞬間、ヴォルフの中で何かがぶち切れた。
「……黙れ」
彼女の足元に氷柱を撃ち込むと、途端にアンジェリカはぴたりと笑うのをやめる。
「あんたは、百年前テオさんになんて言ったか覚えてないのか……」
テオはこの女性に心を動かされ、百年経っても戦い続けていた。
それを、無駄だったと言うのか……?
低い声でそう問いかけると、アンジェリカは気落ちしたように眉を寄せた。
「……覚えてるわよ。……テオには、悪い事したと思ってるわ」
「悪い事……?」
「ええ。あの頃は私も若かったから償いに世界を救えなんて言ったけど……かわいそうな事しちゃったわね。私があんなこと言わなければ、無駄死にすることもなかったのに」
――無駄死に。
テオの運命を変えたはずの女性は、彼の償いの戦いを、生き方を、無駄だと切り捨てた。
それだけは、言ってはいけない言葉だった。
「…………ふざけるなよ」
体の奥底から怒りが、憎悪があふれ出てくる。
ヴォルフはもう、自分を抑えることができなかった。




