22 アンジェリカの思惑
まるで、時間が止まったような気がした。
リルカは何も言えずに、ただアンジェリカと名乗った女性を凝視していた。
女性は優しい笑みを湛えてこちらを見ている。
……本当に、彼女はアンジェリカなのか?
「何言ってるんですか、クリスさん……」
乾いた笑みを浮かべてそう切り出したのはヴォルフだった。
「おもしろくないですよ、そういう冗談は。だから……」
「冗談じゃないって、あなたもうわかってるでしょ?」
アンジェリカはにこにこと笑ったままヴォルフの言葉をばっさりと斬り捨てた。
「残念だけど、今の私はアンジェリカなの。まあ魂はクリスと同じだから、ほとんど同じだと思ってもいいわよ」
「くーちゃんは、どこ……?」
リルカは震えた声でそう問いかける。
目の前の彼女がアンジェリカだと言うのなら、クリスはいったいどこにいる……?
アンジェリカは優しくリルカに視線を合わせると、そっと口を開いた。
「クリスなら……眠ってるわ」
思ってもみなかった答えに、リルカだけでなくレーテとヴォルフも怪訝そうな声を出した。
眠っている……とはどういうことなんだろう。
「そうか。じゃあ今すぐ起こしてくれ」
「それはできないわ」
苛立ったようなレーテの声に、アンジェリカは静かに首を横に振った。
「できないって、どういうことなんですか……」
その答えを聞いて、ヴォルフは動揺したように荷物を地面に落とした。
アンジェリカはちらりと衣服がつまった袋に視線を落とした後、ゆっくりと口を開く。
「クリスの心、傷ついて壊れかけてるの。あのままじゃ死んでたから、今は眠ってもらって私が代わりに出てきてるってわけ」
「死んでた……?」
リルカが思わずそう口に出すと、アンジェリカは神妙な顔をして頷いた。
「そう。あの子、池に潜んでた魔物に引きずり込まれて死にかけてたのよ。普段ならなんとか倒せる程度の魔物だったんだけど、かなり落ち込んでたから……生きようとする気力も無くなっちゃったみたい」
アンジェリカはやれやれ、と肩をすくめた。
リルカはクリスがおかしくなった直前の出来事を思い出そうとした。
レーテに会いに行くと言って一人で出て行ったクリスは、リルカたちが駆けつけた時には池のほとりにずぶ濡れの状態で座り込んでいた。傍らにはずたずたに引き裂かれた魔物の死骸があって……
「じゃあ、あの魔物は君が倒したのかい?」
「そうよ。女の子をあんな汚い池に引きずり込むなんて万死に値するわ。爪にまで泥が入って取るのに苦労したんだから!」
レーテの問いかけに、アンジェリカは不快そうに眉をしかめた。
おそらく、その時のことを思い出しているのだろう。
「…………クリスさんは、いつ、起きるんですか」
不自然に抑揚のない声が聞こえた。
リルカが慌てて顔を上げると、ヴォルフが死にそうな顔でアンジェリカを凝視しているのが見えた。
対するアンジェリカは、何でもないように軽く答える。
「さあね。明日かもしれないし、50年後かもしれない。私もできる限りはやってみるけど、こればっかりはクリス次第だからどうにもならないわ」
リルカは絶句した。
アンジェリカの今の言い方だと、これから何十年も、もしかしたら永遠にクリスが目覚めない可能性もあるように聞こえたのだ。
あの時、クリスが落ち込んでいるのは皆気づいていた。
リルカだって、あの村の人たちを救えなかったことは悲しいし悔しい。でもクリスはきっと、自分が村人たちを浄化できていれば何とかなったのではないか、と思いつめてしまったのだろう。
死ぬかもしれない危険を冒して浄化を続けようとしたクリスを力ずくで止めたのはリルカたちだ。
クリスに死んでほしくなかった。だから、あの場はああするしかないと思った。
でも、その行動こそがクリスを生きる気力を失くすほどに追いこんでしまったのだ。
リルカは何も言えずに黙り込んだ。
きっとヴォルフとレーテも同じことを考えていたのだろう。
誰も、何も言わなかった。その場を静寂が支配する。
「あのさ……」
静寂を破るようにして口を開いたのはレーテだった。
「君ってあいつの前世なんだろ? そんなの普通出てくるわけないと思うんだけど」
レーテは疑うようにアンジェリカを見ていた。
アンジェリカはレーテを見つめ返すと、くすりと小さく笑う。
「普通は……ね。でも、私たちは普通じゃない。私とこの子は同じ存在。クリスの中にずっと私はいたの。……それでよかったのよ。私がいなかったら、この子は死んでたんだから」
アンジェリカは自らの胸に手を当てて、ゆっくりとそう告げた。
「まあ、あまり深く考えないで。あなたの言う通り、二重人格とでも思ってもらえればいいわ。クリスが目覚めるまでは私がクリスの代わりになるつもりだから、それまでは仲良くしましょ?」
アンジェリカはそう言うと、ヴォルフが落とした荷物を拾い上げた。
「ほら、早く帰りましょ。ここでじっとしててもクリスは起きないわ」
アンジェリカはくるりとリルカたちに背を向けると、すたすたと宿屋に向かって歩き出した。
「……行くぞ。あいつを放置はできない」
低く呟いたレーテがその後を追う。リルカとヴォルフは顔を見合わせた。
これからどうすればいいのか……リルカには、よくわからなくなってしまった。
「取りあえず、僕たちも行こう。リルカちゃん、できるだけクリスさん……アンジェリカから、目を離さないようにしてもらっていいかな」
ヴォルフは明らかに警戒した様子でアンジェリカの背中を見つめていた。
リルカもそっと頷く。アンジェリカがあの魔物を倒したからこそクリスは生き延びることができた。
それは確かだろうが、アンジェリカは少し強引で、何を考えているのかよくわからないというのが本音だ。
クリスであって、クリスでない者。
早くクリスに会いたい、リルカは強くそう思った。
◇◇◇
あの日から、十日たった。
だが、クリスは相変わらずアンジェリカのままだった。
リルカはアンジェリカについては良く知らない。
百年ほど前の人間で、クリスの前世で、テオの知り合いで……非業の死を遂げたという事くらいしか。
今のアンジェリカはクリス以上に明るい性格のようだ。よく笑い、よく怒る。
おしゃれが大好きで、自分だけでなくリルカを着飾るのもお気に入りのようだ。
きっとこんな状況でなかったら、アンジェリカともっと仲良くできたかもしれない。彼女からは自分たちに対する敵意は感じない。
でも、クリスは目覚めない。
リルカとヴォルフは毎日まだクリスは起きないのか、とアンジェリカに尋ねたが、アンジェリカは決まって「まだ起きない」と答えるのだ。
他にも、ヴォルフは何かアンジェリカに百年前の事を聞いていたが、核心に迫った話になるとアンジェリカははぐらかしているようだった。
「ねぇ、そろそろ別の町にいかない? もうこの辺りのお店は一通り見ちゃったし」
宿の部屋の窓から外を眺めていたアンジェリカがつまらなそうにそう言いだした。
クリスがいないうちにどこかへ移る気もしなくて、リルカたちはあれからずっと同じ町に滞在していたのだ。
「あのさぁ、僕たちが元々どこへ向かうつもりだったのか知ってる?」
「大地の中心、テラ・アルカでしょ。知ってるわよ。クリスの中で聞いてたもの」
意外にもアンジェリカは明瞭にそう答えた。
どういう仕組みになっているのかはわからないが、「クリス」として聞いていたこともアンジェリカは知っているようだ。
「そんなとこ行ってもつまんないわよ。それより、もっと大きい街に行く方がいいわ! ほら、王都とか!」
アンジェリカは名案を思い付いた! とでも言いたげな顔をして立ち上がった。
「そうだ、そうしましょ! その方が……」
「悪いけど、それはできない」
レーテが冷たくそう告げる。アンジェリカは不服そうにレーテを見つめ返した。
「君がどう思ってるのかは知らないけど、ボク達はそんなにゆっくりしている暇はないんだ。……君が、百年前にどうやって邪神を追い払ったのか教えてくれればいんだけどね」
レーテが挑発するようにそう声を発すると、アンジェリカは恨めしそうな顔をしてレーテを睨んだ。
アンジェリカはあまり過去の話をしたがらない。
……彼女が最期、味方であったはずの教会の人間に焼き殺された事を考えれば無理もない事なのかもしれないが。
でも、リルカたちもいつまでもここにいるわけにはいかないのだ。
「明日、テラ・アルカへ出発する。もともと僕たちとビアンキとの間で話はついてたんだ。反対意見は聞かないからね」
それだけ言うと、レーテは部屋を出て行ってしまった。
リルカはそっとアンジェリカの様子を窺った。
彼女は、感情の読めない瞳でレーテの出て行った扉をずっと見つめていた。
◇◇◇
ヴォルフは悩んでいた。
あのクリス……ではなくアンジェリカの事だ。
アンジェリカの話では、クリスの心はまだ目覚めないらしい。もう、十日も経つのに。
……クリスがあの教団に乗っ取られた村を救えなかったことを、気に病んでいるのには気づいていた。だが、その事についてじっくり話したりはしなかった。
あまり触れない方がいいと思ったからだ。それよりも、テラ・アルカに向かうと言う新たな目標を提示した方がクリスの気が晴れるのではないかと思っていた。
……完全に、自分の読み間違いだ。
「……はぁ」
ヴォルフはアンジェリカの事をよく知らない。
百年ほど前の人間で、クリスの前世で、テオの知り合いで、無残な殺され方をして……今もあの枢機卿に執着されているという事くらいしか。
何故今になって彼女が出てきたのかもわからないし、彼女が何を考えているのかも不明だ。
ただ、彼女の言葉を聞く限りは自分たちと同じくクリスの事を案じているように思える。
それがアンジェリカの本心なのかはわからないが、ヴォルフ達にはクリスの様子を確認することはできない。今は、アンジェリカを信じるしかなかった。
もう真夜中といってもいい時間帯なのに、同室のレーテはどこかに出かけているようだ。
いつ帰るのかわからないし、もう寝てしまおうと考えた時だった。
部屋の扉が、前触れもなく音を立てて開いたのだ。
リルカだろうか、と顔を上げたヴォルフは、そこに立っていた人影を見て思わず息を飲んだ。
「ク…………アンジェリカ?」
扉の前には、何故か長いローブをすっぽりかぶったアンジェリカが立っていた。
それもそのはずだ。リルカなら、扉を開ける前にノックをするはずだから。
「……何かあったんですか?」
そう問いかけたが、アンジェリカは何も言わない。
無言でヴォルフの目の前まで歩いてくると、そのまま身に纏っていたローブを脱ぎ捨てた。
固唾をのんでその様子を見守っていたヴォルフは、目の前の光景が信じられずに目を見開いた。
アンジェリカはローブの下には、下着以外何も身につけていなかったのだ。
「なっ、何して……!」
宵闇に華奢な肢体が浮かび上がる。その細さと透き通るような白さに思わずめまいがした。
アンジェリカはヴォルフの動揺など気にも留めていない様子で、ベッドに腰掛けたヴォルフの目の前にしゃがみこむと、そっとその肩に触れた。
そして、クリスでは絶対にできないであろう妖艶な笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「女が夜更けにこんな恰好で男の部屋に来る意味……わかるでしょ?」




