閑話 真紅の記憶
――その目に焼き付いた「紅」だけは、きっとどれだけ時が過ぎても忘れることはないだろう。
何とか体を動かし飛び立とうとしたが、翼に傷を負った竜にもう空へと羽ばたく力は残っていなかった。
もはやここまでか、と竜は苦々しく空を仰ぎ見る。
竜は、この世界から見れば異物そのものだった。
異世界からの侵略者であり、村を焼き、人を屠り、大地を蹂躙した。
竜は思い上がっていた。人なんて竜に比べれば何の力もなく無力な存在だと。
だから、焼き払おうとした森の中に一人の女が立っているのを見つけた時も、何の躊躇もしなかった。人なんてどれだけ死のうと構わないと思っていたのだ。
女ごと森を焼き払おうと竜は大きく口を開けた。すると、女はやっと竜の存在に気が付いたのか空を見上げた。
その女は、まるで血のように紅い髪をしていた。竜の体と同じ色である。
珍しい、と竜は少しだけその髪色に気を取られる。すると、紅い髪をした女と目があった。
女は、竜の姿を見つけるとまるで全てを許す女神のような笑みを浮かべた。
そして次の瞬間、竜の体は女が放った一条の光に貫かれ、森の中へと堕ちて行った。
「あら、生きてたんだ」
必死に翼を広げようとする竜に、どこか楽しげな声が掛けられた。
見れば、先ほどの紅い髪の女がにっこりと微笑みながら竜の方へと歩いてくるではないか。
「…………殺せ」
「あれ、竜って喋れるの? 知らなかった!!」
僅かばかり覚えたこの世界の言葉で話しかけると、女は驚いたように手で口を覆った。
何を失礼な、と竜は女を睨み付ける。
竜は言葉を話せないわけではない。竜には竜同士の言語があり、人間はそれを理解できないだけなのだ。
鋭い眼光を浴びても、女は一歩も引かず何が楽しいのか、相変わらずにこにこと笑みを浮かべている。
「うーん、殺せって言われると逆に殺す気がなくなるのよね、何でかなぁ……」
女はゆっくりと竜の方へと近づいてくる。
最後まで屈するものか、と竜は鋭い瞳で女を睨み付ける。大抵の生き物なら、竜に睨まれればすぐに尻尾を巻いて逃げ出すはずだ。
だが、女は一歩も引くことなく竜の傍へ膝をついた。
「死んで終わりにするつもり?……甘いわ」
女は冷たい瞳で竜を見ていた。
その目に宿るのは、確かな憎悪と怒りだ。
「私はそんなの許さない。女神様が許したって、私は許さないわ。死んで逃げるなんて卑怯よ」
そう言うと、女は竜の体に手を当てた。
その途端、竜の体からすっと痛みが引いて行った。
「考えなさい。あなたが傷つけた大地を、人の事を。あなたが奪った命のことを」
それだけ言うと、女は立ち上がり、「また来るわ」とだけ言い残して、竜の元から女は去って行った。
竜は地面に横たわったまま、女の去った方向をじっと見つめていた。
この世界など、人間など、竜にとっては取るに足らない存在だ。
……それなのに、何故だか先ほど紅い髪の女に言われたことが、頭から離れなかった。
◇◇◇
翌日、何故か女はまた倒れ伏す竜の元へとやってきた。
「よし、まだ生きてるわね!」
女は嬉しそうに竜を見下ろすと、竜の傍らにしゃがみこむ。
確かに、翼を撃ちぬかれ動けるような状態ではなかったが、それでも竜は生きていた。
「どう? 昨日言ったこと、考えてくれた?」
女はそう竜に問いかけ、小首を傾げて見せた。
竜は昨晩からぐるぐると女の言った事について思考を巡らせていたのだが、素直にそう告げるのは癪だった。
「……殺せ」
「もう、だからそれはずるいって言ったじゃない!」
女は憤慨したように頬を膨れさせると、昨日と同じように竜のごつごつとした鱗に手を触れさせた。
「うーん、やっぱりこんな硬そうな体をしてるからいけないのよ! きっと頭の中まで凝り固まってるんだわ!!」
女はそんなよくわからない理論を並べ立てると、竜の方を向いてにやりと笑った。
「人の気持ちを理解するには、きっと人になるのが一番ね! 決めた!」
女は立ち上がると、すぅ、と大きく息を吸った。
そして、竜の方を見た。
その視線の強さに、思わず竜はたじろいでしまう。
先ほどのまでのはしゃいだ少女のような雰囲気はどこにもなく、まるで罪人を裁く女神のような静謐な空気をまとった女がそこにはいた。
そして、女は全てを見通すような眼差しで竜を見据えると、口を開いた。
「私はあなたに呪いを与える。解けるのは私だけ。……私はあなたの生の苦しみを大いに増す。あなたは人として苦しんで生きる」
竜の心臓がどくん、と脈打つ。
体が熱い。まるで、煉獄の炎に焼かれるような苦痛が竜を襲う。
「人を学べ、人を守れ。それがあなたの償いとなる」
女はまだ何か言っていたが、もう竜の耳には入らなかった。
熱い、体が燃え盛るように熱い……!
竜は満足に動かない体に鞭打って、その場でのた打ち回った。
まるで体がどろどろに溶けていくような、体の奥底から分解されていくような苦痛だった。
これは、あの女が自分に課した拷問だろうか。
必死に地面をのた打ち回るうちに、竜の手は近くにあった石を掴んでいた。
そこで、竜は気づいた。
竜の手……というより前足は巨大であり、小さなものを掴むには適していない。
それならば、何故自分はこんな小石を掴んでいるのだろう。
いつの間にか全身を焼かれるような苦痛は収まっていた。竜はそっと閉じていた瞼を開く。
そして、そこにあった物に絶句した。
竜から見れば気の毒なほど小さな人間の手が、小さな石を掴んでいる。
竜が指を開くと、人間の手も開いて小石が地面に落ちた。
竜は思わず自分の体を見下ろした。そして、息を飲んだ。
そこにはごつごつとした鱗はなかった。少しでも衝撃を受ければ傷ついてしまいそうな、脆い人間の肌があったのだ。
そして、竜はやっと理解した。
これは、あの女の呪いだ。
あの紅い髪の女が呪いをかけ、竜を小さく脆弱な人間へと変えてしまったのだ。
竜は女のいた方を振り返った。女はまた偉そうに竜に何かを言うかと思ったからだ。
だが、女は何故か顔を真っ赤にして、わなわなとふるえる手で竜を指差していた。
「な、な……」
「…………何だ」
自分で呪いをかけたくせに、何をそんなに驚いているのか。
そう問いかけようとした竜の耳に、耳障りなほど甲高い声が響く。
「なんで、服着てないのよ!!」
「…………はあ?」
竜は呆れた。
竜には人間と違って服を着る習慣はない。というよりも、人間が特殊なのだ。
鳥も獣も魚も、服なんて着ていないではないか。
「おい、何なんだお前は」
「きゃあ! 立たないでよ!!」
立ち上がり女に近づくと、女は可哀想なほどに狼狽し、人となった竜から目を逸らした。
「露出狂! 変態!!」
「言うに事欠いてそれか……」
竜は呆れて何も言えなかった。
女は慌てたように竜に背を向けると、慌てたように告げる。
「ふ、服持ってくるからここを動かないでよ!
それだけ言い残すと、女は一目散にどこかに走って行ってしまった。
残された竜――いや、元竜と言った方がいいだろう。元竜である人間は、その場に腰を下ろす。
ほどなくして女は戻ってきた。その手に、布の塊を携えて。
「は、早くそれ着て……!」
「何故だ」
「いいの! それが人間世界のルールなのよ!!」
どうやら人間の世界では裸でいるのはルール違反であるらしい。
まったく面倒だ、と嘆息しながら、竜は女に手渡された服に袖を通す。
なにしろ服を着るのは初めてだったので時間はかかったが、なんとか竜は女に手渡された服を身に纏うことができた。
あらためて女を見返すと、女はほっとしたように息を吐いた。
「ふぅ、危なかったわ」
「自分でやっておいて何を……」
そんな竜の文句など聞こえなかったふりをして、女は真剣な顔で竜に告げた。
「もう気づいていると思うけど、あなた、人になったから。元に戻せるのは私だけよ」
女はそう言うと、勝ち誇ったように笑った。
やはり、女は竜に呪いをかけ、竜を人にしてしまったらしい。
「何故、こんなことをした」
「だって、あなた頭堅そうなんだもの。人間になれば、そのごつごつの鱗も取れてちょっとは柔らかくなるかと思って」
女はまったく悪びれる様子もなくそう口にした。
その言葉を聞くと、なんだか元竜の体から力が抜けた。
そんな思いつきの理由で、空の覇者たる竜にこんな屈辱的な仕打ちを加えるとは……。
もう、どうにでもなれ、と元竜はため息をついた。
「……そういえば、あなたの名前は?」
そんな元竜に、女は無邪気に問いかけた。
無視しても良かったが、どうせまたこの女にキーキー喚かれるだけだろう。
おとなしく、元竜は自分の名を名乗った。
だが女は元竜の名前を聞くと眉を寄せる。
「……発音しにくいわ」
「竜の言葉だ。人間には難しすぎたか」
どうやら元竜の名は、人間には耳慣れない響きであるらしい。
女はうんうんと何事か唸った後、何かを思いついたとでも言いたげに手を叩いた。
「そうだ! あなた人になったんだし、名前も人っぽくした方がいいわ! 何にしよう……うーん……」
一人で勝手に話を進めた女は、一人で勝手に悩み始めた。
元竜はその様子をじっと見つめた。
……人間とは奇妙な生き物だ。
「そうだ、思いついた!!」
女はぱっと顔を上げると、元竜の方を見て嬉しそうに笑った。
「あなたの名前は……テオ! 古代の英雄の名前なの。かっこいいでしょ?」
そう言うと、女はそっと元竜の方へと手を差し出した。
「私はアンジェリカ。そして、今日からあなたはテオよ!」
女――アンジェリカの邪気のない笑顔を見ていると、元竜の中から怒りや憤りがすっと抜けて行った。
……本当に、人間とは奇妙な生き物だ。
「……勝手な奴め」
そう吐き捨てて、元竜――テオは、アンジェリカの手を握り返す。
この出会いが、後の自分の生き方を変えるとは知らずに。




