30 戦女神
襲いくる瘴気から逃げるようにして、開いていた扉から俺たちはなんとか屋敷の中へと逃げ込んだ。さすがに屋敷の仲間で瘴気が充満している、ということはないようで、なんとなく空気が綺麗に感じられる。
屋敷内はやっぱりしんと静まり返っている。さきほどテオは屋敷の人たちが眠らされていたと言っていた。……ということは、まだ目覚めてないんだろうか。
そう尋ねると、テオは難しい顔をして腕を組んだ。
「眠らされてる……といってもどんな方法を使ったかわからんからな。薬ならなんとかなるが……ミトロスが噛んでいるとしたら一筋縄じゃいかないかもしれないな」
「そんな……」
あの変なイソギンチャクを召喚したり、テオのドラゴン化を封じたりするようなとんでもない奴だ。人を永遠に眠らせることだってできるのかもしれない。
「何はともあれ……ディルク……いや、その前にあの奇妙な怪物を何とかしなければいけないだろうな」
皇子はオリヴィアさんを抱きかかえたままそう呟いた。
オリヴィアさんはさっきよりは辛くなさそうな様子だが、意識を失っているのか目を開けない。少し心配だ。
「でも、あんなに瘴気をまき散らされたらまともには近づけませんよ。あの気持ち悪い物体を傷つけたとしてもすぐに回復されますし」
「そうだな……」
そう言ったヴォルフも皇子も何かを考え込むように黙り込んでしまった。俺もあの闇イソギンチャクを何とかする方法を必死に考えたが、うまい考えは思いつかなかった。
以前アムラント大学で巨大な蜂を追い払った魔法を思い出そうとしてみたが、何故だか頭の中が霞がかったような不思議な感覚がして、うまく思い出すことができなかった。
まったく、肝心な時に役に立たない!!
静寂がその場を支配する。そんな時、不意に消え入りそうな声が聞こえた。
「ふ……なぃ……」
「…………オリヴィア?」
皇子がそっと腕の中のオリヴィアさんへと声を掛ける。だが、オリヴィアさんはさっきと同じように目を瞑ったままだ。
……今のは確かにオリヴィアさんの声だった。寝言でも言っていたんだろうか。
そう思った瞬間、オリヴィアさんはかっと目を見開くといきなり地面に飛び降り、ヴィルヘルム皇子の胸倉を勢いよく掴み上げた。
「オオオ、オリヴィアぁ!!?」
皇子が素っ頓狂な声を上げたが、オリヴィアさんは見た事も無いような鋭い目つきで皇子を睨み付けている。
「……不甲斐ない、不甲斐ないぞ貴様っ!! 貴様はローゼンクランツの……今この国を背負う一族のとしての自覚はあるのか!!?」
オリヴィアさんは皇子の胸倉を掴んだまま、がくがくと前後に揺さぶった。
俺たちは皆ぽかんとその光景を眺めていた。……これは夢か?
オリヴィアさんは勇ましい部分はあるけれど、少なくとも皇子に対して貴様、なんて呼びかけたりしないし、あんな風に乱暴に揺さぶったりもしない……はずだ。
「まさか瘴気に侵されて……クリスさん、浄化できませんか!?」
焦った様子のヴォルフにそう言われて、俺ははっとした。
そうだ、オリヴィアさんは瘴気に当てられて苦しんでいた。それで性格が変貌してしまったのかもしれない。だとしたら大変だ!
俺が杖を掲げようとした時、皇子を揺さぶっていたオリヴィアさんはぐるりと俺たちの方へと振り向いた。鋭い眼光に射抜かれ、俺は思わず呪文を唱えるのも忘れてびくりと体をすくませた。
なんだあの目つきは、間違いなく深窓の令嬢がしてはいけないものだ……!
呆然とする皇子を放り出して、オリヴィアさんはつかつかと俺たちの方へ歩いてきた。そして、今度はヴォルフの肩をぎりぎりと強い力で掴み、ドスの聞いた声で怒鳴りつけた。
「貴様もだっ!! それでもあのヴァイセンベルクの末裔か!? 少しは気骨を見せんか!!」
ヴォルフは呆気にとられたようにオリヴィアさんを凝視している。俺も杖を構えた格好のまま固まった。
……大変だ。本当にオリヴィアさんはおかしくなってしまった!!
「え……いや、あの……」
ヴォルフはオリヴィアさんを引きはがそうとしたが、彼女はますます強く肩を掴んだようだ。
「情けない! わらわは情けないぞ!! これだけ守護者が揃いながら、あのような闇の眷属に蹂躙されるとは!! まったく、どいつもこいつも平和ボケしおって……」
そこまで言うと、オリヴィアさんは大げさに顔を覆った。俺は説明を求めようと皇子に視線をやったが、皇子もわけがわからない、というように大きく首を横に振った。
……なんか口調まで変わってるし、本当になんなんだよこれは……。
「……まあ良い。ここは一度わらわが直々に喝を入れなおしてやるとしよう。光栄に思うがよい」
にやりと笑ってそう告げると、オリヴィアさんは胸の前で手を組み、大きく息を吸った。
次の瞬間、まるで衝撃波のような声が響いた。
「……戦紡ぎし女神の地に生まれし子らよ、今こそ千の刃となりて怨敵を葬り去れ!!…… “戦女神の天誅!!”」
オリヴィアさんは聞いた事も無いような大声でそう叫んだ。
その途端、皇子とヴォルフの目つきが変わる。
「……さないと」
「えっ?」
ヴォルフがぼそりと何かを呟いた。俺は思わず聞き返したが、ヴォルフは俺の事なんて目に入ってないようにすっと屋敷の出口の方を振り返った。
「……さないと、滅ぼさないと……」
そこまで聞きとった所で、皇子とヴォルフは弾かれたようにすごい速さで出口へと駆けだした。
「お、おいっ、どこへ行く!!」
「待って……!」
その後を慌てたようにテオとリルカが追いかけていく。まったくわけがわからないまま俺も走り出そうとしたところで、唐突に背後から声を掛けられる。
「待て」
思わず振り返ると、腕を組んだオリヴィアさんがじっと観察するように俺の事を見ていた。
それを見て、やっとわかった。
……目の前の存在は、俺の知ってるオリヴィアさんじゃない。
「……随分と弱体化したものだな」
俺の方をじろじろと眺めながら、オリヴィアさん(?)は嘲笑うようにそう呟いた。
オリヴィアさんの姿をした得体の知れない相手に逃げるべきか迷ったが、ここにオリヴィアさんを一人で置いて行くわけにもいかない。
俺はぎゅっと杖を握りしめると、そのオリヴィアさん(?)に向き直った。
「貴様は相変わらずだな。時勢に流される愚かな小娘よ」
「……言ってる意味が分からない」
ぎりっと睨み付けたが、オリヴィアさん(?)にはふん、と鼻で笑われてしまった。
「また性懲りもなく首を突っ込みおって。貴様も懲りぬ奴よ」
「…………ぇ?」
言っている意味は分からないけど、彼女の言葉に、その全てを見透かすような視線に、俺の胸がざわめいた。
「なに、言って……」
「……まぁ好きにすればよい。ただ、神獣が貴様を認めた以上わらわも黙って見ているけにはいかぬ。貴様の道は貴様で選べ」
俺は何も言えなかった。彼女が何を言っているのかはまったくわからない。
……でも、何故だか心臓が早鐘を打っている。今すぐにでもこの場から逃げ出したくなるような、得体の知れない恐怖感が俺を支配し始めていた。
「だが、心せよ。今後、貴様の意志が世界を揺るがす可能性が生じることをな」
思わず一歩後ずさった。オリヴィアさん(?)の言ってることはさっぱり意味が分からない。
俺の意志が世界を揺るがす? そんなこと……あるわけがないじゃないか!
オリヴィアさん(?)はゆっくりと俺に近づいてくる。そして、目の前までやって来た彼女は、真剣な顔で俺の胸に手を当てた。
「……自分と向き合う事から逃げるのはやめろ。ここまで来たからには、貴様はもう逃げられぬ」
……何のことだよ、と聞き返す暇もなかった。
彼女がぐっと俺の体を押した瞬間、意識の中で炎が爆ぜるような、火花が散るような強烈な衝撃が襲った。
隠していたものを無理やり暴かれるような、一気に霧が晴れるような強烈な感覚に襲われる。
――炎が、燃えていた。
熱い。
熱い熱い熱い熱い熱い――!!!
「うわあぁぁっ!!」
急に怖くなって思わずオリヴィアさん(?)の体を突き飛ばしていた。
彼女は二、三歩よろめいたが、その場で踏ん張ってじっと俺を見ている。
「今、何を……」
「まだ逃げるつもりか。……まぁ良い、遅かれ早かれじきに明らかになることよ」
相変わらずオリヴィアさん(?)は余裕たっぷりの笑みを浮かべて俺を眺めている。
わけがわからない。いったい何がしたいんだこの人は。
……というか、そもそもこの目の前のオリヴィアさん(?)はいったい何なんだよ……!!?
「あんた、誰なんだよ……」
震えた声でそう問いかけると、彼女は待っていました、とでも言いたげに鼻を鳴らした。
「我が名はエルダ。まさか知らぬとは言わせぬぞ?……あまりわらわを失望させるな、哀れな聖女よ」
それだけ告げると、オリヴィアさん(?)はそっと目を閉じて、がくりとその場に崩れ落ちた。
エルダって、あの女神様の……と考えかけた俺も慌ててオリヴィアさんの体を支える。
すぐに彼女のまぶたが震え、そっと目が開かれた。
「あら……クリスさん? あれ……わたくし、なにを……」
「オリヴィア、さん……?」
俺を見る優しげな瞳に穏やかな声。先ほどとは違い、今のオリヴィアさんは俺の知っているオリヴィアさんのように見える。
彼女はそっと俺の手を取って立ち上がると、不思議そうにあたりを見回した。
「そう、わたくし……瘴気に襲われて…………っ、ヴィルヘルム様!!」
オリヴィアさんは急に目を見開くと、焦った様子であちこちに視線をやった。
「ヴィルヘルム様はどちらに!?」
「あの……また、外に……」
俺がなんとかそれだけ答えると、オリヴィアさんは慌てた様子で出口へと駆けだそうとした。
だが、その瞬間暗闇から俺たちに向かって声が掛けられた。
「いったい、何が起こっている……!?」
声の方へ振り返った俺たちは、そこに現れた人影を見て思わず息を飲んだ。
そこにいたのはこの屋敷の主で、アルフォンスさんとディルクさんの父親……シュヴァルツシルト家の当主その人だったのだ。




