29 闇の眷属
ミトロスはあくびを噛み殺しながら俺たちの方へと近づいてきた。いつもの修道服とは違い、今日は魔術師のような真っ黒なローブを身につけている。
彼は俺たちの中にリルカの姿を見つけると、嬉しそうに笑った。
「あっ、リルカさん。元の姿に戻れたんですね、おめでとうございます」
「やっぱり、あなたが……」
リルカは呆然とミトロスを見つめている。……何があったのかはよくわからないが、今のこいつがディルクに味方しているとしたら大問題だ!!
「お前っ、こんなところで何やってんだよ!!?」
「まぁ悪く思わないでくださいよ。今はこちらのディルク様が雇い主なものでね」
ミトロスはまったく悪びれない笑みを浮かべて、俺たちにそう告げた。
「雇い主だと……? おまえ、ティエラ教会はどうしたんだ」
テオがそう問いかけると、ミトロスはまた小さくあくびをして何でもない事のように言い放った。
「あぁ、それもう辞めたんです」
「はぁ…………? 辞めたって……?」
ちょっと待て、何を言ってるんだこいつは。
教会って、辞めるとか辞めないとかそういうものじゃないだろ……?
「僕は勝ち馬に乗りたい主義なんで。あそこはもう駄目ですね」
「それ、どういう……」
「ミトロス、何をやっている! 早くこいつらを始末しろ!!」
ディルクさんが怒鳴ると、ミトロスはあからさまに面倒くさそうな顔をしてため息をついた。
「給料分は仕事をするべきでしょうね…………来い」
いきなりそう低く呟くと、ミトロスは持っていた杖で地面を突いた。その途端、庭園中に散らばった黒い塊から影が溢れだす。
だが、その影は今までのように俺たちの方へと襲い掛かってくることはなく、庭園の中央へと集まって行く。
「何をするつもりだ!」
テオがそう低く呟きミトロスに切りかかったが、ミトロスはひょい、と軽く避けた。
「あなた方もいつまでも教会にしがみついてないで、早く自分の身の振り方を考えた方がいいですよ」
そう言うと、ミトロスは庭園の中央を指差した。集まった影はいつの間にか小さな家くらいの黒い塊を形成し、俺たちの見ている前で唐突にその塊は弾けた。
「うわっ!?」
弾けた場所から溢れた黒い霧が勢いよく俺たちに襲い掛かる。思わず目を瞑ったが、触れたところからまるで毒がまわるような、嫌な感覚の霧だった。
そして、霧が晴れ目を開いた俺は、その向こうの光景に絶句した。
「なんだよ、これ……」
庭園の中央には、薄紫色のぐにゃりとした巨大な塊が鎮座しており、そこから無数の触手が生え、ゆらゆらと揺れていた。そのグロテスクな光景にくらりとめまいがする。
間違いなくこの大地の生き物じゃないとは思うが、その姿は昔図鑑で見たイソギンチャクという生物に似ていた。内陸育ちの俺は実際にそのイソギンチャクを見たことはないのだが、図鑑で見たその姿に強烈な衝撃を受けたのを覚えている。
「どうです? こんな気持ち悪いものと戦いたくないですよね? 降参するなら今の内ですよ」
ミトロスはまるで憐れむような目つきで俺たちを見ている。
……その通りだ。俺だって触手が生えてる謎の生物となんて戦いたくない。戦いたくはないんだけど、だからといってここで降参、なんてできるはずがない!
「貴様、ふざけるなよ……」
「おお怖い。でも、僕だって仕事としてここにいるんで手を抜くわけにはいかないんですよ。みなさんの相手はこの……何だっけ……まぁいいや。この闇イソギンチャクにしてもらうことにしましょう」
テオは鋭い目つきで睨み付けたが、ミトロスは相変わらずへらへらとしていて全く気にしている様子はない。
それにしても……闇イソギンチャクはないだろ……。
しかし、俺が冷静にミトロスを注視できたのはそこまでだった。ミトロスが軽く杖を振ると、闇イソギンチャクの触手が鞭のようにしなり、俺たちの方へと襲い掛かった。
「うわっ!」
間一髪その触手を避けることができたが、今度はイソギンチャクの本体が大きく収縮し、まるで花が花粉をまき散らすかのように大量の黒い霧が吐き出された。
霧が晴れるとオリヴィアさんが地面にうずくまり、ヴィルヘルム皇子も何とか立ってはいるのだが苦しそうに息を荒げていた。
「くそっ、なんて瘴気だ……」
「オレに任せろ! 無理をするな!!」
ふらついた皇子を制し、テオが闇イソギンチャクに斬りかかろうとした。しかし触手が鞭のように妨害し、うまく本体の方へと近づけないようだ。しかも、闇イソギンチャクが揺れるたびに胞子のように黒い霧がまき散らされる。その黒い霧に触れるたびに気分が悪くなる。これは……たぶん瘴気だろう。
俺たちはまだましだが、オリヴィアさんとヴィルヘルム皇子はかなり辛そうだ。
「テオ、駄目だ! 瘴気を出さないようにしてくれ!」
「無茶いうな!!」
「もしかして、本体を燃やせば……!」
リルカがそう呟くと杖を構えた。そうだ、さっきホールでみた黒い影は炎に弱かった。このイソギンチャクみたいな奴が炎に弱い可能性も十分にあるはずだ!
「紅蓮の炎よ、集いて我に仇なすものを燃やしつくせ……」
「っ、“熾光防壁!!”」
リルカが呪文を唱え出したことに気づいたのか、触手の一本がリルカを薙ぎ払おうと狙ってきた。
すぐに俺は光の障壁を出して応戦する。短縮した呪文だったが、障壁はなんとか触手の一撃から俺とリルカを守ってくれた。
「“烈火撃!!”」
その隙にリルカが呪文を完成させ、闇イソギンチャクに向かって炎を放った。
何本かの触手が本体を守るようにと動いたが、炎は触手ごと焼き尽くすとイソギンチャクの本体へと到達した。
「やった!!」
本体全てを燃やすまではいかなかったが、リルカの放った炎は闇イソギンチャクの本体を大きくえぐるように燃やした。
「もう一回やれば……え?」
だが、リルカがもう一度呪文を唱えようとした時、異変は起こった。
庭園中の闇の塊が淡く光ったかと思うと、勢いよく黒い霧が噴出され闇イソギンチャクへと吸い込まれていったのだ。
「うわっ、なんだあれ……!」
俺は絶句した。闇イソギンチャクのリルカに燃やされた部分に黒い霧が集まったかと思うと、次の瞬間には燃やされた部位が再生していた。触手も相変わらずゆらゆらと揺れている。
「再生するよりも早く燃やさないと……!」
「でも、そんなのどうやってっ!!」
ヴォルフは冷静にそう分析したが、どう考えてもリルカの魔法を完成させる速度では闇イソギンチャクの再生速度には追い付かない。
そんなの、一体どうすればいいんだよ……!
「オレがやる」
「えっ?」
何かを決意したかのような声で、テオはそう告げた。
思わず凝視すると、真剣な顔をしたテオと目があった。
「空から燃やし尽くす。そうすれば触手も届かない」
「あ……」
一瞬、テオが何を言っているのかよくわからなかったが、すぐに思い当たった。
空から燃やしつくす、なんて空を飛べる生き物にしかできない。
そう、ドラゴンであるテオにしかできないことだ。
「おまえ達は時間を稼いでくれ。すぐに……」
「困るんですよね、そういうの」
さすがにオリヴィアさんと皇子の前でドラゴンになるのはまずいと思ったのか、テオはどこかへ走り去ろうとした。だがその瞬間、冷たい声と共に黒い衝撃波がテオを襲い、テオの巨体は呆気なく吹っ飛ばされた。
慌てて振り向くと、そこには杖を構えたままの格好のミトロスが立っていた。
「な、おまえ……!」
「時と場所ってものを考えてくださいよ。ここはラーベシュタットのど真ん中。そんな場所の上空にドラゴンなんて現れたら目立ってしょうがないじゃないですか」
いつの間にか現れたミトロスは冷たい目でテオを睨むと、淡々とそう告げた。
「ぇ…………?」
俺たちは一斉に息を飲んだ。
テオの正体がドラゴンである……それは俺たちと、テオがドラゴンになるところを直接目撃した、フリッツをはじめとするブライス城の数名しか知らないはずだ。
それなのに、何故こいつはその事を知っているんだ……!?
「壁に耳ありってことですよ……気を付けた方がいいですよ。特に、あなた方はね」
俺たちの疑問を察したのか、ミトロスはにやりと笑うとそう告げた。
彼は一瞬だけテオから視線を外して俺の方を見たが、すぐにまたテオの方へと視線を戻した。
テオは何とか起き上がっていたが、苦しげに胸を押さえている。
「貴様、何をした……!」
「ちょっとあなたの魂魄を縛っただけです。こんなところにドラゴンなんて出てきたらシュヴァルツシルト家の信用問題になるじゃないですか。あ、安心してください。一時的なものですから」
ミトロスは事務的にそう告げた。テオはものすごい目つきでミトロスを睨み付けている。
ミトロスの言い方、それにテオの態度からして、もしかして……ドラゴンに戻れなくされたのか……!?
「さぁ、この状況をどうします?」
ミトロスは何故か愉快でたまらない、とでもいうように笑った。その笑みに背筋がぞくりと寒くなる。
いったい、こいつはなんなんだ……!?
その時、切羽詰ったような皇子の声が響いた。
「……ここは瘴気が強すぎる!! 一旦屋内へ退こう!!」
ぐったりしたオリヴィアさんを抱えたヴィルヘルム皇子が俺たちの方へと走ってきた。
闇イソギンチャクはさっきよりも活発に瘴気をまき散らしているようだ。このままだと俺たちもオリヴィアさんのように動けなくなるかもしれない。
皇子の言う通りに、取りあえず俺たちは屋内へと撤退することにした。
先を走るヴィルヘルム皇子を追ってその場を後にする。走る途中にちらりと振り返ると、まだミトロスは興味深そうな目で俺たちの事を見ていた。




