95.あつまれ 幻霧の森
深紅の鱗をもつ巨龍が飛ぶ。
コンテナを抱え、幻霧の森を目指していた。
「ミッケル様、間もなく到着となりますので、お席に」
龍平の声で我に返ったミッケルは、震える膝を叩きながらソファへと向かう。
既にレニアとナルチアは着席し、タエニアがミッケルの着座を待っていた。
「済まないな、リューヘー君。私はどうも高いところが苦手で。城の尖塔すら登るのは嫌なんだよ」
苦笑いを浮かべつつ、ミッケルはソファに身体を沈める。
それでも苦笑いで済ませるあたり、やはり完璧超人だ。
「リューヘー様、ベヒーモス様にはどのようなご説明をなさるおつもりでしょうか? あのとき確かに何でもするとは仰っておられましたが、ティラン様に怯えてのことと存じます」
前回の里帰りに同行したレニアは、どこがどう波長が合ったのかは知らないが、ベヒーモスとずいぶん馴染んでいた。
これから長い間生活を共にする上ではありがたいことだが、妙に肩入れしているのが気になっていた。
「う~ん、最初だけ荒療治が必要なんじゃないかと思うんだよ。なんせ孤高の獣王だろ? 今まで腕自慢が問答無用で殴りかかってきたんだ。人間不信も仕方ない。とにかく、一回は王都に行っておいた方がいいと思う。レニアみたいに悪意なく付き合える人間がいるって、知っといてほしいんだよ」
ベヒーモスを酷い目に遭わせようとしている自覚はある。
それでもレニアとは馴染んだように、他の人間とも馴染めると龍平は信じたかった。
「リューヘーさん、大丈夫ですぅ。きっと解ってくれますよ。私も今度は気絶しないように、心を強くもつですよ」
前回、あえなく失神二連続の上、乙女の尊厳に関わる事態に陥ったナルチアが、胸の前で拳を握っている。
赤龍と和解したあとのナルチアは、幻獣や魔獣に対する偏見をきれいさっぱりと投げ捨てていた。
なによりも、ベヒーモスに申し訳がない。
敵対などしていないにも拘わらず、その姿を見ただけで気を失うなど博愛の神を信仰する筆頭巫女にあらざる振る舞いだった。
今回、なんとしてもベヒーモスに謝り、共に王都に行くことを説得したい。
多少の視野狭窄はあれど、一本気なナルチアらしい決意だ。
「そういってくれると助かるぜ。なんだか、レニアはベヒーモスさんに対して、ナーのティランへの接し方と同じ感じなんだよな、過保護ってのとはまた違うんだけど」
レニアがティランを遠ざけるようなことはしないが、なぜかベヒーモスからは然り気無く引き剥がそうとしていた。
もっとも、強引なまでにベヒーモスの気を引こうとしているティランの行いが、まったくの逆効果になっていると気づいているからだ。
「ティラン様のお気持ちもわかるのですが……あそこまで怯えてしまうと、ちょっと……」
レニアの言葉は、もちろんティランにも届いている。
ただ幼児退行著しい朱の龍も、どうしていいか判らないだけだ。
「まあ、時が癒してくれるさ。そろそろあのふたりの掛け合いもリューヘーとレフィのじゃれ合いと同じになるさ。アミアもそう思うだろう?」
ケイリーは特に心配していなかった。
龍平とレフィの掛け合いを見ていれば、心が通じさえすれば恐怖などいとも簡単に払拭できると信じている。
「ええ、その通りですわ。もし、本当に嫌なのなら、ベヒーモス様が皆様の前にいらっしゃるはずがないですもの」
鈴を転がしたような涼しい声が答える。
アミアは決して楽天家ではない。
大領を背負ってた父の背中を常に見て育ち、今はいざとなればネイピアを背負う覚悟を持っている。
そのためには、冷徹な観察眼を養う必要があり、アミアはそれを怠っていない。
その眼が大丈夫だといっていた。
ああ、いたんですね、おふたりさん。
おふたりの周りだけ空気がピンク色してませんかねぇ。
もっとやれ。
主に横に控えるバッレさんとミウルさんのために。
「お屋形さま、もう少し皆さんの目ぇ気にしちゃくれませんかねぇ。ちょいと目のやり場に困ってらっしゃる方もいらっしゃいやすんで」
普段は凛々しく育った領主の醜態に、バッレは暗澹たる思いだった。
いくら友達の前とはいえ、神殿の巫女がいる前で許される振る舞いとは思えない。
領主は領主で敬い立てるが、年嵩の者としては、ひと言もの申さずにはいられない。
やっかみ半分、告白する勇気のない自分の八つ当たり半分であることをバッレは無理矢理飲み込んでいた。
「幻霧の森かぁ……噂には聞いてるけど、どんなとこなんだろ。冒険者は辞めちゃったけど、ちょっと興味あるかな。今回森には入らないんでしょ? バッレさん、行ったことあるよね? どんなとこだった?」
さすが、もと冒険者。
思い切りの良さを、ミウルはなくしてはいなかった。
バッレの気を引くべく話を振るが、帰ってくるのは冷徹な論評ばかりだ。
その話をミウルは楽しそうに聞いているが、アミアとケイリーは残念そうな、申し訳なさそうな視線を送っていた。
もちろん、戦いとなればバッレの果断さはディヴに続いて群を抜いている。
だが、田舎者の悲しさか、女性相手は不馴れなままだった。
やがて森が切れ、草原にな瀟洒な館が見えてきた。
赤龍がゆっくりと降下していく。
「……ようこそ……皆様……リューヘーにレフィ、ティラン……元気……そうで……なにより……今回、は……いつまで……? ……腕に……よりを……かける……」
ガーネットの髪を揺らし、セリスが見事な姿勢で一礼する。
フェロニエールが陽光に輝いていた。
「大人数で押し掛けてしまい、誠に以て申し訳ない。だが、今回の来訪は今後に関わることゆえ、ご容赦をいただきたくお願い申し上げる。此度は王都の食材もお持ちした。皆様のお口に合えば幸甚だ」
まだ僅かに蒼ざめたままのミッケルが、一同を代表して挨拶を返す。
こちらもまた、背筋に金棒でも入っているかのような、見事な礼だった。
今回、土産としてコンテナに食材を満載してきた。
素材では勝てないかもしれないが、幻霧の森では手に入らない果実やハム、ソーセージといった加工食品がメインだ。
「ん……ありがたく……私は……見たことは……ないけど……ワーズパイト様の……文献……で……知って……いる……でも……どう……すれば……十全……に……良さを……ひきだせば……いいかは……知らない……皆様……に……お手伝い……いただきたく……」
幻霧の森で手に入る食材は、野鳥類の肉と卵、まれにウサギ、キノコや山野草に季節の果実、ワーズパイトが持ち込んでいた野菜などだ。
牧畜など行えない環境で、豚や牛、羊や山羊といった家畜の肉は望むべくもない。
今回持ち込まれた食材を、どう活かしていいかセリスには判らない。
加工食品がどのようなものか、その知識はあっても見るのは初めてだった。
「おう、任せろセリス。それから、セリスがまだ食ったこともないお菓子も用意してるぜ。ワーズパイトさんも、リッチさんだって知らねぇはずだ」
行き掛けにバルゴに寄って、大量の牛乳を仕入れてある。
もちろん、前もって頼んだものだ。
龍平は幻霧の森の幻獣たちに、アイスクリームをはじめとした現代地球の菓子を振る舞おうとしていた。
そんなものから人間社会に興味を持ってほしい。そう願うがゆえだった。
──ほう、儂も知らぬとな? それは興味深いの、リューヘー。そうは思わぬか、セリスよ。この歳にもなって、新たな興味を掻き立てられてばかりじゃのぅ。礼を言うぞ──
凝縮した闇が、背後に立った。
リッチと初対面のネイピア組の喉から、一瞬絞り出すような悲鳴が漏れかける。
同じく初対面のタエニアは、動じてもいなかった。
ただ冷静に主を守るように、臨戦態勢を取っていた。
「ご無沙汰しておりますぅ、お爺様ぁ。ええ、とっても美味しいお菓子です。是非お楽しみにしてください。皆様、ご紹介させていただきます。冥界の大賢者といえば、皆様もご存じのはず。リッチ様です」
悲鳴が絶叫に変わる前に、ナルチアが飛び出した。
前回落ち込んでいるところを慰められて以来、すっかりリッチになついていた。
──ぉお、ナルチアか。久しいのぅ。息災にしておったか? 皆への紹介、助けられたの。どれ、脅かしてしまったようじゃが、この姿では仕方なかろうて。ご容赦願おう。さてさて、冥界の大賢者かどうかは知らぬが、リッチじゃ。よろしゅうのう──
凝縮した闇の中に爛々と光る蒼白い焔が、両目の位置を表している。
その焔が揺らめき、好好爺然とした念話が伝わってきた。
「爺ちゃん、楽しみにしてくれていいぜ? あとで度肝を抜いてやらぁ」
こちらもすっかりリッチになついた龍平が、普段とはまるで違って甘えるようにぞんざいに言った。
リッチがいないときにはさん付けで呼んでいるが、面と向かえば祖父と孫のような関係を築いている。
あらゆる疑問に答えてくれるだけではなく、帰還を全力でサポートしてくれる冥界の大賢者に、龍平は祖父を見ていた。
リッチもまるで恐れることなく慕ってくれる龍平とナルチアを孫として可愛がっていた。
「とんだご無礼を。どうか、ご寛如のほどを。ミッケルが従者、タエニアと申します。以後お見知りおきのほど、御願い奉ります」
臨戦態勢を解き、タエニアが深々と頭を下げた。
そもそもミッケルが警戒すらしていない相手だ。
完全な勇み足だ。
謝罪は当然のことと、タエニアは頭を下げたまま身動ぎひとつしなかった。
──よいよい、タエニア殿。見事な身のこなしよ。謝罪は受け取ろう。もう気にせず、頭を上げなさい。ミッケル殿、よき従者をお持ちだの。リューヘー、異界の菓子かの? そなたが言うのであれば間違いなかろうて。楽しみじゃのう──
見た目とはまったく違う好好爺がそこにいた。
王都に巣食う好好爺然とした妖怪どもとは、まるで違う超越者だった。
「ん……リッチ様……皆様……どうぞ……中へ……間もなく……ガルーダ様も……お越しに……なります……ベヒーモスは……来て……から……考える……」
セリスの案内で、ワーズパイトの館へ入る。
広間へ入れば、晩餐の席が設えてあり、前菜の支度はもう済んでいた。
「……ん……まずは……皆様……乾杯を……リッチ様……ご発声……願います……」
それぞれのカップにセリスが育てた麦から作ったエールと、幻霧の森で採れた蜂蜜から作ったミード、そしてハーブティが注がれる。
リッチがカップを持って立ち上がった。
──素晴らしき出会いとは、何度あってもいいものじゃ。儂がこの森に隠遁して五百有余年。正確な年月などもう忘れてしもうた。じゃが、この森が初めてひとびとに開かれ、惑う幻獣や魔獣にも開かれる。これは、喜ばしい変化だ。ご唱和を願おうぞ。その未来に、乾杯──
リッチの発声に、皆の唱和が重なる。
今ここにいる者たち全員は、同じ未来を見つめていた。
「……ん……では……皆様……しばし……ご歓談を……リューヘーに……手伝って……ほしい……タエニア様……ここは……私と……ワーズパイト様の……館……今日……タエニア様は……お客様……どうぞ……おくつろぎに……」
しばらくはつまみも保つだろう。
その隙に他の料理を仕上げるつもりだったセリスは、立ち上がりかけたタエニアを座らせて龍平を呼んだ。
「おう、任せとけって。あとレフィ、ティランも来てくれ。今日は俺たち四人が迎える側だからな」
早速龍平は台所に入る。
いつかセリスがマッサージで寝こけて以来だった。
台所はセリスの聖域だが、新しい知識となれば話は別だ。
そして、龍平と龍がそれぞれ荷物から食材を取りだし、やるべきことを始めた。
「そっちゃぁ時間かかるから、適当に抜けて食って来てくれ。お前らも食いたいだろ、久し振りのセリスの手料理。俺の方は煮込みだから、仕込んじまえばあとは火加減だけだ」
玉ねぎを四つ割りに、キャベツをざく切りに、ニンジンを輪切りにして鍋に放り込む。
ソーセージはそのまま、ハムをブロックに切って、これも鍋へ。
そして水とワインを注ぎ、火にかけた。
「よし。出汁はソーセージとハムで充分だからな。玉ねぎが溶け始めたら塩で味を整えて出来上がり、と。じゃあ、ホイップ始めっか!」
ポトフの仕込みを終えた龍平は、卵を割って黄身と白身に分けていく。
セリスにやり方を教えつつ、レフィだけでは追い付かない生クリームのホイップを、この日のために作ってもらったホイッパーで始めていった。
レフィがその気になれば、全量をホイップするなど朝飯前だ。
だが、残念ながらボウルの大きさが追い付かない。
ここにいる面子だけであればボウル一個で充分だが、いずれ来るであろうベヒーモスの分を考えるとそれでは足りない。
金属筒もひと一人入りそうな馬鹿デカイ特別製を、レイナードに頼んで用意してあった。
ボウルも作りゃよかったとか言わない、そこ。
──来たわよぉ、セリスぅ。わざわざ呼んどいて出迎えもなしぃ?──
館の外から地響きが聞こえ、妖艶な念話が伝わってくる。
少し意地悪く聞こえる口調だが、レニアが来ることを期待しているのが丸分かりだ。
──すまぬ、遅くなった。そこでベヒーモスと会って、共に来た次第。皆揃っているようだな。出迎えには及ばぬ。入らせていただくぞ──
凛々しくも野太い声を彷彿とさせる、ガルーダの念話が届く。
少しの間をおいて、金色に輝く雷神鳥が広間に入ってきた。
改めて見るまでもなく、身長二メートルを超える堂々たる筋肉質の身体は、威風堂々という言葉を受肉化したようだ。
金色の風切り羽を畳み込み、威厳溢れる姿勢で一礼する。
ここでも初対面同士の挨拶が交わされ、改めの乾杯となった。
もちろん発声はガルーダだが、リッチのように指のある手を持たないため、念動力でカップを操っている。
──幻霧の森にも新しい時代が来よう。それは我々も同じこと。戦いのない、自由な時代の到来を祈念して。ご唱和願う。乾杯!──
その挨拶を聞く限り、ガルーダもリッチも王都行きを断ることはなさそうだ。
ミードのカップを空けながら、龍平はほっと胸を撫で下ろしていた。
窓の外を見れば、レニアがベヒーモスの鼻面を掻き抱いている。
くすぐったそうなベヒーモスの視線がセリスを捉えていた。
──ベヒーモス、あなたからも挨拶を──
ベヒーモスの視線に気づいたセリスが、挨拶のトリを促す。
レニアも邪魔にならないように、その場から一歩退いた。
──あたしは、嫌よぉ。人間の集落に行くなんて、絶対になにがあってもお断りだわぁ──
まさかの、いや案の定の拒否。
一瞬座が凍りついた。
もちろん、誰も絶望はしていない。
誰もが諸手をあげて賛成すると思うほど、皆楽天家ではなかった。
そもそもが、それを説得するための里帰りだ。
ベヒーモスのスタンスを、改めて確認できたところから始めればいい。
──でもぉ、あたし言ったのよぉ、何でもするって。嘘はつきたくないわぁ。だから行く。どこへだって行ってやるわぁっ! ……そうよ、この森に暮らす幻獣たちを守るため、あたしはなんでもしてあげるわぁ──
これを世の中では開き直りというのかもしれない。
ともあれ、最大の難関をあっという間に潜り抜けた龍平は、深い安堵の溜め息を漏らした。
ティランが怖いからって突っ込みは無しの方向でお願いします。




