88.森のくまさん、こちらも魔獣
レフィが打ち倒した三匹の巨大な蜘蛛をアリストが検分する間、龍平は嫌な気配に捕らわれていた。
カナーリィ家の家臣たちも同様で、それが人間ではないことも把握している。
遠巻きに、期待し、苛立ち、恐れ、だが好奇心に満ち満ちた、様々に入り交じる感情。
ひとつの個体ではなく、複数。おそらくは冬眠明けの親子連れの獣。
普段であれば、ひとの気配があるところに出てくることはないだろう。
しかし、その個体群は空腹に耐えかねてか、正常な判断力が鈍っているようだった。
体力が激減した身体でも、労せず手に入れられそうな獲物がある。
だが、その側には人間だけではなく、どう戦っても勝てるとは思えない幻獣の姿もある。
耐えがたい空腹に、本能としての食欲。
耐えがたい恐怖に、本能としての闘争。
仔を守る親として、魔獣は闘争と逃走の境界線上にいる。
そして、それをレフィは理解していた。
──これだけでは、あの親子の腹の足しにはならないわね。リューヘーもう少し狩りましょう。いずれにせよ、この魔蜘蛛はまだまだいる。カナーリィ殿には、そう言ってほしいかしら──
小さな赤い龍から、龍平だけに念話が飛ぶ。
龍平も魔獣の気配に気づいていると、そう判断して。
──いいのか、あれほっといて? 巻狩で人的被害でも出たら、洒落にならんぜ?──
龍平からは、至極当たり前の疑問が返された。
強力な攻撃魔法なり、鉄壁の防御魔法なり、熟達した武芸または猟師としての能力なりを身に付けた者でなければ、あれには立ち向かえないと龍平には思えていた。
──あなたはやっぱり莫迦かしら? カナーリィ家が把握していないとでも思って? 常に猟師が入る森じゃなくてよ? 互いに不干渉ってことくらい、解っているかしら──
小バカにした念話に、龍平の血が頭に昇る。
それでも激昂しないだけ、少しは成長したようだ。
──帰ったら、足つぼマッサージの刑な、大悪女──
最近になって対抗策を講じられてきた、龍平最大の攻撃技を念話で返す。
最後のひと言を放ったあと、しっぽの殴打からの反撃と乱闘に思いが至り、龍平は少しだけ慌ててしまった。
もちろん、赤龍の暴威で魔獣が怯えないよう、レフィは自重している。
それに、足つぼマッサージに捉えられようと、それを気に入ってしまったティランに入れ替われば、何の痛痒もない。
小さな赤い龍の鼻から、龍平を嘲るように白煙が吐き出される。
龍平を蔑むようかの視線が、それに絡んだ。
いうまでもなく、魔獣はひとにとっての脅威だ。
野性動物なら狩れる弓矢も罠も、あっさりと無効化してしまう。
だが、基本的には互いのテリトリーさえ侵さなければ、それでいい。
積極的な侵攻は、互いにする気はなかった。
この御料森は他にあるような自然の森とは違い、王族の巻狩以外に狩りは行われない。
なにより、獲物が少なくては退屈だ。
生業ではなく、遊戯としての狩りが目的だ。
王家のひとびとが何日も獲物を求めて森に潜むなど、あってはならない。
もちろん巻狩の前には、勢子たちによる数日に及ぶ入念な追い込みがなされている。
当日王家のひとびとは、足場の良い狩り場で数刻の時を待っていればいい。
さらには逆襲してきた獲物に王族が危険に晒されるような、そんな動物がいてはならない。
基本、鹿や兎のような草食性か穴熊などの雑食性、狐のようなゲーム性高い獲物が主となってくる。
雑食であっても強烈な突進力や攻撃力を持つ猪や熊、群れなどは作らず隠密性を持ち闇から忍び寄る虎などは対象外だ。
このような危険な動物は、事前に駆除しておかなければならない。
かといって、常にひとが入るような森では、獲物が警戒心を持ち過ぎる。
そして、天敵がいなくなった森が鹿によってどうなるかは、考えるまでもない。
つまり野性動物の間引きには野生の生き物を用い、生態系の恒常性に頼ることになる。
高い社会性とひとを避ける知性を持つ狼や、無闇な戦闘を避ける知能を持つ魔獣などがその役を担わされていた。
そして、怯えながら期待しながら遠巻きにしているあの魔獣の家族もその役であることを、その場にいる者すべてが心得ていた。
龍平以外。
それは、長い年を経て魔獣へと至った雌熊だった。
なにをどうすればそうなるのかまだ誰も解明していないが、彼女は熊から魔獣へとなっていた。
本来であれば駆除の対象のはずが、生来の慎重さから長い年月を生き延びさせてきた。
野生で二、三〇年といわれる寿命をはるかに超え、その数倍以上の年月だった。
レフィの通算とほぼ同い年のこの魔獣は、魔法や武器という強大な戦力を組織立てて運用する人間を恐るべき相手であると認識していた。
さらに、こちらから手を出さない限り人間から向かってくることも、本気の闘争でなければ簡単に逃げ切れることも、本気で消したこちらの気配を感じとれないことも知っていた。
それは彼女が人間に悪意と狂気を向けないのであれば、この森がサンクチュアリになるということを意味している。
そして長い年月は、彼女にそのこと理解させる知性を持たせていた。
本能のみに従う同族や、人間が森深くまで入り込む原因となりうる危険な野性動物を叩きのめし、彼女は御料森の女王となった。
数年に一度、配偶者を求めて森を出ることはあっても、一年程度の短期で終わる子育ての時期には御料森に帰ってくる。
一年間、溢れるほどの愛情を仔に注ぎ込み、御料森を出て生きていくだけの力を育む。
この森に自分以外の熊を、残すわけにはいかなかった。
この年、龍の気配に当てられ、いつもより早い冬眠からの目覚めを迎えてしまった。
つまり彼女とその仔たちも、また被害者だった。
──そろそろ、彼女たちにここを譲りましょう。相当お腹を空かせているみたいかしら。獣と違ってそれほど食べである獲物じゃないけど、それでも数日分にはなるかしら──
小さな赤い龍から、その場にいる人間全員に念話が伝わる。
それに反対する者は、誰もいなかった。
──そこのあなた、私たちは去るから、ゆっくりと召し上がれ。同じような蜘蛛がいたら倒しておくから、よかったら探してほしいかしら──
熊の魔獣親子に向けた念話は、間違いなく伝わったようだ。
それまで感じていた恐れの感情が鳴りを潜め、その代わりに焦りの色が濃くなっていった。
龍平たちは魔蜘蛛の死骸から離れ、振り向かないで歩き去っていく。
やがて背後から魔熊親子が魔蜘蛛にかぶりつく音や、肉を噛み裂く際に思わず漏れる唸り声が聞こえてきた。
「なあ、あの仔たちも魔獣なのか?」
魔熊親子の唸りが聞こえなくなった頃、もう話しても大丈夫な距離だと判断した龍平が訊ねた。
魔獣に対する恐れや忌避感ではなく、純粋な興味としてだ。
──どうしたのかしら? 仮にあの仔たちが魔獣だとしたら、あなたはどうしたいのかしら?──
駆除する?
そんな言葉が続きそうな念話が帰ってきた。
「そうさな、うちの住民としてスカウトするか?」
御料森に魔獣が満ち溢れているとは、聞いたことがない。
ならば、あの仔たちは子別れのあと、この森を出ていくことになる。
おそらく、複数の魔獣を養うほど、この森の生産力は高くない。
それに、この狭い森にあの魔熊の子が溢れ反るほどに増えてしまえば、遠からず近交劣化で自滅する。
人間であれば、近親相姦は倫理感で禁忌とできる。
しかし、倫理観など持たない野生の動物にとって、目の前にいる異性個体は交尾の対象でしかない。
数世代では不都合は発現しないが、一〇、二〇代と世代を重ねるに従いそれが露になってくる。
有名な例としては、スペインのハプスブルグ家に見られたしゃくれ顎だ。
権力を一族のなかに保持するため近親交配を繰り返した挙げ句に得たものは、宿痾の下顎前突症や知的障害だ。
六五〇年に及ぶ栄華も、最後は断絶という形で終焉を告げている。
そんな悲劇を避ける野生の知恵が、子別れだ。
ドキュメンタリーなどで甘えてすり寄る子獣を、ある日いきなり母獣が攻撃するシーンを見ることも多いだろう。
あくまでも甘えたい子獣に対し、決してそれを許さない母獣。
つい昨日まで甘やかし、丁寧に毛繕いをしてくれていた母獣が、突如として敵に変貌する。
もちろん、母獣が子獣を殺傷することなど決してなく、あくまでも母獣のテリトリーから追い出そうとするだけだ。
そして最後は、ついに諦めた子獣が、寂しそうに振り返りながら去っていくシーンで締められる。
もっとも、子獣が去ればすぐに発情期が訪れ、新たな配偶者を母獣は迎え入れる。
人間の勝手な都合でしかない感動をぶち壊にするシーンは、ドキュメンタリーに使われることはあまりない。
──それは、魔熊の累代を考えてのことかしら? それとも、あの子たちだけのことかしら?──
現代地球世界のような生物学の知識はなくとも、近親交配の危険性は経験的に知られている。
もし、龍平が魔熊の累代を考えているのなら、それはあまりにも無責任だ。
近交劣化を防ぐためには、血縁関係のない個体が最低でも二〇〇個体は必要といわれている。
それだけの魔熊を集める手間も龍平たちにはなく、それだけの魔熊を養う余裕も幻霧の森にはない。
レフィが考える魔獣の保護は、あくまでも理由もなく迫害された個体を対象としていた。
目についた魔獣すべてでもなく、正当な生存競争に破れた個体でもない。
同情だけで救えるほど、魔獣や野性動物の保護は安易に手を出していいことではないし、簡単にできることではない。
その辺りを龍平がどう見ているか、レフィはそれが気掛かりだった。
「あの子たちだけだな。すべてを連れていけるほど簡単なこっちゃねぇよな。この先も迫害された魔獣を保護するにせよ、俺たちの目についたやつらにしか手は届かねぇんだからさ。どれもこれも特別扱いだよ」
あっさりと龍平は正解にたどり着いていた。
どう頑張っても、すべてを救うことはできない。
たとえ一個体でも救うなどとは、その時点でとんでもない思い上がりだ。
思い上がりと自覚しているなら、それを貫くしかない。
手の届く範囲で、保護できる範囲で特別扱いだと自覚してやればいい。
たとえ一個体でもやれば一だし、偽善だと切り捨ててやらなければ〇だ。
一と二の差はたったの一でしかないが、それは有るものとして数えられる一だ。
だが、〇と一の差も一でしかないが、有と無の間には越えられない溝がある。
──ま、連れていくにせよ、今じゃないかしら。あの母熊が許さないわ。それにあの仔たちは、まだ魔獣ではないわね。子別れのあと生存競争に勝ち残り、そのうえで縁があれば、かしら──
仔熊たちからは、魔獣特有の気配は感じられなかった。
成獣であれば眼の色が違うなり、毛色が違うなりの特徴が発現するが、仔獣のうちは元の種と見分けがつかないことの方が多い。
幻獣としての嗅覚と視覚でレフィは子熊を見ていたが、あの仔たちから魔獣の気配は感じられなかった。
再会するのは、母獣のように寿命をはるかに超えるほどの生存競争を、勝ち抜いてからだ。
そのとき、おそらく龍平は寿命を迎えて生きてはいまい。
世界が滅びるまで、いや滅びたあとも生きねばならない龍でなければ、あの仔たちとの再会は叶わないことだった。
一抹の寂しさを抱え、この夜の夜営をレフィは過ごした。
火の番は御料森監督役配下の兵が受け持ってくれたため、龍平共々朝まで寝かせてもらったが、寝付くまでの間、とりとめのない思考の海にレフィは沈んでいた。
翌朝、異様な気配に龍平は目を覚ました。
辺りを見回せば、ティルベリー以下の人間全員が、どうしていいか解らないといった表情で、ある一点を見つめている。
つられて龍平も、皆の視線と同じ方を見る。
そこには横臥した巨大な熊の腹に潜り込んだ二頭の子熊と、安心しきった表情で眠る小さな赤い龍がいた。




