87.森のくもさん、ただし魔獣
体長二メートルに及ぶ巨大な蜘蛛が、雪の上を歩いている。
本来であれば昨秋の終わりに産み落とされ、しなやかな糸に守られたた卵塊は、もうしばらくしてから一斉に孵化するはずだった。
そして、しばらくの間は群れで過ごし、良き風の日を選んで旅立ち、遥かな空の向こうに棲息域を広げるはずだった。
それがどうしてか孵化が早まり、群れで過ごすはずが凄絶な共食いが起こっていた。
その結果、数百の兄弟姉妹が揃って飛び立つはずが、たった数匹が残るのみ。
そして、夏を越す頃にようやく達するはずの種としての最大サイズに、この時点で到達してしまっていた。
春と共に虫たちが冬眠から覚め、また彼らのように冬を越した卵から孵り、それぞれが織り成す生存競争のなかであれば、適正な餌の量が調整され確保される。
だが、なぜか狂ってしまったバランスは、生き残った彼らに充分な餌の量を確保していなかった。
本来、人里離れた深い山塊に棲むはずの彼らの母蜘蛛が、なぜガルジアの御料森に来たのかは解らない。
なによりこの森ではすべての個体野原を満たすだけの餌など、最初から足りなかった。
正しい時期に孵化したとしても、彼らの運命は変わらなかったのかもしれない。
それでも生存本能に従い、生き残った彼らは歩き続けている。
餌を求めて彼らはさ迷う。
もし森のなかで出会ってしまったら、兄弟姉妹であろうと強い者が喰らい尽くす運命を背負ってしまった。
彼らはもう飛べない。
巨大な蜘蛛が、あてもなく森のなかをさ迷い歩いている。
「な、なんであなた様がここにいらっしゃるんですか?」
出発の朝、いきなり逃げ出さなかった自分を、龍平は誉めてやりたかった。
そして、朝靄の中で明らかに回りの人間とは違うオーラの持ち主に気づいたとき、脇目も振らずに逃げ出さなかった自分を呪ってやりたかった。
「なんだ、そんなことも解らんかフレケリー卿? なんでもなにも、私がいなければ御料森には入れんぞ」
王位継承権第一位、ガルジオン王国王太子ティルベリー・ド・ノンマルト・ガルジオンは、しれっとした態度で平然と答えた。
きちゃったよ。一番厄介なのが。
龍平は目の前が暗くなっていくなかに、絶望の表情で頭を抱え込んだアリストを見た気がした。
まあ、現実逃避で改善されることなんて、なにもないんだけどな。
──お戯れはそのあたりで、殿下。私どものためにわざわざのお見送り、恐悦至極にございますわ──
再起動する気配のない男ふたりは一旦放置すると決めたレフィが、空中で見事な姿勢から一礼する。
本来であれば、世の中が正しく動いているならば、これで終わりのはずだった。
「うむ、戯れもこれまで。時間がもったいないな。指揮官は誰か? 早く出発させよ」
うん、あんたの言葉も正しいね。
門の外に向かって騎乗しているのも、見送りならば正しい方向だな、王太子殿下。
でも、なんであんたの後ろで小さな赤い龍が喚き散らし、龍平が死んだ魚の目になって、アリストさんが頭抱えてるんだろうなぁ?
あんたが先頭で出ていくようにしか見えねぇよ。
あんたに万が一のことがあってみろ。
両陛下と両尚書が泣くぞ。ご兄弟ご姉妹で泣いてくれるひとは、いればいいけどな。
それだけじゃねぇからな。
龍平とアリストさん一族の首が王城前に並ぶぞ。
物語終わっちゃうぞ。
ついでに怒り狂った赤龍が暴れて王国も終わっちゃうぞ。
だからやめろください。
──仕方ない王子さまね。ほら、リューヘー諦めなさい──
多少なりとも王族という生き物を知っているレフィから、諦めとも取れる念話が届く。
あとでしっかりと両尚書から迷惑料でもふんだくってやると、小さな赤い龍は、その凶相を王城に向けていた。
「……来ちまったもんはしょうがねぇか……殿下、御料森のことは私よりよくご存じでしょう。ですが、今回は正体不明の魔獣調査です。勝手知ったるからといって、おひとりで専行だけはご容赦ください。それから、もちろん両陛下ならびに両尚書閣下はご存じですよね?」
建前上この国第二位の権力者を、龍平やアリストごときが追い返すなどできるはずもない。
それでも好き放題されたりしたら、調査どころではなくなってしまう。
諦念を漂わせるアリストを背に、龍平は言わずにはいられなかった。
おそらく、再調査だろうと思いながら。
「何を言っているのだ、フレケリー卿。いや、リューヘー。黙って出てきたに決まっているだろう。素直に話して、父や爺どもが行かせてくれるとでも?」
うん、打ち首決まりだね。
背後からアリストの嗚咽が聞こえてきた。
「いいのか、放っておいて? どこに潜んでいるのか、まだ判らんのだろうが」
王の執務室に、大人が集まっている。
カルミアを筆頭にキルアンとサミウルの両尚書、近衛を束ねるステルバイと国軍の長エリン伯リパロス、そしてセルニアン辺境伯バーラムが揃っていた。
この面子が集まって、茶飲み話でもない。
いうまでもなく、議題はカナルロクへの善後策だ。
情報をまとめたバーラムの登城日に合わせ、御料森の調査日程を調整していた。
もちろん、冒険に憧れて城内で鬱々とした日々を過ごすティルベリーに、親衛隊を通してリークした上のことだ。
たったひとりで親衛隊にすら黙って飛び出し、両親と両尚書を出し抜いたと思わせておいて、しっかりと影に護衛はつけてある。
大人になったと過信している王太子は、まだまだ大人たちの掌の上だった。
「ダメだと言われて引っ込むような者では、王など勤まらん。こんなときに諫めるだけの家臣しか持てぬ者に、王などできるはずもない。そうだろう? 構うものか。ドラゴン殿もついておる。いざとなればあやつの横っ面のひとつやふたつ、張り倒してくれようて。あれはどこぞかは知らぬが、王家の血を持っとる」
若かりし頃、キルアンとサミウルに連れられて王城を抜け出し、山野を駆け巡った思い出が心を通りすぎていく。
帰ってからが大変だったが、あの手の冒険は一度や二度で飽きるものではない。
結局は安全を保障されたなかでのスリルでしかなかったが、度胸をつけるにはいい経験だったと思っている。
今でこそ好好爺然とした両尚書も、まだ血の気の多い青年であったし、籠の鳥にうんざりしていた頃の話だ。
「いいのか、あやつにも聞かせなくて?」
ろくでもない思い出話に花が咲きそうになり、バーラムがその腰をへし折った。
酒がほしくなるような話は、陽が暮れてからでいい。
それよりも今はカナルロクへの怒りを滾らせ、説得される役を演じねばならない。
関係者全員の中で話はついているにしても、国境侵犯に対してなあなあの話し合いで終わらせるわけにはいかない。
どうせ話は漏れている。
ならば、こちらの意思をはっきりと伝えるまでだ。
そういった阿吽の呼吸は、教科書に載っているようなものではない。
掴み合いの喧嘩までやって、初めて解るものだ。
今回は地方領主まで巻き込んだ、滅多にないいい機会だ。
これを教育に使わないのは、いささかもったいないとバーラムは思っていた。
やはり気づきやがったか。
同種の血は解るもの、か。
「まだ早い。あやつに聞かせてみぃ。お主より先に、カナルロクまで駆け抜けようぞ。大人の仕事に口を挟むには、あやつはまだまだ子供過ぎる」
苦笑いを噛み殺しながら、サミウルがバーラムの問いを引き取る。
王太子への辛辣な評価が、国を背負う男たちの会議の始まりとなった。
「だいたいな、酷いとは思わぬか? 私はもう大人だぞ。立太子を済ませた者を、いつまでも子供扱いしおって、あの爺どもは」
御料森への道すがら、憤懣やる方ないといったばかりにティルベリーの文句は続いている。
おおかた政治や軍事に口出ししようとして、あっさりと止められてばかりなのだろう。
この王太子が無能だとは思わないが、如何せん純粋培養過ぎたようだ。
理想に燃えるのはいいが、まだ現実が見えていない。
多少の現実に躓きはしているが、両脇を大事に抱えられたままだ。
前のめりにすっ転び、泥にまみれる経験がまだ足りていなかった。
「は、はぁ……私とは棲む世界が違いすぎて、私のような矮小な者には、殿下のお悩みにお答えするだけのものがございませんなぁ」
恨みがましくレフィを見ながら啜り泣くアリストを無視して、レフィの背に揺られる龍平はティルベリーの文句を右から左だ。
中学の頃、部活の先輩が高校で思い通りにいかない愚痴をこぼしにきたときと、やっていることは同じだった。
緩い小学生とは違い、初めて明確な上下関係が築かれる中学の部活で三年生として天下を取っていた者が、高校に進学した瞬間最下層に叩き落とされる。
自分はなんでも解ったつもりだったのに、上には上がいることを思い知らされる経験は、人生のなかでも意外と重要なイベントだ。
「言うてくれるではないか、リューヘー。たしかに私とそなたでは違う世界で暮らしてはいたがな、それでもひとの悩みとは変わらぬものではないのか? すぐれた世界だったようだが、あまりなもの言いであろう」
互いの存在を否定するような龍平のもの言いは、下手をすれば相手を激昂させかねないものだった。
だが、ティルベリーにとっては己と国の罪を突きつけられたような気がすると同時に、龍平が酷く拗ねてしまったように見えてしまった。
当の龍平は、支配者層と庶民の違いを言いたかっただけだった。
その挙げ句が、互いの意識を見事に食い違わせていた。
やはり、根本的に考え方が違う。
起こる事象や感じることは同じでも、それに対するアプローチがまるで違う。
言い返そうにもさらに誤解を重ねそうで、龍平は言葉を飲み込んでしまう。
同じ王族でも、死ぬ思いまでしたレフィとはまるで違っていた。
「あ、殿下っ! フレケリー卿、あれですっ! あの足跡ですっ!」
重苦しい雰囲気を振り払うかのように、啜り泣きを収めたアリストが馬を走らせる。
当然、レフィがそれに続き、一瞬遅れたティルベリーが追いかけ始めた。
「これ、考えるまでもなく獣じゃないですね」
森のなかに残る丸い足跡を見て、今更ながらに龍平が言った。
よく見れば小さな二本の爪痕とおぼしき掻き傷が、足跡の端に残っている。
とりあえず、丸太の端を突いただけではなく、爪のような構造も有しているようだ。
だが、生き物ではあってもこの大きさの哺乳類や爬虫類、さらに対象を広げて鳥類や両生類に、この足形を持つものは皆無だった。
「うむ、判らぬ。それが答えでいいではないか。こんな痕跡ばかり見ているのではなく、森のなかを探索する方がよほど現実的だと判断する」
腕を組み、顎に手を当てて考え込むアリストを無視して、ティルベリーは断を下した。
指揮権を侵しているなどとは少しも思い至らず、他の者は何を言っても従うと信じきったもの言いだ。
ティルベリーは、見ても解らない足跡の周りで立っているより、森のなかを馬で走りたいだけだった。
王太子の威光で無理矢理従わせているつもりなど欠片もない分、余計に始末が悪い。
ティルベリーは、ただの傍若無人なわけではない。
王城での評価は、他人の言葉に耳を傾け配慮を知る王太子だ。
しかし、それもカルミア王をはじめとしてお付きのメイドに至るまで、周囲の大人たちのフォローがあってこそだ。
諫められる者がいない場になってしまうと、無意識に零れ出る我が儘が矯正されないままになってしまう。
立太子まで品行方正を強制され、自らも厳しく律してきた。
現在の彼は、大きく遅れて来た反抗期なのかもしれなかった。
「お待ちください、殿下。この場の指揮官はアリスト殿にございます。殿下はあくまで我々を招待したお立場にて。調査隊の意思決定、指揮はアリスト殿の専任事項にございます。同じことであろうと、我々はアリスト殿の言葉でなくては動くわけには参りません」
ややうんざりしてきた龍平が、固い表情で反抗した。
ここで譲ってしまったら、あとはもう責任など取れないティルベリーの思うがままだ。
アリストにしろ龍平にしろ再調査は構わないが、仕事できている以上は遊びに付き合うだけでは済まされない。
アリストはお役目という王家に対する責任があり、龍平は指名依頼というギルドに対する責任がある。
王太子のお遊びに付き合って、何の結果も残せませんでしたでは済まされない。
魔獣の正体が何であるのか、どのような影響が予想されるのか、軍の出動が必要なのか、最終的には巻狩は可能なのか。その手かがりを掴まなければならなかった。
「あ、ああ……そうだな。差し出がましい真似をした。許せよ、アリスト」
いきなりの諫言に、ティルベリーは一気に毒気を抜かれた。
言葉遣いこそ丁寧だが、龍平の言った内容はナイフのように鋭かった。
思えば王城であれば、キルアンなりサミウルが諫言していた。
だが、若い世代にあってはおもねりへつらう者こそあれ、感情的な反対意見すら言う者はいなかった。
親衛隊の面々と口喧嘩くらいならするが、それはただのじゃれ合いだ。
決してティルベリーの成長を、思ってのことではない。
今回は、その親衛隊にすら黙って出てきた。
事前に相談などすれば、反対されるか爺どもに告げ口されるのが落ちだからだ。
彼からティルベリーの安全を最優先してくれていることは、充分に理解できる。
同時に責任を取らされることを極度に恐れていることも、充分すぎるほど理解させられていた。
つい、はしゃぎすぎた。
ティルベリーは周りから見て、可哀想なほどしょげていた。
──殿下危ないっ!──
唐突に龍が吼え、白い熱線が宙を貫いた。
ティルベリーに向かって飛来した巨大な質量が、超高温の炎に焼かれ瞬時に蒸発する。
龍平を肩に乗せたまま、身の丈二メートルの赤い龍が立ち上がった。
そして、大木の上に感じ取れる別の巨大な質量とティルベリーの間に割って入る。
護衛たちがティルベリーを取り巻く間、翼を広げた龍が大木に向かって立ちはだかっていた。
その龍に向かって何か太いロープ状のものにぶらさがった、毒々しい赤と黄と黒に彩られた巨大な質量が、モンケーンのように降ってくる。
龍平がそれを体長二メートル、レフィに匹敵する巨大な蜘蛛だと認識した瞬間、レフィは華麗なスピンをきめた。
遠心力で加速したレフィのしっぽは、蜘蛛の頭胸部と腹部を繋ぐ腹柄を確かに捉えた。
そして、そのままほとんど抵抗を感じないまま蜘蛛を両断して、振り抜かれる。
勢いを止められた巨蜘蛛の頭胸部だけが、水っぽい音を立てて雪の上に転がった。
振り抜いたしっぽを大地に叩きつけ、回転を止めたレフィが糸に吊るされた巨蜘蛛の腹部を無視したまま、さらにブレスを放つ。
木と葉とそれ以外の何かが焼け焦げる臭いと共に、体液を沸騰させながら別の巨蜘蛛が落ちてきた。
唐突な人智を超越した戦闘に全員が呆気に取られるなか、場違いな旨そうな匂いが漂っている。
龍平は頭を振って、蜘蛛に噛りつく自分の姿を追い払っていた。




