83.デルファの悲劇、再び
できあがった干しぶどうパフェのカップを、龍平はそっとミッケルの前に差し出した。
ミッケルは満足そうに頷き、まずはスプーンでホイップクリームを口に運ぶ。
柔らかく、心までとろけるように甘く濃厚な味が、ガルジオンきっての武闘派貴族の舌を包み込む。
衝撃的な味覚と食感に目を見開いたミッケルの舌の上で、ホイップされたクリームはさらさらと溶けていった。
だがそれは、常温に近い温度だ。
次いでアイスクリームを舌の上に乗せたミッケルは、その衝撃にスプーンを取り落として仰け反っていた。
「……こ、これが……君の世界では、当たり前に、そこらの店に売っている? 庶民の、それも子供の小遣いで、当たり前に買える、普通の味?」
信じられないといったように、頭を横に振るミッケルの横で、龍平はわざとらしく威儀を正した。
そして、仕事ぶりを主人から誉められた執事のように右手を腹に添え、大仰な動作で左手の甲を腰に当て、約三〇度に腰を折る。
「えくざくとりぃ」
英語のExactly、つまり、『その通りでございます』もしくは、『仰るとおりにございます』という単語を口にした。
アスキーアートのストーリーもので見て以来、一回でいいからやってみたかったんだよね。
「ものの価値や貨幣価値、物価といったものすべてが違いすぎるので、単純に換算はできませんが……賎貨数枚ですね、あちらでは。もっとも、その値段で流通させるには大量生産が必要で、そのための資本投資は金貨数十万枚規模ですし、輸送技術の発展や、安価な容器の開発とかも必要ですけど」
もちろんその程度の金額では、一地方における工場を建てるだけの資本投下でしかない。
それに付随する流通網や輸送手段、原材料費に工場の維持費、販売店の整備やそれらすべてをひっくるめた光熱水道費に人件費を考えると、ガルジアの商圏だけでも金貨数千万枚が必要であり、一朝一夕にできるものではなかった。
「えくざくとりぃが何を意味するか正確には解らんが、君の世界の言葉でその通りと言ったところかね? そうか……その投資と維持費が庶民に回り、結果として庶民の購買力が上がり、安価に提供できる大量生産を維持しているわけか。需要が増えれば、当然供給も増える。それが砂糖の増産につながれば、この味が遍く広まるばかりでなく、新たな産業も興きるのだろうな。一朝一夕にいく話ではないが、その辺りはサミウル閣下の手腕に期待しようじゃないか」
やっぱりただの戦馬鹿じゃなかったんですね、ミッケル様。
結局のところ、この世界も金がすべてだったんだね。
個々人に関しても、貨幣経済が根付いている世界においては、なにをおいても金がなければ生きることすらできない。
清貧に甘んじようが、愛に生きようが、生きるためには、食い物を手に入れるためには金が必要だ。
大規模な経済圏に含まれていない僻地の農村や漁村であれば、物々交換で成り立つケースもあるが、貨幣を介在していないだけのことでしかない。
つまるところ、ひとびとの行いは金を得るため、この一点に収斂されていく。
貴族領や国家にしても、それは同じだ。
そして、貴族領間や国家間の諍いも、すべて金が原因だった。
領地の境界を巡る諍いも領地の経済力を増すためであり、面子や誇りなど後付けの理由でしかない。
ましてや資源を巡る諍いなど、言うに及ばずだ。
「さすがのご賢察、感服です。たしかに、俺はアイスクリームの作り方は知っていても、どうやれば大量生産できるか、経済を発展させられるかまでは分かりません。両尚書閣下にお任せするしかないと、俺は思っています。それだけの価値があるってことを、認めていただきに行きましょうか。……おい、いつまでとろけてんだ、アホトカゲ」
両尚書にバーラム夫妻、そしてデルファやディフィたちのパフェを職人たちが作る傍らで、とろけたようにイスにもたれている小さな赤い龍に龍平が声をかけた。
しょうがないよ。中のひと、女の子だもん。
――リューヘー、すばらしいわ、これ。いつまででも食べていたいわね。この味に免じて、今の暴言は許してあげるわ――
小さな赤い龍が両手で頬を押さえ、とろけたような念話を送ってくる。
龍平の暴言を見逃そうとはしていないが、言い返したり言い募ろうとはしていない。
「お褒めのお言葉を頂戴し、恐悦至極にございます、姫。俺としちゃあ、まだ不充分な出来だけどな。まあ、果実のソースだのチョコムースだのは作り方も知らんし、材料もねえし……あっ! ……ジャムでもよかったじゃん……しゃあねぇか。午後はそっちも試してみっか。ミッケル様、ご都合さえよろしければ、閣下たちも午後のお茶……いや、午餐会にいかがでしょうか?」
厨房にジャムはあったが、龍平の発想が足りなかった。
やはり固定観念は、恐ろしいものだった。
もっとも、龍平の認識が間違っており、正確にはマルメロやリンゴ、梨の蜂蜜漬けだ。
それでも果実を糖分の濃い液体に漬け込み保存するという点で、ジャムと呼んでも差し支えないものではあったが。
午後のお茶請けに使おうとした龍平は、さすがに多忙を極める両尚書をそこまで拘束はできないと思い直す。
午餐のデザートにパフェを出すことにして、お茶会のあとは厨房の職人たちと話し合うことを決めていた。
「もちろんだとも、リューヘー君。閣下たちは、言うまでもなく午後のお茶会まで滞在してもらうさ。いや、たぶん帰れと言っても、帰らないだろうね。特にバーラム様は、ね。少しずつ豪勢にしていこうじゃないか。……たとえば、午餐には果実を漬け込み、味と香りが移った蜂蜜だけ。午後のお茶会には漬け込んだ果実の裏ごし。晩餐では果実の裏ごしと蜂蜜に、干しぶどうや漬け込んだ果実そのものを形よく切り分けてあしらうとか、ね」
ミッケルは、龍平の意図を理解した。
そして、思いついた考えを龍平に提示する。
たしかに龍平は、ミッケルが知らない異世界の知識を有している。
だが、この世界の知識が不足している龍平に、助言できる知識と応用できる知恵をミッケルは持っていた。
うん、どっからどうみても、完璧なフルーツパフェですね、ミッケル様。
どこの完璧超人ですか、あなた様は。
「はい。精一杯がんばりますよ、ミッケル様」
ということは、晩餐会まで考えておく必要があると、龍平は認識した。
パフェを盛りつけた銀器を乗せた台車を押しながら、超高性能トカゲ冷却機もしくは超高性能トカゲオーブンまたはトカゲコンロをどう使うか、龍平は考え始めている。
差し当たっては何の蜂蜜漬けがあり、どう作り替えるかだ。
蜂蜜漬けをそのまま使ってもいいが、ミッケルの言うように裏ごししてなめらかにしたい。
そのうえでアイスクリームやホイップクリームの甘さとぶつからないように、酸味を強調するにはどうすればいいか。
龍平は、頭をフル回転させていた。
蜂蜜漬けもジャムの一種とするならば、地球におけるジャムの歴史は恐ろしく長い。
有史以前、一万から一五〇〇〇年ほど前の旧石器時代後期に蜂蜜を採取している風景が、スペインの洞窟に壁画として残されている。
また、果実を土器で煮た跡も発見されいる。
ジャムは、人類最古の保存食といっても過言ではない。
現代のような砂糖を使ったジャムは、不世出の大戦略家にして天才戦術家であるアレクサンドロス三世によって、紀元前三二〇年頃インドから持ち帰った砂糖が使われたとされている。
アイスクリームに続いて、またあなた様でございますか。
その後時代が下り、一〇九六年から一二七〇年の間に繰り返されたレ・コンキスタ(Re Conquista)、日本ではスペインによる国土回復運動または失地回復運動と呼ばれるが、直訳すれば十字軍による聖地エルサレムの狂信的な再(Re)征服(Conquista)により、オリエント世界から大量の砂糖が持ち帰られる。
これによってジャムづくりは、一般に普及していった。
さまざまな説はあるが、一般的には八回におよぶキリスト狂徒によるオリエント世界への大迷惑行為は、キリスト教世界にも甚大な被害をもたらしたバチカンの黒歴史だ。
戦費や食料の調達のため、通り道での略奪や挑発、人身売買など当たり前だった。
特にキリスト教徒ではないユダヤ人コミュニティへの暴虐はドイツにおいてに特に過酷であり、第二次世界大戦時のヒットラーによるドイツ第三帝国へと引き継がれたユダヤ人迫害の嚆矢と言ってもいいかもしれない。
そして、同じキリスト教徒であっても、正教会を攻撃するなどの内ゲバも起こしている。
さらには、聖地エルサレム奪回を純真な心に誓った子供十字軍を、そっくりそのまま奴隷として売り払う。
もうこれなどは、鬼畜の所業としか言いようがない。
集結した十字軍の狂徒たちは、エルサレムを目指す途上にあった集落や村や町を食料庫としてしか見ていなかった。
そしてオリエント世界に雪崩込んだ十字軍は、殺戮に略奪、陵辱に破壊と暴虐の限りを尽くす。
一度はエルサレムを再征服するが、現代地球の原理主義者とは異なり異教徒にも寛容だったムスリムに撃退され続けていく。
挙げ句の果てには聖地奪回などお題目と化し、第四次以降の十字軍はムスリム殲滅のため、当時イスラムの最大勢力だったエジプトに矛先を変えてしまう。
最後の十字軍とされることもある第八次十字軍の攻略目標は、北アフリカのチュニスだった。
カトリック狂信者どもの所業に功罪を問えば、罪しかないと言わざるを得ない。
オリエント世界から砂糖を大量に持ち帰ったと書けば聞こえはいいが、その実体は略奪だ。
現代の地球で賞味されているジャムは、十字軍の、ひいてはカトリック、バチカンが犯したレ・コンキスタという罪の象徴なのかもしれなかった。
もちろん、龍平はそんなことを知るはずもない。
無邪気にわめく小さな赤い龍を眺めながら、厨房に保管されているマルメロやリンゴ、梨の蜂蜜漬けというジャムをどう使うかに頭をひねっていた。
「財務尚書。これほどとは……」
たっぷりと生クリームを盛ったパンケーキを嚥下し、キルアンがサミウルに声をかけた。
横ではバーラムが難しい顔で黙り込み、ラナイラはデルファに負けないほどの少女の顔ではしゃいでいる。
お義母さん、張り合わなくていいから。ね。
「季節を問わずの牛乳の増産。それには牛の増産からだな。労役に使う合間では、それほどの増産は望めまい。聞けば、卿の世界ではからくりに労役を担わせ、牛は肉を採る種と乳を搾る種に特化しているとか……。いきなりそれは無理にしてもだ」
たしかに今口にした生クリームは、目を見張るどころの騒ぎではない。
バルゴの牝牛をすべて乳牛に転用するだけの価値も、充分あるだろう。
だが、バルゴがアイスクリームと生クリームだけで食っていけるはずもない。
大規模輸送が不可能な現状では、バルゴが自活できるだけの農産物は生産する必要がある。
それだけではなく、大量の乳牛を飼育するのであれば、そのための牧草地が必要であり、そのためには開墾するための牛が必要になってくる。
この世界この時代において、基本的に牛とは食用でもなく搾乳用でもなく、開墾に使役するいわば農機具のような存在だ。
当然、牝牛も同じ扱いであり、搾乳のために牛舎につないでおくとなれば、その分を補う労働力としての牛をどこかから調達してこなければ、開墾自体が無理な話だ。
当然そんな大金が、バルゴにあるはずもない。
もちろん、他領からの借金などできるはずもない。
理由も聞かず金を融通するようなお人好しは、どの世界、どの時代においてもいるわけもない。
当然、金の使い道は聞かれるし、その過程で生クリームとアイスクリームの存在を隠し通せるはずがない。
そうなれば、あっというまに生クリームやアイスクリームの製法が広まり、バルゴの優位は崩れ去るだろう。
万が一、隠し通しきってしまったら、融資した領がその後のバルゴのひとり勝ちを許すとは思えない。
下手をすれば、取り潰し覚悟の全面戦争になりかねなかった。
それを防ぐには、ガルジオンによる資本投下しかないだろう。
だが、いくら直轄領とはいえ、国家予算を安易に割くわけにはいかない。
バルゴだけに予算を投下すれば、他の直轄領を預かる代官たちは黙っていない。
バルゴと同等の予算と、アイスクリームや生クリームのレシピを求めるのは、火を見るより明らかだ。
バルゴが他の直轄領とは比較にならないほど牧畜に適しているというのであれば、まだ解る話ではある。
だが、王都周辺に点在する直轄領を見渡せば、バルゴより牧畜に適している地はいくらでもあった。
ましてや、ネイピアを優遇して、どうしようというのか。
いくら砂糖がまだ貴重品とはいえ、たかが甘味のために人跡未踏に等しいネイピア山塊まで足を運ぶ者がいるとは、到底思えない。
それ以前に、王都ガルジアや大領の領都でようやく流通が軌道に乗り始めた砂糖を、ネイピアとバルゴに独占させるにしても、どうやって輸送しコストを下げるのか。
当然流通の中心地からの距離がそのまま輸送コストに跳ね返り、よほどの大量輸送と消費がなければペイできるはずもない。
仮に大量輸送の当てがついたとして、地方の寒村にそれを支える購買力などありはしない。
そして、その購買力を呼び込もうとしても、どうやってそれを宣伝するのか。
カルミア王が宣伝に一役買うなど、どう考えてもできるはずがない。
そんなことをすれば、ガルジオン王国の鼎の軽重が問われるだけだ。
王城で高評価を得たという話を流したとしても、未知の甘味というだけでわざわざ危険を冒して王都の外まで出かける者などいやしない。
当然、それ以外の用もないのに命を懸けてまでネイピアとバルゴを訪れる者などいるはずもない。
遠方に隠ったままでは、いつまで経っても生クリームやアイスクリームが広まることなどあり得ない。
まずは王都や大領の領都で広めないことには、なにも始まらない。
いくら口コミが宣伝として有力な手段であろうが、実物を想像すらできないのでは、何の意味もない。
ひとびとに生クリームやアイスクリームを認知してもらった上で、それでも食べに行きたいという差別化をはからなければならなかった。
結局、新たな甘味でネイピアとバルゴの村おこしなど、絵に描いた餅でしかない。
早々に気づいたバーラムの苦い顔が、すべてを物語っていた。
「ほらほら、皆様。何、難しいお顔してらっしゃるの? そんなではデルファさんが何も召し上がれないわ。小難しい話は王城ででもなさいな。今はリューヘーさんとレフィちゃんが一所懸命こさえてくれた、新しいお菓子のお披露目でしょ? さあ、デルファさん、たんと召し上がれ。爺様たちのお相手も飽き飽きでしょ?」
あからさまに脳天気、もしくは天然を装ったラナイナの声が、重苦しくなりかけた雰囲気を打ち壊した。
満面の笑みでホイップクリームを頬張る彼女は、まるで少女のように華やいでいる。
だから、張り合わなくていいから、お義母さん。
もちろん、ラナイナが経済に疎いわけではない。
バーラムや両尚書が考えていることなど、既にお見通しだ。
その程度のことすら解らないでは、セルニアという大領主妃など勤まるはずもない。
だが、この場はあくまでも新しいお菓子のお披露目の場であり、経済論争の場ではないことを彼女は理解している。
せっかくのお披露目の場で龍平とレフィに不愉快な想いをさせるなど、ラナイナは許さない。
規模は小さくとも、義理の娘の晴れ舞台をぶち壊す真似を許すつもりはなかった。
もちろん、夫や両尚書に喧嘩を売るつもりなど、さらさらない。
そんなことは今夜の褥か、明日の王城でやればいいことだ。
今は全員で、楽しく、美味しく、新しいお菓子を味わえば、それでいい。
なによりも、お預けのままよだれを我慢する子犬のような顔で、辺りを見回しているデルファのためにも。
「ああ、これは済まぬことをした、デルファ嬢。ラナイナ殿のおっしゃるとおりだな。しからば、いただくとしよう」
サミウルが慌ててデルファに謝る。
じじい、目尻垂直にしてんじゃねぇよ。
「あ、大事なお話ですし、わたくしのことは、どうぞお構いなく……」
国の重鎮から改まった謝罪を受けてしまったデルファは、どう答えていいか解らない。
それでも視線が大人たちとパフェの間を行ったり来たりしていた。
「うむ。我々だけ楽しんでいては申し訳がない。デルファ嬢、感想を聞かせてはくれんかね? 溶けてしもうては元も子もないぞ」
困り顔のデルファを慰めるかのように、キルアンも取りなしている。
そうはいっても、衆人環視の中で改めて独りだけスプーンを運ぶのは、かなり度胸が要るものだ
「それでは、お言葉に甘えまして……」
それでも幼い頃から見知った大人たちだ。
デルファも甘え方くらいは弁えている。
内心溶けていくアイスにやきもきしていたデルファは、それでも頭痛にのたうち回らないように気をつけて、スプーンを口に運んだ。
溶け始めたアイスのとろりとした感触が舌を包んだ後、デルファ野自制心は残念なことになる。
現代人であっても、好みを直撃したアイスの前では解っていても自制が効かない。
デルファに初めての冷たい甘味を口にして、自制しろなどとは無理もいいところだ。
「リューヘー様は悪魔ですうううううっ!」
フォルシティ邸に、少女の悲鳴と笑い声が響いた。




