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転生龍は人と暮らす  作者: くらいさおら
第三章 王都ガルジア
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81.約一時間メレンゲを乾かすお仕事

 ホイップしたクリームを塗ったパンを、口に落とされたレフィが硬直している。

 いや、口が動き、パンを嚥下した様子はあった。


 小さな赤い龍の左の瞳が、エメラルドにルビーにとめまぐるしく入れ替わる。

 どうやら、身体の支配権を奪い合っているようだった。


 やがて、諦めたような右のエメラルドが、左の瞳を歓喜に染まったルビーに譲る。

 小さな朱の龍が、喜色満面で龍平を見上げた。


――リューちゃんっ! すごいっ! すごいよ、これっ! 甘ぁくて、とろっとろで、ふわふわで、美味しくてっ! それなのに、冷たすぎないからツキツキしないよっ! どこでこんな魔法を覚えたのっ!? ボクにもできる?――


 とろけそうな表情で、小さな朱の龍がまくし立てる。

 とろんとしたルビーの瞳は、うっすらと涙までにじんでいた。


「そこまで喜んでいただけたなら、望外の喜びだ、ティラン。言っとくけどな、これ魔法じゃねえから。覚えてないけど、物理学で説明できたはずだ。ティランにもできるぜ。ただ掻き回すだけだからな。ああ、あんまり力任せにやると、ダメらしいけど。で、悪いんだけど、火の魔法、いいかな?」


 生クリームをホイップしてクリームにするのは、単純に物理の話だ。

 ホイッパーによる衝撃で脂肪球を包む皮膜が破れ、脂肪球同士がくっつくことで粘性が生まれ、なめらかなクリームへと仕上がっていく。


 当然、過ぎたるは及ばざるが如しで、やりすぎれば脂肪球の合一が進み、水分と脂肪に分離してしまう。

 つまりは、甘ったるいバターのできあがりだ。


――ボクにもできるんだ。って、ごめんね、忘れてたわけじゃないけど、ちょっと夢中になっちゃった――


 龍平に促され、ティランはレフィが任されていた作業に戻っていった。

 小さな朱の龍の手に魔力が凝縮し、自然魔素が反応して火の魔法が発動する。


――しっかり焼き上げてあげるから、あとで私にもたっぷり食べさせなさいよ――


 ティランは満足したのか、小さな赤い龍の左の瞳がエメラルドに変わる。

 レフィは面倒を押しつけられた形になるが、そのことに関して不満を抱いてはいなかった。


 龍平からこの作業を依頼されたのは、レフィ自身だ。

 それを放り出す気は、さらさらない。


 龍平が喜ぶことであれば、いつでも全力を振るう心算だ。

 もう、異種なんて関係ねぇからさ、結婚しちまえよ、おまえら。


「おう。頼むぜ、レフィ。たっぷり作ってやるからな。みなさんも、さあ、どうぞ。アイスクリームと違って、パンがないとちょっとくどいかな」


 さすがにクリームだけ舐めていたら、胸焼けを起こしかねない。

 龍平はパンを切り分け、皿に盛っていった。


「さきほどのあいすくりーむには驚かされましたな。こちらも期待させていただきます、卿」


 フライエリがパンに少量のクリームを塗り、それを口に放り込んだ。

 そして目を閉じ、ゆっくりと味わう。


 パンを嚥下したフライエリは、無言で今度はこぼれるほどのクリームをパンに乗せ、大きく口を開いた。

 それを見たケイリーたちは、我先にとパンに手を伸ばしていった。


「フレケリー卿、私はこれらの作り方を見てしまったが、構わなかったのでしょうか?」


 我に返ったフライエリは、龍平に確認した。

 これほどの技術と知識は、門外不出どころの騒ぎではない。


「ええ。どんどん作って、ガンガン改良してください。今回は手には入りませんでしたが、香料で香り付けしてもいいし、果汁を混ぜ込んでもいいです。陛下に献上後は、作り方を公開するつもりですし」


 フライエリの心配をよそに、龍平はあっけらかんと答える。

 それはフライエリの常識を、はるか斜め上に超えた答えだった。


 これほどの菓子の製法を、ひと財産築く前にあっさりと公開するなど、この時代、この世界ではあり得ない。

 長年の奉公、修行の結果、絶対に他人には漏らさないと信頼できる弟子以外に、製法を明かすなどあり得なかった。


 だが、既に金の心配をする必要がない龍平にとって、アイスクリームやケーキで稼ごうなどという気は、これっぽっちもない。

 それよりはアイスクリームやケーキがひとびとの間に広まり、砂糖の生産が増大する方が重要に思えていた。


「リューヘーっ! ひと財産だぞ、これはっ! いや、騎士爵ともあろう者が商売など……いやいや、そうじゃない。信頼できる御用商人に作らせれば、その利益を……それを、君はっ! いいのかっ!? 俺の領地で作るぞっ!? 構わないのかっ!?」


 それを聞いたケイリーが、顔色を変えた。

 公開などしてしまえば、間違いなく誰もが真似をする。


 金の卵を生む鶏を、自ら腹をかっさばくようなものだ。

 莫大な利権を、放棄するようにしか見えなかった。


「おう。作れ作れ。どうせ、ネイピアからの輸出なんか無理だしな。アイスクリームは溶けたら終わりだし、このクリームもきっちり冷やしたところで保って一両日だ。冷蔵庫も冷凍庫もない世界じゃ、村や町の中だけで回すしかないんだぜ。だったら……あっ!」


 気づいた。

 バルゴとネイピアが、一気に発展する。

 このレシピを公開せず、バルゴとネイピアに独占させれば、それを目当てにひとが集まるはずだ。

 王家に献上するのは構わないが、製法やアレンジは公開しない。


 食べたければ、バルゴなりネイピアまで来い。

 そうすれば、このふたつの村は一気に発展する。


「リューヘー様、この製法は厳重に管理すべきです。王家などに譲り渡すべきではございません。リューヘー様のお考え次第では、ワーデビット家にも。ただ、もしよろしければですが、セルニアにもこのお菓子が広まれば、その売り上げからくる税の一部を、父はフレケリー領の発展に使わせていただきますわ」


 直接領地経営には関わっていなくとも、辺境伯二の姫ともなればその辺りの嗅覚は鍛えられている。

 龍平の利益を優先するように見せかけ、意思を尊重するようにも見せつつ、さらなる利益に誘導しようとしている。


 アイスクリームやケーキの売り上げから出る税のすべてを、龍平に渡す義理はない。

 実際にそれらを作らせ、領内の流通に乗せ、税を徴収する仕事はワーデビット家が行う。


 龍平は、幻霧の森からそれを見ているだけだ。

 五割の取り分でも、まだ図々しいだろう。


 いくら幻霧の森でアイスクリームやケーキを量産しても、消費者がセリスとレニア、そしてレフィでは話にならない。

 あとはせいぜいが、写本や研究に訪れる者くらいだ。


 それ以前に、幻霧の森では牛乳が手に入らない。

 幻獣の雌から乳を採取するという手もあるが、家畜化などしようものなら総すかんを喰いかねなかった。


 聡明な辺境伯二の姫は、わずかの間にそこまで考えていた。

 でもね、アミア様。口の周りクリームだらけですよ?



「……フライエリ卿。この製法はこの場限りとさせていただきます。のちほど詳しい製法を。貴領内でどう扱うかは、貴卿にお任せします。どうか、貴領のご発展にお役立てください。ケイリー、君もだ。アミア、バーラム様には君から伝えてくれ。当方、閣下の目の前で実演する用意ありと。セルニアでどう扱うかは、バーラム様に一任する。あとで詳しく打ち合わせよう。さあ、レフィ。そろそろいいかな。そこでとろけてるバッレさんとミウルさんのふたりに、トドメを刺しちゃろうじゃねぇか」


 しばらく考え込んだ龍平は、迷うことなくアミアの案に乗った。

 決して自身で財を築こうというのではなく、縁あって協力してもらったバルゴと、友達の領地が発展することを選んでいた。


 もちろん、大恩あるセルニアの発展も、龍平は願っている。

 豪快で、明け透けで、この世界における父とも思えるバーラムと、レフィの義母となったラナイラに報いたいという思いもあった。


 カルミア王に含むところなどあるはずもないが、ガルジアは充分に発展している。

 バルゴからアイスクリームやホイップクリーム、そして今から振る舞う焼きメレンゲが広まれば、独自に開発できる職人たちはいるはずだ。

 バルゴが優位に胡座を掻かず、ガルジアと切磋琢磨すればいいだけのことだった。


 そうなればバルゴは、今後赴任する代官にとって、おいしい任地となる。

 当然、赴任手当や徴税手当以外にも目に見えない収入がもたらされ、領民は大切にされるはずだ。


――そう? 話を聞くに、これを作るのだけは難しそうね。さっきの冷菓に必要な氷の魔法は、誰でも練習すればできると思うわ。とろとろのクリーム? あれは魔法もいらないでしょうね。でもこれは、かなり難しいわよ。やっぱり、リューヘーの言うとおり、カガクを発展させるべきね。で、私にここまで苦労させたのだから、私が一番に食べさせていただけるのかしら?――


 レフィは魔法を行使し始めて、メレンゲを焦がしてはいけないことに気づいていた。

 龍平が、乾かすようにと言った意味を、火の魔法を発現させた瞬間に悟っていた。


 微妙な魔力の調整は、大魔法をぶっ放す方が得意な赤龍にとって、少々ではあるが面倒なことだった。

 ともすればメレンゲを焦がしそうになりながらも、レフィは長時間の魔法コントロールをやり遂げていた。


 これを、一般の魔法使いがやりきるのは無理だ。

 まず、魔力が枯渇する。


 使用する魔力自体はたいしたことはないが、コントロールに使う精神力が尋常ではないだろう。

 赤龍だからこそ、鼻歌交じりにできることだった。


 そこまでしてできるものが、ただ甘くて歯触りがよくて、さくさくしながら舌の上で溶けていくお菓子だったとしたら。

 おい、間違いなく王都ガルジアの魔法使いさんたち総動員だよ。


 甘いってだけで価値があるんだぞ、この世界、この時代。

 べったべたに甘くて重いんじゃなくて、さくさくだぞ。


 くどいほどの甘さが贅沢とされてる世界で、充分に甘くて軽いお菓子なんか作ったら、革命になるぞ

 どうやって甘いけど軽く食えるか、みんな血眼だったんだからな。


 焼きメレンゲの製法なんか伝えたら、あのアンパン王が黙っちゃいねぇからな。

 王都の魔法使いさんたち、過労死待ったなしです。



 生クリームからバターを作ることは、ひたすら激しくシェイクするだけだ。

 その過程は、ホイップという技術ではない。


 生クリームに砂糖という高価な調味料を加え、適度にホイップするなど、発想すらなかった。

 ましてや、生の卵白をホイップし、それに常軌を逸した量の砂糖を加え、乾かすように焼き上げるなど、考えもつかないことだった。


 そして、それが今ここにある。

 小さな赤い龍の前に、ひと口大の軽い焼き菓子が並んでいる。


「レフィ、ありがとう。まずは、レフィが食べてよ。次は魔力の素だからな、ティラン。それから、俺たちがいただきましょう。フライエリ卿、よろしいですか?」


 本来であれば、材料から場所まで提供したフライエリが最初だ。

 だが、ここまで魔力を使わせた赤龍を、龍平は最優先したかった。


「構いませんとも、フレケリー卿。この場合、どちらを称えればよいのでしょうか。レフィ殿か、ティラン殿か。おふたりが、まずはと、私は思いますが」


 フライエリに嫌はない。

 この焼きメレンゲの製法は難しいが、いくつもバルゴを発展させる手が示されている。


 それどころか、龍平はフライエリが王都に戻ったあとのことには、言及していない。

 ずるく汚く生きるなら、王都に戻ったフライエリは、今日味わった菓子でひと財産築くこともできる。


 しかし、龍平がそれを止めていないにしても、フライエリには有力な商家に伝手がない。

 自身で何かを興すだけの資力も、蓄えもない。

 

 そうはいっても、王都に帰っても明日食うパンがなければ、どうしようもない。

 任期が終わって王都に戻ったあと、フライエリはまた代官職を探す猟官活動に戻るだけだ。


 この菓子でひと財産作るほどの才覚などないと、フライエリは自覚している。

 いっそのことフレケリーの寄子になろうかどうするか、フライエリの心は揺れ始めていた。


 絶対逃がすなよ、この人。

 バルゴを無難にまとめてる手腕は、相当のものだぞ。


 油断してると、バーラム閣下に一本釣りされるかもしれねぇからな。

 つうか、既にアミア様がネイピアに連れてく気で、目ぇつけてんぞ。



――それじゃ、僭越ながら、私からいただくわ。遠慮して譲り合いなんて、この場では時間の無駄ですもの……っ!? えっ!? な、に……こ、れ――


 この日三度目となる驚愕に、小さな赤い龍が固まった。

 それなりの堅さを持った白い菓子が、龍の舌の上でさらさらと溶け落ち、卵白の淡泊さと軽い甘みを残して消えていく。


「おい、なに目ぇ見開いちゃってんだよ。ほれ、もう一個食ってみろ。そんで、ティランに替わってやれ」


 龍平は新たに煎れたほうじ茶のカップをテーブルに置き、硬直したままのレフィに近づいた。

 そして躊躇うことなく、レフィの鼻の穴に指を突っ込む。


――ふごっ!? レディになんてことすんのよぉっ!――


 突然の衝撃に、小さな赤い龍が再起動した。

 激昂したレフィが飛び立ち、しっぽの一撃を龍平に喰らわせようと、目にも留まらぬ一閃が龍平の顔面に襲いかかった。


 だから、一応中身は年頃の女の子なんだからさ。

 もうちょっと手心加えるとかさ。


 トカゲ姫もね、ふごっとか明らかに女の子が立てちゃいけない音だよ?

 もうちょっと考えようよ、君たちは。



「はいはい、早くティランに替わってやれ。卵さえありゃいつでも作れるんだからさ」


 しっぽの殴打かドロップキックを予想していた龍平は、肉体強化の魔法を展開した両腕で受け止める。

 さすがにしっぽ掴んでブン回したあげく、床に叩きつけるのは自重したようだった。


――まぁ、いいわ。あまりにも美味しすぎたから、今回は許してあげる。ティランを待たせるのも悪いし。お待たせしたわね、ティラン――


 優雅な動作でテーブルに戻った赤龍の左の瞳が、エメラルドからルビーに変わる。

 そして、子供っぽい動作で、龍平に向かって口を大きく開けた。


――リューちゃん、ね? あ~ん――


 身の丈五〇センチほどの小さな朱の龍が、龍平に甘えるように口を開けている。

 このほほえましい光景に、誰もが目を細めて眺めていた。


「お待たせ、ティラン。魔力の供給、ありがとうな。母さんが作ってくれた味に、なってりゃいいんだが。……つうか、おまえ、何千歳? いや、何万歳なんだよ? もういいか……ほれ」


 子供じみた行動に、癒されながらも呆れた龍平は、思わず聞かずにはいられなかった。

 彼の世界で悠久のときを生きてきた深紅の鱗を持つ龍が、目の前でペットのように動いていることは、嬉しくもあり、楽しくもあり、そして許容し難くもあった。


 だが、龍平はティランにどうあれという気はない。

 すべてを受け入れると決めていた龍平は、甘える小さな朱の龍の口に焼きメレンゲを放り込んだ。


 ティランの舌の上で、噛み砕くまでもなく焼きメレンゲが溶けていく。

 さらさらとした舌触りに、充分な甘さ。追いかけるような卵白の淡泊な、それでもしっかりとした味。


 あくまでも軽く、この世界のクッキーのようなしっとりとした確かさはない。

 だが、未知の淡い食感は、ティランを虜にした。


――なにっ!? なに、これぇっ!? リューちゃんっ! これもすごいよっ! 魔法だっ! ボクの魔法なんかよりもっとすごい、みんなを幸せにする魔法だよっ! リューちゃんのお母さんって、とんでもない魔法使いだよっ! うん、うん。解る。ボクたちみたいな魔法は使ってない。これがカガクって、魔法じゃないけど魔法なんだ。仕上げたのは魔法だけど、卵の白身に砂糖を混ぜただけだよね? 泡立つまで混ぜて、乾かすように焼くだけだもんね? リューちゃんが言ってる物理、もののことわりだっ! 魔法なんて使ってないけど、魔法じゃないけどこれは魔法だよ、リューちゃんっ! リューちゃん、もっとボクに教えてっ! リューちゃんの世界のこと、リューちゃんが知ってること。ボク、この世界に来てよかったぁっ!――


 焼きメレンゲを飲み込んだティランが、いきなりまくし立てた。

 龍平の正面に飛び立ち、両手を握り締めて上下に降りたくっている。


「お、おう。そこまで喜んでくれて、嬉しいぜ、ティラン」


 呆気にとられた龍平は、思うように言葉が出てこない。

 アイスクリームより大喜びのティランに、毒気を抜かれたような気分だった。




――リューちゃん、これ毎日作っていい? レフィ姉が寝た後ならいいでしょ?―


 きらきらしたルビーの瞳が、龍平を通してエメラルドの瞳に問いかける。

 よほど気に入ったらしい。


「ガルジアにいる間ならなぁ……幻霧の森に帰ったら、卵自体が手には入らないし。……つうか、レフィは大丈夫なのか? 寝てる間に身体動かして。休まらないんじゃねぇのか?」


 幻霧の森改めフレケリー領には、鶏など存在しない。

 焼きメレンゲが食べたければ、養鶏を始めるか、近隣の村から卵をそれなりの値段で購入しなければならない。


 種親を残しつつ卵を安定供給する技術など、龍平は持っていない。

 卵がまだ貴重で特別な日に食べるような食材であるこの時代、この世界で、近隣の村が売ってくれるとも思えなかった。


 ティランの願いは叶えたいが、市が発達した王都ガルジアやセルニアならともかく、幻霧の森に帰ってからは養鶏から始めなければならない。

 だがそれ以上に、レフィの休息がどうなるのかが、龍平には気がかりだった。


――そうねぇ……私が眠っている間なら、私には分からなくなるだろうけど、ティランが眠っていた状況とは違うのよね。一回やってみないと分からないわ――


 レフィにも、まるで予測がつかなかった。

 ティランがレフィに身体を譲り、休眠していた時期とは話が違う。


 レフィの怒りに引きずられた殺戮衝動で目を覚ますまで、ティランの状態は熊の冬眠に近かった。

 そして、それ以降ティランの睡眠は、レフィのそれと同期している。


 もちろん、底知れない龍の体力には、一晩程度の徹夜など誤差にもならない。

 だが、精神的な満足度が、人間として生まれ育ったレフィには必要不可欠だった。


 たしかにレフィは龍に転生し、ほぼ不死身の身体となっている。

 しかし、精神まで龍に転生したわけではない。


――うん。もしレフィ姉が眠れてないなら、ボクも諦める。レフィ姉が起きてるときに、一緒に作ればいいんだもん――


 龍平の危惧に、ティランもすぐに気がつく。

 深紅の鱗を持つ聡明な龍は、人間の精神をよく理解していた。


「ま、上手くやってくれよ。ところで、ケイリー。鶏と牛を飼うのって、難しいんか?」


 とりあえず、ティランとレフィの睡眠についてはあとにして、龍平は養鶏と牧畜に考えを向けていた。

 幻霧の森に帰ってもアイスクリームは食べたいし、焼きメレンゲも作りたい。


 この場にいる者で、実際に鶏や牛を飼ったことがある者はケイリーしかいない。

 そう思った龍平は、この世界で唯一の男友達に声をかけた。


「鶏であれば難しくはないが、牛はいろいろと面倒だろう。鶏は囲いを作って、そこで一年中放し飼いにしておけばいい。牛はなんだかんだで手間がかかる。春から秋までは放し飼いにして草を喰わせればいいが、冬はその草が枯れてしまうから秋までに干し草を作らなければならんからな。専属の者が必要だろう。ネイピアでも、牛飼いは専門職扱いだからな。バルゴでもそうですよね、フライエリ卿?」


 牛はよほどの寒村でもない限り、牛乳を採る以外に農耕のために飼っている。

 ネイピアでもバルゴでも、牛飼いは牛の世話に掛かり切りの代わりに、農民に貸し出すことで生計を立てていた。


「さようですな、ネイピア卿。私は牛飼いの知識はありませんが、バルゴでも牛を飼う者は専門職です。フレケリー卿、貴領で牛を飼うのであれば、この春につがわせておきますがいかがしましょうか? なに、この菓子の製法をご教授いただいた返礼です。お代などはご心配なく」


 当たり前に考えれば、バルゴから幻霧の森まで牛を輸送するなどあり得ない。

 近くの村から購入するのが当たり前だ。


 だがフライエリは、レフィが運べると踏んで申し出ていた。

 コンテナ内が多少どころではなく汚れるだろうが、それくらいは許容範囲と見ていた。


「卿のご厚意、大変ありがたく。ですが、我が領は私とこのドラゴン、神殿から派遣される者と家憑き妖精しか住民がおりません。あとは、私もすべて把握してはおりませんが、幻獣が多数暮らしております。そんな現状にございますれば、よほどのことがない限り、新たな住民を受け入れる気はございません。せっかくのご厚意ですが、今は謹んで辞退させていただきます」


 フライエリの厚意に甘えて牛をもらっても、牧畜の知識などない龍平とレニアだけでは世話しきれない。

 レフィにしろティランにしろ、牧畜の知識はあるかもしれないが、知識だけで実践できるとも思えない。


 そして、下手をすれば放し飼いの牛など、幻霧の森に住まう幻獣たちの餌となりかねない。

 それはフライエリの厚意を、踏みにじることになることだ。


 正直言って幻霧の森は、多数の人間が暮らせる場所ではない。

 あの森は幻獣の楽園であり、龍平の存在は誤差でしかない。


 フレケリー領の開発で多数の人間が流れ込めば、必ず幻獣たちとの衝突が起きる。

 ガルーダとリッチ、そしてベヒーモスとしか会ったことはないが、彼らや彼女が送っている平穏な暮らしを、龍平は叩き壊したくない。


 ワーズパイトの著書を研究するために訪れるひと以外を、龍平は受け入れるつもりはない。

 そしてなによりも、娯楽のかけらもない森に、牛の世話だけのために、つまりアイスクリームやホイップクリームだけのために、ひとを移住させるなど言語道断だと考えていた。


「さようですか。ですが、もし、貴卿のお考えが変わるようでしたら、いつでもお気軽に。私がこのバルゴを預かる限り、貴領への協力を惜しむつもりはございません」


 龍平の言葉で、フライエリはフレケリー領の特殊性を理解した。

 ひとと会話し、ひとを理解する深紅の龍であればともかく、ひとを拒絶し、敵対しかねない幻獣の砦に、無理矢理ひとは送れない。


 だが、それでも幻獣たちと共存しようという龍平に、フライエリは協力を惜しまない。

 押しつけることはしないが、望まれるなら能力の及ぶ限り力を振り絞る気になっていた。


 それほどまでに、アイスクリームはバルゴを発展させ得る可能性を秘めている。

 その製法を惜しげもなく見せてくれた龍平に、フライエリは限りない恩を感じていた。


「さて、レフィ、ティラン。疲れはないか? 今日のバターになるはずの生クリームを分けてくださった村の皆さんに、アイスクリームとホイップクリーム、それから焼きメレンゲを盛大に振る舞おうじゃないか。全部レフィとティラン頼りだからな」


 その日、バルゴは村人たちの歓声に沸き上がった。

 後世バルゴがアイスクリーム発祥の地として、スイーツ好きのひとびとから聖地扱いされるのは、また別のお話。

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