71.筆頭巫女と龍
卒倒した上に失禁までしてしまったナルチアが、自室のベッドで目を覚ましたのは、陽暮れ間近だった。
既に女官たちによって身体を清められ、筆頭巫女の象徴である服も寝間着に替えられている。
目を覚ましたナルチアは、何が起きたかを即座に理解し、シーツの中でのたうち回っていた。
そして、羞恥心が収まってくるに従い、ティランとレフィに幻滅されてしまったのではないかという、後悔が襲ってくる。
そればかりではない。
ナルチアが赤い龍を過剰なまでに恐れたことで、ティランとレフィを傷つけてしまったのではないかという、別の後悔まで襲いかかってきた。
シーツにくるまったまま、ナルチアが涙をこぼしたとき、ドアが軽くノックされた。
心配した女官たちが様子を見に来たと考えたナルチアは、筆頭巫女のプライドを支えに気丈な答えを返した。
――ナーちゃん、大丈夫っ!? ごめんね、脅かして――
――申し訳なかったわ、ナルチア。私としたことが、急いてしまって……ごめんなさい――
心配そうな視線をナルチアに送りながら、小さな赤い龍が入ってきた。
そこには、ナルチアに対する非難も、幻滅もない。
ティランは素のままだが、レフィは貴族社会における言葉遣いを使わなかった。
あえて砕けた話し言葉を使い、ナルチアによけいな気遣いをさせまいとしていた。
貴族社会においての謝罪は、受け入れることで初めて成立する。
現代日本のように互いに謝り合い、有耶無耶にするものではなかった。
謝罪があったことを明示し、受け入れたことで遺恨やわだかまりを残さないと明言する。
迷惑料等の償いは当然のことであり、どのような着地点に持っていくかは、また別の話になる。
たとえば、人前で恥を掻かされたのだからどうしろとか、謝罪を受け入れたのだからこれ以上は必要ないとか、ケースバイケースだ。
だが、貴族階級の出身ではないナルチアに、その腹芸を求めることは酷だとレフィは判断していた。
「……ティラン……レフィ姉様……謝るのは私の方です……ごめんなさい。どうか、お気になさらないでください」
ナルチアは小さな赤い龍が悲しんだり、憤っていないことに、心底ほっとしていた。
レフィはナルチアの返答を聞き、これ以上よけいな気遣いを強要しなくて済んだことに、心底ほっとしていた。
ナルチアにしても、貴族社会での謝罪がどのような形で行われているか、話の上では知っている。
だが、この時点でナルチアは、まだレフィの生前の立場や行動の指針を知らない。
そしてなにより、ナルチアがレフィの謝罪を受け入れるということは、その姿に恐怖したことを認めることに他ならない。
愛おしい存在にそのような感情を抱いたことは、ナルチアにとって認めがたいことだった。
――ナーちゃん、リューちゃんとレニアのところには明日行こうよ。ボクも慌てちゃったからさ。早くふたりに知らせなきゃって。でも、今晩ひと晩よく考えてみよう? ボクたちはボクたちで考えておくから、ナーちゃんはナーちゃんの考えをまとめておいてよ。リューちゃんとレニアの考えを聞きながら、みんなで良い方法を考えようよ――
三人で結論を出すのは、早計だ。
やはり、当事者を入れ、様々な角度から考察しなければならない。
今日たどり着いた結論は、あくまで第三者の視点だ。
実際に魔法を行使するのは龍平であり、構築するのも龍平だ。
提案や助言はできるが、強要はできない。
幼児退行してしまった朱の賢龍は、あのときそれを失念していた。
「はい、ティラン。それがいいです。私もひと晩考えます。あ、ちゃんと寝ますよ。だからティランもレフィ姉様も、今夜はゆっくり。……そうだ、晩ご飯どうします? 神殿で召し上がっていただけますか? 今夜、泊まっていきませんか?」
ようやく再起動したナルチアは、ふたりを夕食に誘った。
できることなら、このチビ龍を抱いて眠りたい。
純粋な思いを、ナルチアは口にしていた。
決して、性的な欲望ではなく、ペットを愛玩するわけでもなく、姉妹の情から湧き出たものだと、ナルチアは思っている。
――そうね。せっかくですからお呼ばれしようかしら。その前に、今夜は帰らないことをリューヘーとフォルシティ卿に伝えなければならないわ。ちょっとひとっ飛びしてくるから、あなたは待っていてほしいからしら――
居候の分際として、夕食の都合は伝えておかなければならない。
貴族としてある程度の散財は社会への還元として必要だが、無駄遣いをしていいというわけではなかった。
「レフィ姉様、それでしたら誰か使いのものを立てますけど?」
ナルチアにしてみれば、客となったレフィが行ったり来たりするのは、筋が通らない。
レフィの言い分は、神殿は客に伝言させるのかと、後ろ指を差されかねないことだった。
――普通はそうかもしれないわ。でも、私が飛んだ方がはるかに早いの。それに、あなたと私たちの私的な用事で、神殿の方にご足労を掛けるのも心苦しいわ。すぐに戻ってくるから、心配しないで――
まだ納得し難いという表情のナルチアを残し、レフィは飛び立っていった。
――そういうわけで、今夜は神殿にお呼ばれしてくるわ。これから卿のお屋敷に寄って、私の食事は不要であることを伝えてくるわ――
帰り支度をしているミッケルの執務室に舞い込んだレフィは、さっき龍平と別れたときの沈んだ表情を一変させている。
ナルチアの子供じみた暴発は、レフィが抱えていた自己嫌悪まで吹き払っていた。
「承知しました、レフィ殿。今夜はゆっくりと羽を伸ばしてきてください」
レフィの心情を理解していたミッケルは、穏やかな表情で答える。
少しずつでもレフィが心を開ける相手を得たことを、この武闘波法衣貴族は歓迎していた。
――とりあえず、あの娘があなたを神敵扱いすることは、もうなさそうよ。完全にわだかまりが払拭されたわけではないでしょうけど、憎しみはないと思っていいわね。ナルチアからの示唆について、あなたも考えておいてほしいかしら――
龍平に当面の危険は去ったことを、レフィは伝えた。
そして、召喚魔法を龍平が使えるかもしれないことも、伝えていた。
「おう、助かったよ。やっぱり嫌われるのは仕方ないとしても、憎まれ続けるのはちょっとなぁ……ま、ゆっくりしてこい。明日は神殿から直接こっちか? 五人で検証すれば、俺が召喚魔法を使えるかどうか、それなりに見えてくるだろ。ただ、実験をどこでやるかだけど……神殿だろうなぁ。なら明日は、レニアを連れてこっちから神殿に出向くか?」
レフィたちの考察は的を射ていると、龍平は考えている。
実際に召喚魔法を行使したレニアを検証に加えれば、かなり精度も上がるはずだ。
だが、建前とはいえ高科学院ですら研究を自粛しているような、神聖とされる魔法を、おいそれと実験するわけにはいかない。
場所を選んで行わなければ、今度こそ神敵と認識されてしまう。
もちろん、事情を承知している神殿から騒ぎ立てることはないはずだが、龍平を快く思わない勢力も王城内にはいる。
そちらから騒ぎを起こされてしまえば、神殿としても何らかのアクションを起こさざるを得ない。
ここで召喚魔法の研究や解析を解禁してしまえば、どのような混乱を巻き起こすか解ったものではなかった。
これまでに軍事的な物を召喚したこともあったが、神殿の権威の元に複製を禁じている。
それが自由に召喚できるようになってしまえば、現在均衡を保っている軍事バランスが崩壊する。
そうなれば、一貴族によるクーデターならまだしも、大陸全土を巻き込んだ全面戦争に発展する危険性も充分に考えられた。
やはり、召喚魔法に関する実験は、神殿内で秘密裏に行うべきだった。
もちろん、アーノルやトロン神官長に話を通したうえでだ。
都合がつくなら、クレイシアにも参加してほしい。
龍平は、そう考えていた。
――ええ、そうしていただこうかしら。神殿から馬車を回していただけるよう、手配しておくわ。今夜はナルチアの相手をしてくるわね。あなたも私がいないからって、レニアを誘って迷惑なんかかけないでよ?――
さりげなく釘刺してきますねぇ、トカゲ姫。
心配なら帰ってくればいいじゃないですか。
「ばっ!? 莫っ迦か、てめぇ! 俺がそんなマネできるとでも思ってんのかよ? さっさと行ってきやがれ。いつまでも待たしてんじゃねぇよ」
威張って言うことじゃねぇよ。
このヘタレめ。
――そうね、あなたにそんな度胸も、器量もあるわけないわね。では、フォルシティ卿、行ってくるわ。ご心配をおかけして、申し訳なかったわね――
そういうなり、レフィはまた飛び立っていった。
どことなく楽しそうな雰囲気をまとった小さな赤い龍を、ミッケルは優しげな、龍平は安心したような、そんな視線で見送っていた。
「レフィ殿も心の重荷が降りたようで、ひと安心といったところかね。少しばかり焦りを感じておられたようだったが、これでいい方に転がればいいな」
レフィに気軽に話せる相手が増えることは、ミッケルにとっても喜ばしいことだった。
今のところ、妻のディフィやセルニアン辺境伯妃のラナイナは、保護者のような立場だ。
ジゼルは龍平にべったりだし、タエニアは警戒心が強すぎる。
エヴェリナはいつでも一歩退いた態度を崩さないし、フロイもソラも職責上そこまで踏み込んでは行かない。
自身に対しては、レフィから壁を作っていると、ミッケルは感じている。
レニアに対しては妬心を抱いている現状で、一人娘のデルファくらいしかレフィが気軽に話せる相手がいなかった。
一二、三歳と一六歳ではかなり精神的な成熟度が違うが、それでも同世代で同性の知己が増えるに越したことはない。
ときには反目し合い、いがみ合うこともあるだろうが、レフィの精神的な安定には欠かせないと、ミッケルは見ていた。
「そうですね。俺ばっかりに構ってないで、羽を伸ばしてほしいと思ってます。いつも、俺を第一に考えてくれるのはありがたいんですけど、あいつの重荷にはなりたくないですから。それに、レニアを責める気はないですけど、あのナルチアって子も被害者ですよね。神殿では良い子でいなけりゃいけないんでしょ? レフィと仲良くできるんなら、相当ストレスが減る……楽になると思います」
龍平にしても、レフィがそばにいることは絶大な安心感がある。
この世界において、無条件で信頼できる相手は、レフィとセリスしかいなかった。
もちろん、ミッケルやバーラム、カルミア王や両尚書が信頼できないわけではない。
だが、彼らにはどこか打算的な部分が、ないわけでもなかった。
純粋な好意だけで済む学校の中で完結する友人関係と違い、社会人である以上はそれも仕方ないと、龍平も最近になって解ってきた。
そんな中でも、同世代で同性の友人として付き合えるケイリーは、龍平にとって大切な人になっている。
レフィとティランにも、そんな存在がいてほしいと、龍平は常々思っていた。
イケメン死すべき、慈悲はないとも思っているが。
――お待たせ、したかしら、ナルチア――
――ただいまぁっ! さぁ、いっぱいお喋りしよっ!――
神殿の中にあるナルチアの居室に飛び込んだ小さな赤い龍が、エメラルドとルビーの瞳を輝かせていた。
今ここで召喚魔法に関する検証を行う気など、レフィにもティランにもかけらもない。
今はただ、あえて女の子同士のお喋りに興じようと、それしか考えていなかった。
ティランに性別はないが、レフィの精神に引かれたせいで、女の子寄りの考え方になっていたからだったが。
「お返りなさいっ! ティラン、レフィ姉様! 夕食の準備がもう少しかかりますけど、お腹空いてないですか? 何か摘めるものお願いしますか? 私、今から楽しみで楽しみで、そわそわしちゃってたらごめんなさいっ!」
レフィを待つわずか半刻ほど、地球換算で三〇分ほどの時間が、ナルチアには永遠のように感じられていた。
全身で喜びを表したナルチアは、飛び込んできた小さな赤い龍を掻き抱いている。
――ちょっ!? ナーちゃん、苦しっ! 逃げないからっ!――
いきなり抱きすくめられ、小さな赤い龍がナルチアの腕の中手もがいている。
だが、振りほどこうと思えば簡単なのに、龍が荒々しい行動に出ることはなかった。
「っ!? ご、ごめんなさいっ! 私っ! つい、嬉しくってっ!」
仲のよい巫女や女官がいるにはいるが、やはり神殿に仕える者としての序列もあり、友達付き合いができるわけではなかった。
神殿の外に知己がいなくもないが、友達付き合いするほど頻繁に会えるわけでもない。
神殿に仕えて以来、初めて気安く話せる相手を見つけたナルチアは、レフィと同じような境遇だともいえる。
まだ一三歳の少女に、自制を求める方が酷なことだった。
――落ち着きなさい、ナルチア。私はここにいるわ。そうね、何か摘んでもいいのだけれど、せっかくの夕食が入らなくなってはもったいないわね。以前から気になっていたのよ。神殿では普段からどんなものを食べているのか。ブーレイ様の教えに食の禁忌はないけれど、巫女ともあれば精神性を高めるために、なんらかの制限はあるのではなくて?――
生前から気になっていたことを、レフィは尋ねてみる。
龍平から聞いた地球の宗教における食の禁忌に、興味を抱いていたことも影響していた。
神殿が特に巫女を含め、普段の食生活を隠匿しているわけではない。
単に公表していないだけだった。
「普段は特にないですよ。儀式の前には、血を含むものを食べない程度ですね。レフィ姉様は、特にお嫌いなものはありますか? もしくは異世界の風習で禁忌になっているものとかは?」
レフィに聞かれるまで、ナルチアは禁忌に気づいていなかった。
もし、該当する食材があれば、今からでも除外してもらうよう頼むつもりだった。
――そうなの。教えてくれて、ありがとう。やっぱり、といったところかしら。以前から興味があったのだけれど、リューヘーから地球の宗教について聞いて以来、また気になっていたの。私は大丈夫よ。何でもありがたくいただくわ――
仏教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教などにおける食の禁忌は、かなり厳格で強固だ。
食の禁忌がないと言われているキリスト教にしても、母体ともいえるユダヤ教に準じた禁忌を持つ宗派もある。
龍平からもたらされる異世界の知識を、自身の常識に照らし合わせ、改めてこの世界について考察することが、レフィは大好きだった。
そんな何気ないひと言は、知の探求者である神殿の巫女に火をつけていた。
「異世界の神様ですか? 私、とっても興味があります。ブーレイ神様のお導きこそ至高と信じていますが、他の神様の教えも知っておきたいです。詳しくお話しいただけますか、レフィ姉様」
この世界は、緩やかな多神教だ。
どの神を信奉するかは、個人の自由であり、どの国家もそれを保障している。
たまたまガルジオンではブーレイ神を信奉する者が多いだけで、他の神を祀る神殿がないわけではない。
そして、王家が信奉する神がその国家の主流になるだけであり、優遇はされても国教として保護することもなかった。
信奉する神によって仲の善し悪しはあるにしても、宗教戦争に発展することもない。
有史以来、凄絶な宗教戦争で痛い目に遭い続けた過去が、この世界をして地球が羨むような宗教観を根付かせていた。
他の宗教の存在を認めるだけでなく、敬い、研究して良いところは取り入れる。
地球の原理主義者が見たら目を剥くような日常が、そこにはあった。
――それは、あなたがリューヘーに直接聞きなさい。私は教えてもらっただけだもの。あなたの前でこんなことを言うのもなんだけど、あまり熱心ではないにしろ、ブーレイ様の信徒でもある私から聞いても、先入観や偏りが入って正しい情報にはならいわ――
ナルチアの問いは、龍平と和解させるいいチャンスだと、レフィは考えている。
もちろん、又聞きのあやふやな知識で、誤解を生んではならないとの判断もあった。
「はい、レフィ姉様。明日、フレケリー卿に会うのが楽しみです。どんなお話が聞けるのでしょう……」
神敵と罵ったことなどすっかり棚に揚げ、ナルチアは未知の知識への期待に胸を膨らませている。
レフィの心配は、杞憂に終わりそうだった。
「……あれ? レフィ姉様、今、ブーレイ様の信徒と?」
気づいた。
異世界の龍が、ブーレイの信徒であるはずがない。
――ええ。そのあたりも含めて、ゆっくりお話ししましょう。私がなぜドラゴンの姿をしていて、それでも人と暮らしたいと思ってるか。全部は話せないけど、嘘はつかないわ――
全身を深紅に染め上げたような龍の中でただひとつ、エメラルドの輝きを持つ右の瞳が煌めく。
ナルチアが畏怖したように身を震わせたとき、夕食を知らせるノックが筆頭巫女の居室に響いた。




