70.筆頭巫女の困った覚醒
ふらふらとガルジアの空を飛んだレフィは、いつしかブーレイ神殿の上空にいた。
フォルシティ邸に帰るのも、今は少々はばかられる。
デルファにでも捕まりでもしたら、なぜひとりだけで帰ってきたのかを根掘り葉掘り聞かれるのは、火を見るより明らかだ。
そこで下手に答えようものなら、たちどころに異種恋愛譚のできあがりだ。
ディフィならレフィの揺れる心を悟り放っておいてくれるだろうが、まだ子供のデルファにそんなデリカシーを求めること自体間違いだろう。
レフィ自身、龍平にシンパシーは感じていても、恋愛感情は抱いていないと思っている。
レニアに対する嫉妬は、仲の良い友達を奪われるような、子供っぽい心情だとレフィは自覚していた。
そう思い込んでいる。
神殿の上空から庭園を見渡したレフィは、そこに見知った顔を見出した。
決して仲が良いわけではないが、今はかえって気遣いがない分、気を紛らわせるには好都合な相手だった。
――あなたはそこで何をしているの?――
やることもなく、暇を持て余したナルチアは庭園に出ていた。
レフィは初めて会ったときのような殺気など欠片も見せず、ナルチアのもとに舞い降りる。
龍平に頬を抓られた同士。
そしてレニアの幻霧の森改めフレケリー領行きを、阻止しようとした同士。
この妙な連帯感が、本来ならナルチアを不倶戴天の敵になりかねないと認識していたはずのレフィに、奇妙な親近感を抱かせていた。
だからといって、ふたりの間に和やかな雰囲気などかあるはずもない。
「なによ、神敵の腰巾着。お役目を奪われた私を笑いにでもきたの?」
いきなり敵意を剥き出しにて、ナルチアはレフィに答えた。
龍平に一番近い存在であるレフィは、ナルチアにとって間違いなく敵に分類されている。
――失礼ね、あなた。誰が腰巾着よ。だいたい腰巾着はあっちでしょうに――
いや、その認識は間違ってるぞ、トカゲ姫。
間違いなく腰巾着はおまえさんだ。
――それから、あなたはお役目を奪われたんじゃない。誤召喚の原因究明が済むまで、なくなっただけよ。いいえ、できなくなっているだけじゃないの。レニアは魔力を失ってもいろいろ努力しようとしているのに、あなたはなんなのかしら? 筆頭巫女の魔力はお飾り? 文句ばかりでなにもしないつもり?――
半ば自分に言い聞かせるように、レフィは言った。
レニアの努力は認めていたし、それを蔑ろにする気は欠片もない。
それに対して、魔力を失ったわけでもないナルチアが、何をしてきたというのか。
クレイシアから聞いた範囲では、誤召喚の原因究明には目もくれず、龍平への不満と敵愾心を募らせるばかりにしか見えなかった。
「幻獣の分際で……あなたも神敵なのね……」
ナルチアの声が、一段低くなった。
その目には、憎悪の光までたたえている。
誤召喚の原因究明など、考えたこともなかった。
そして、召喚の儀が中止されている理由なども、考えもしなかった。
ただ、龍平から魔力を奪い返すことしか、考えていなかった。
そうすれば、魔力を取り戻したレニアが筆頭巫女に返り咲き、召喚の儀が再開され、誤召喚の汚名を雪げるとしか、ナルチアは考えていなかった。
自身が召喚の儀を執り行うことなど、未来永劫ないと思いこんでいた。
ナルチアは、召喚の儀が中止されていることから、現実逃避をしていた。
――幻獣の分際? 神敵? 笑わせないで、小娘。もし神敵などという存在があるならば、とっくに私もリューヘーも討ち果たされているのではなくて? それがこうしてのうのうと生きているのは、どうしてかしら? あなたの八つ当たりではなくて? いい加減、おやめさなさい――
レフィの喉が低くうなっている。
ナルチアの現実逃避に、れふぃは苛立ちを感じていた。
そのせいで、言葉には刺が大量に含まれている。
険悪な雰囲気がふたりの間に充満し、針のひと突きで暴発しそうになっていた。
「八つ当たりっ!? 私がどんなに悩んできたか、あなたはなにも知らないくせにっ! そうよっ! 八つ当たりよっ! それのなにがいけないのっ!? 筆頭巫女になったのだって、レニア様が事故に遭ったからよっ! 私なんてっ! 私なんてレニア様に何もなければ、いらない子なのよっ! レニア様を返してっ! お飾りの筆頭巫女なんて、もういやぁっ! レニア様を筆頭巫女に戻してあげてよぉっ! ドラゴンなら何でもできるんでしょうっ! 私には、何もできないんだからぁっ! うわぁぁぁあああんっ!」
爆発したのは、ナルチアの感情だった。
品行方正を求められ、我慢に我慢を重ねてきた鬱積が、遠慮などしなくていいレフィ相手に暴発していた。
ひとびとの拠り所たる神殿に、誤謬など許されない。
筆頭巫女は、その体現者でなくてはならない。
筆頭巫女就任に当たって、ナルチアが自身に課した責務だった。
レニアの汚名を雪ぐべく、自身に課した十字架だ。
このとき、召喚の儀を復活させることなど、実はどうでも良かったことにナルチアは気づいていた。
レニアの復権だけが望むことだと、ナルチアは気づいていた。
――私が何でもできると思ってるの!? 私にだってできないことなんていっぱいあるのよっ! 私が望んでこの姿になったとでも思ってるの!? 私だってっ! 私だってぇぇぇっ!――
ナルチアの感情に引きずられ、レフィも思いの丈を叫んでいた。
周囲には、龍の咆哮が響き渡っている。
不穏な空気を察知して、ナルチア付きの女官たちやナルチアに近い巫女たちが、庭に飛び出してくる。
荒事とは無縁の女官たちは慌ててアーノルを呼びに走るが、朱の竜の姿に脅えた巫女たちは、ナルチアを助けに入ることはできなかった。
――レフィ姉……やっぱりボクの身体なんて……イヤだったんだ。……ボクが……あんなこと……しなかったら、今頃……レフィ姉は、リューちゃんと……ごめんなさぁぁああいっ! うわぁぁぁあああんっ!――
深紅の龍の左目がエメラルドからルビーに瞬転し、ティランの意識が表に出てきた。
普段口にすることはないが、やはりレフィの身体を焼き尽くしてしまったことは、ティランにとっては痛恨事だった。
ティランは幼児退行著しいこともあり、レフィの高ぶった感情に引きずられていた。
そして、混乱の極みを口走り、過去の過ちに号泣する。
――違っ!? ティラン、それは誤解っ! 私はあなたに感謝してるのよぉっ! お願いだから泣かないでぇっ! それから、私とリューヘーが何だっていうのぉっ!? もう泣きたいのは私よぉっ! どおすればいいの、これぇぇぇえええっ!――
女官たちに呼ばれたアーノルが庭に駆けつけたとき、そこにはカオスとしか言いようのない光景が繰り広げられていた。
まあ、ガキの喧嘩なんて、こんなもんだよな。
「レフィ殿、落ち着かれましたか?」
アーノルが、温かいお茶を注いだカップをレフィに渡す。
まるで小学校の教師が、児童の喧嘩の仲裁に入るかのような口調だ。
――申し訳ございません、アーノル殿。要らぬ騒ぎを引き起こしたこと、まことに申し訳なく……。ティランもごめんなさい。感情が高ぶってたわ――
温かいカップを両手で持ち、舌でお茶をすくいながら、レフィは謝罪の言葉を念話に乗せた。
貴族同士の駆け引きならば多少の心得はあるが、世代の近い者同士がぶつけ合う生の感情は、深窓の令嬢にとって馴染みの薄いものだった。
――ボクもごめんなさい。……どうしたんだろ、あのとき。レフィ姉が好きでこの身体になったわけないなんて、ボクが一番よく知ってるはずなのに。ナーちゃんも、いきなり割り込んでごめんね?――
以前、レフィが龍の殺戮衝動に引き寄せられたように、今度はティランがレフィの困惑と悲しみに引き寄せられていた。
もっとも、白龍との激闘と火山の噴火に巻き込まれた後遺症で、著しく幼児退行しているティランの精神では、ちょっとしたことが発火材料にもなっている。
幸いにして、殺戮衝動が解き放たれることはなかった。
幼児退行のおかげで、怒りというよりは癇癪や、拗ねる方に針が振れているようだった。
――あなたにも、酷いこと言ってしまってごめんなさい。私は、リューヘーを元の世界に戻すことが最優先なの。周りが見えなくなっていたわ。あなたの苦悩なんて、ちっとも考えなかった。あなたも、悩んでいたのよね? これからは、あなたとも協力していきたいわ――
チビ龍の自身を抱え、離そうとしないナルチアを見上げながら、レフィは困惑しながら念話を伝えた。
「はいっ! レフィ姉様、私にできることでしたら、何なりとっ! こんな可愛いドラゴンが悲しむなんて、私許せませんっ! ティラン、私がついてますぅっ!」
なにがどうしてこうなった?
さっきまでとは打って変わって全身で親愛の情を示すナルチアに、レフィは困惑を隠せない。
レフィが元は人間だったことや、死にかけた魂が龍の身体に宿っていることに、ナルチアは衝撃を受けたのかもしれなかった。
ティランの慟哭が、ナルチアの吟線に触れたのかもしれなかった。
とにもかくにも、今のナルチアにはレフィに対する敵意など、かけらも残っていない。
姉に対する親愛の情に似た感情が、ナルチアを支配していた。
そして、幼児退行を起こしているティランに対し、過剰なまでの保護欲を掻き立てられている。
自身より幼く感じられるティランは、ナルチアにとって妹のように思えていた。
――さて、落ち着いたかしら。今、急ぐようなことではないのだけれど、召喚魔法についてあなたの考えも聞いておきたいわ。レニアから聞いてはいるけれど、召喚魔法と四属性の要素は含まれていないわね?――
ナルチアが落ち着きを取り戻したあたりで、レフィは問いかける。
神殿の秘儀である召喚魔法は、一般に解析することは許されていなかった。
それは神殿に対する不義とされ、高科学院でさえ表立ってやっていない。
当然、生前の悲劇の魔法姫も、研究対象にしてはいなかった。
だが、龍平と出会って以来、常にそのことは考えている。
悲劇の魔法姫なりに、召喚魔法の属性について、いくつかの推測は立てていた。
もちろん、召喚魔法のような特殊な魔法が地水火風単独の属性だとは、レフィも考えていない。
時空を切り裂くための風属性または火属性と、切り裂いた時空を安定させるための地属性または水属性を組み合わせたものかと、ぼんやりとは考えていた。
しかし、レニアと話し合うようになってからは、四属性の混合説は捨てている。
召喚魔法を行使した本人から、四属性ではないと明言されていた。
まだレフィの知らない新たな属性があるのか、それとも無属性なのかまではレニアも言及していない。
だが、もし無属性であれば、龍平が召喚魔法を行使できるかもしれないと、レフィは考えていた。
いずれにせよ、四属性の組み合わせで召喚魔法を構築することは、不可能だと見ていい。
レフィは、自身の魔法知識が役に立たないことに、かすかな無力感を抱いていた。
だが、発想を転換することができた、
召喚魔法を再現できないのであれば、改めて四属性を組み合わせ、時空移動の魔法を構築してしまえばいい。
元はといえば、龍平を現代日本に送り返すための、一方通行の魔法を想定していたが、今はそうではない。
龍平とレフィが望むことは、現代日本とこの世界を自由に行き来するための魔法を開発することだ。
そして、ついさっき龍平が言ったことで、レフィの中で新たな仮定も立てられている。
ティランと出会った亜空間への移動と、そこからこの世界に戻った際のことから、属性の混合を思いついていた。
想像を絶する爆発があれば、時空の壁を破ることは可能だった。
だが、それだけでは術者が死ぬ。
巨大な爆発の方向を制御すればと呟いた龍平の言葉をヒントに、土か風の属性を持つ魔法で、爆発に伴う熱や衝撃波を一点に集めればいいと気づいていた。
ティランがブレスの熱量を上げ、細く絞り込むことで亜空間を切り裂いたことも、重要な示唆をレフィに与えていた。
もちろん、それだけで時空移動の魔法が完成するなどと、レフィは安易に考えてはいない。
それでは切り裂いた時空の先に、大惨事をもたらすだけだ。
だが、属性の異なる魔法を混ぜ合わせるか、掛け合わせることで制御ができると、レフィは考えついていた。
あとは、その組み合わせを考えればいい。
「レフィ姉様、召喚魔法に属性はないんです。あの魔法は、ブーレイ神様より与えられた特別な魔法とされています。解析も許されていないんです……高科学院が、こっそりやっているかもしれませんけど。……あの魔法は、筆頭巫女にしか使えないんです。ブーレイ神様に筆頭巫女と認められて、初めて意識の中に浮かんでくるんです。四属性のどれも、感じたことはないです。それから、筆頭巫女でいる間は、四属性が使えなくなるんです。たとえ、それまで使えたとしてでもです」
自信なさげに、ナルチアは答えた。
レフィが召喚魔法を無属性なのか、未知の属性なのか考えていることには気づいていない。
――ナルチア、それは重大なことよ。召喚魔法が無属性なのか、それとも未知の属性なのか。なにかそれについての研究は残されてないのかしら? ……リューヘーは四属性が使えない。もし、無属性だとすれば、リューヘーには召喚魔法を使える素質があるかもしれないの。今、彼が使っている肉体強化の魔法は、四属性とは何の関連もないわ。筆頭巫女にしか召喚魔法は使えないって常識を、いったん投げ捨てて考えるべきね。あなたがた、ブーレイの巫女には納得しがたいでしょうけど、リューヘーはこの世界の人間じゃない。そして、この世界の誰にも使えない魔法を、自身の力で開発して行使しているの。召喚魔法が例外と考えていては、重大な何かを見落としかねないわ。……でも、リューヘーが召喚魔法を使えても、それだけでは意味がないわ。ああ、リューヘーが持っている知識がほしい……。送り返すのではなく、時空の壁を越える方法よ――
レフィは、改めてことの本質を認識した。
周囲は賠償の一環として、龍平を元の世界に送り返すことを、第一義に考えている。
だが、龍平の望みは、時空の壁を自在に越え、現代日本とこの世界を自由に行き来することだ。
もう既に離れ難くなっている龍平と、レフィの望みはそこにある。
召喚魔法が地水火風の四属性ではないと、筆頭巫女から明らかにされた。
ならば、龍平が持つ知識を総動員し、新たな魔法理論を構築していけばいい。
喚ぶのではなく。
返すのではなく。
時空の壁を自在に越える。
そんな魔法を作ればいい。
「っ!? そ、そんなこと……ありえ、ま、せん。……召喚魔法はブーレイ神様からお与えいただいた、私たちの大切な魔法です。いくらフレケリー卿が異世界の人だからといっても……いえ、レフィ姉様の言うとおり、一度常識から疑った方がいいのかもしれません……」
レフィの言うことは、よく解っている。
だが、自身の存在意義を奪われるようなきがして、ナルチアの理性は納得しても、感情が追いついていなかった。
――あ、そっか。じゃあ、ボクにも使えるかもしれないね。ナーちゃん、ボクに召喚魔法教えてくれないかな。そうすれば、リューちゃんにも使えるかどうか、判ってくるんじゃない? ボクの魔力はこの世界の四属性とはまるで違うから、召喚魔法が使えるようになったからって、他の魔法が使えなくなることはないはずたよ。もし、危なそうなら、そこでやめるから。それに、使えなくなったとしても、ボクは構わないし。ダメかな?――
ティランがルビーの光を湛えた左目を輝かせ、ナルチアに話しかけた。
ありとあらゆる知を求め続けた朱の龍が、ナルチアを見上げている。
そこには神殿の秘儀を暴くだの、奪いとろうだのといった邪な光はかけらもない。
未知の知識に対する、純粋な好奇心が溢れていた。
「はいっ! ティランが望むなら、私の知識のすべてを伝えましょうっ! ティランなら、きっと使えますっ! そして、きっと大丈夫ですっ!」
喜色満面のナルチアが、全身で喜びを表すように答える。
小さな赤い龍を抱き締め、その首に頬をすり付けていた。
――あっ! ……そうよ……そうだわ……。リューヘーはこの世界に召喚されたとき、不幸な事故の結果としてレニアの魔力を奪ってしまったわね? つまり、リューヘーの魔力は、筆頭巫女と同質ってことよっ! だからリューヘーは四属性を使えない代わりに、無属性の魔法を作り上げて使えるのね。ナルチア、お手柄よ。あなたと話していなければ、気づかなかったかもしれないわ。早くふたりに知らせましょう――
エメラルドの右目が、ナルチアを見上げている。
解決にはまだほど遠いが、かすかな光を見せてくれたナルチアにレフィは感謝していた。
「はいっ! レフィ姉様、すぐにでもっ! アーノル様、馬車の手配をお願いいたしますっ!」
敬愛し尊敬するレニアの役に立てると解ったナルチアは、ここまで黙って見守ってくれていたアーノルに向き直った。
さんざん騒いで迷惑をかけた上でのお願いは気が引けるが、ナルチアは一刻の猶予もないと思いこんでいる。
――ナルチア、アーノル様にこれ以上ご迷惑はかけられないわ。私が乗せてあげる――
そう言ったレフィは、するりとナルチアの腕から抜け出し、宙空でアーノルに一礼した。
そして身の丈二メートルの、騎龍サイズに変貌する。
人間の頭など、ひと噛みで砕きそうな凶相がナルチアを見下ろす。
その瞬間、ナルチアが卒倒した。
一瞬でもとのチビ龍に戻ったレフィが、乙女の尊厳を守るため、翼でアーノルの視界を塞ぐ。
レフィの背後で凶相を見ずに済んだ巫女や女官が、その隙に上着をナルチアの下半身にかぶせていく。
失神したナルチアは、あえなく失禁までしていた。
やはり、神殿における誤召喚最大の被害者は、ナルチアのようだった。




