64.筆頭巫女の無謀な挑戦
レフィが近所のひとびとを交代で肩に乗せ、ガルジアの空を舞っていたとき、神殿ではクレイシアとナルチアが対峙していた。
呆れ顔のクレイシアに対し、ナルチアはまなじりを決し、不退転の意志を込めて唇を固く引き結んでいる。
「どうあっても承伏しかねる。あなたはそう言いたいの? これはトロン様も同意した、いえ、トロン様のご意志で決められたこと。あなたは、それを解ったうえで言っているのかしら?」
クレイシアの問いかけに、ナルチアは黙って頷く。
話す余地などないと、言っているも同然の態度だった。
ブーレイ神殿に籍を置く者は、たとえ筆頭巫女といえど神官長の意志に逆らうなどあり得ないことだ。
もちろん、建設的な意見の具申まで封じるほど、神殿は偏狭ではない。
元々国家内における権力的思考を持たない神殿にしてみれば、神官長の方針がよほどいい加減でなければ、逆らう必要性自体がない。
そして、神殿の活動がよりよい方向に向くのであれば、意見の具申は歓迎できることだ。
だが、感情的な反発まで認めるほど、なあなあで運営できるような組織ではない。
ひとびとの心の指針たる神殿の発言は、それ自体が非常に大きな力を持っている。
下手に誰かを異端認定などしようものなら、その人物は社会的に抹殺される。
ひとびとの信仰を集める神殿が敵と認定した者と、誰が付き合いたいと思うものか、考えなくても解ることだ。
それゆえに、神殿に所属する者は、軽々しく敵という言葉を選ばない。
過去、たとえ戦時においても交戦国を敵と称したことは、公式には一度もない。
太古の昔であればともかく、この時代に殲滅戦などあり得なかった。
だが、もし神殿が交戦国を敵と認定してしまったら、殲滅戦待ったなしだ。
当然、各国にもブーレイの分殿はある。
血で血を洗う同じ信徒同士での殺し合いなど、決して認められることではなかった。
その敵という言葉を、ナルチアは度々口にしてきた。
そして、昨日の昼に赤い巨龍がガルジアの空に舞い、今日はその神敵までもが神殿の上空を飛んでいる。
もう、これ以上ナルチアには我慢ができなかった。
ナルチアは、決意を胸にクレイシアと対峙していた。
「フレケリー卿を神敵と呼び、ガルジオンが認めた騎士を討てばどのような事態を引き起こすか、あなたはそれが解らないの? いえ、解ったうえでなお、そうするつもりなのね?」
頑ななナルチアの態度に手を焼きながらも、クレイシアは説得を続けていた。
このままでは事態を未然に防ぐため、筆頭巫女を罷免したうえでナルチアを放逐しなければならなくなる。
いくらなんでも妹同然に接してきた少女が、路頭に迷う姿は見たくない。
まさか神殿の後ろ盾を失ってまで龍平に突撃などしないとは思うが、一本気なナルチアのことだ。その保証はなかった。
そして、万が一にも龍平に突撃などしようものなら、レフィが黙ってそれを許すとは思えない。
叩きのめされるならまだしも、下手をすれば八つ裂きにされたうえで、骨すら残さずあのブレスで焼き尽くされるかもしれない。
ナルチアを死なせたくないと同時に、レフィにそんな罪を負わせたくない。
クレイシアは、焦燥感に身を焼かれる思いだった。
「神殿は、無謬です。ひとびとの手本であるならば、誤謬があっていいはずはありません。召喚の儀に失敗などあり得ません。彼の男は、悪意を以て召喚の儀を妨害し、レニア様の魔力を奪い去った。召喚の議は失敗したのではなく、妨害されたのです。神殿の無謬を証明するためには、彼の神敵を討ち果たし、レニア様の魔力を取り戻さなければなりません。そしてそうしなければ、いつまた妨害されるか判りません。それゆえ召喚の儀を取りやめているのでしょう?」
できるできないではない。
やるんだとの意志を込め、ナルチアはいつもの主張を繰り返した。
もっとも、本気でやるなら神殿を辞し、己が意志のみでやればいい。
筆頭巫女の立場で凶行に及べば、神殿がどうなるか解らないところに短慮さと、神殿が守ってくれると妄信しているところに甘さがにじみ出ていた。
「解りました。できるものならやってみなさい。ちょうど、今夜フレケリー卿と面会の予定があります。その場への同席を認めましょう。そのうえで彼を、誤召喚の被害者をなお、神敵と呼ぶのであれば、私はもう止めません。あなたが彼のドラゴンに骨の一片まで焼き尽くされようと、私は、もう止めません。その覚悟があるなら、ついておいでなさい」
クレイシアは、龍平の涙にその罪深さを改めて思い知らされていた。
レフィに言葉で滅多斬りにされ、自信を含む神殿の罪を深く悔いていた。
あの面会の後、報せるかどうか迷ったが、クレイシアはレニアにそのときの様子を伝えていた。
龍平が涙を流したくだりでレニアが泣き崩れようと、クレイシアはすべてを伝えていた。
その方がレニアのためになると、クレイシアは判断した。
神殿を離れ、龍平を元の世界へ送り返すための研究を続けているレニアの決意が、よりいっそう強固なものになると、クレイシアは信じてすべてを伝えていた。
クレイシアはナルチアに手を焼いているが、嫌っているわけではない。
筆頭巫女まで登り詰めた才と、不断の努力を厭わない一本気さを好ましく思っていた。
ナルチアの才は自身を軽く越えていると見ているクレイシアは、彼女は歴史に名を残す筆頭巫女に成長すると信じている。
あとは、この莫迦な妹の目を覚まさせるだけだ。
また龍平とレフィに迷惑をかけてしまうが、ナルチアのために手を貸してもらおうと、クレイシアは決めた。
あとで、どのような償いでもしてみせると心に決め、ナルチアを下がらせたクレイシアは、レフィへの手紙をしたため始めた。
――こんな手紙が来たのだけれど、リューヘーはどうしたいかしら? 向後の憂いを絶つのであれば、この莫迦な娘を八つ裂きにでもする? 私は、立ちはだかる敵に容赦はしないわ――
危うく破り捨てそうになったぐしゃぐしゃの手紙を龍平に渡し、レフィは憤懣やるかたないといった表情だ。
神殿のゴタゴタを押しつけてきたクレイシアには、呆れ返って言葉もない。
アクィルはかわいいし、理知的な話ができるときのクレイシアは好ましく思う。
己が罪を深く悔い、龍平の帰還に惜しみない援助をしてくれることには感謝するが、身内かわいさに時折見せるこうした暴走には怒りを通り越して呆れるしかなかった。
「おいおい、穏やかじゃねぇなぁ、おまえは。いいじゃねぇか、会ってみようぜ。俺、このナルチアって娘、嫌いにはなれねぇんだよ。俺にもあったからな、自分が信じる正義だけが正しいって思いこんでる時期が、さ。ま、誤解だけは解いておこうぜ」
相変わらずのほほんとした龍平が、手紙を読みながら答えた。
相容れなければ、そのときは幻霧の森に返って無視しておけばいい。
それよりも龍平が気になっているのは、今夜の面会にクレイシアが連れてくるレニアの方だ。
元々の予定では、そのふたりと会って今後のことについて意見交換をするはずだった。
そのレニアという少女が、自身を召喚の儀の事故でこの世界に喚んでしまったことは、聞かされていた。
今まで詳しく聞かされていなかったが、その際になぜかは不明だが彼女の魔力が自身にすべて移り、それが原因で筆頭巫女を罷免されていたことに、龍平は罪悪感を抱いている。
初めて会うことになるが、レニアの人生を叩き壊したことを、どう謝っていいか龍平は解らない。
あの夏の日に宿題をさぼろうとしなければ、階段から消えることもなかったはずだし、あの辺りにあった何かが消えるだけで済んだはずだと、龍平はずっと考えていた。
――あなたならそう言うと思っていたわ。でも、殺しはしないし、傷つけることもしないけど、私のやることに文句は付けないでほしいかしら。何があっても、あなたに手出しはできないようにはしておくわ――
残虐な殺戮を悔いていたレフィだが、この世界、この時代に生きる者としての常識は、命を狙う者を殺すことに躊躇いはない。
「ああ。お手柔らかに頼むぜ。間違いなく、このナルチアって娘は俺と同じくらいの甘ちゃんだ。せいぜい脅しつけて、しっぽを巻かしてやろうじゃねぇか」
この期に及んで相手を思いやる龍平を、レフィは眩しく見ていた。
政治や商売のセンスはなくても、真っ正直に人を見る龍平の心根が、レフィは大好きだった。
夜の帳がガルジアを包み、日の出とともに肉体労働に勤しむひとびとが眠りにつく頃、フォルシティ邸の応接間は煌々と光る魔装具に照らされていた。
その下にクレイシア、レニア、ナルチアが並んで座っている。
公式な場であっても、まず見ることはできない三代にわたる筆頭巫女の揃い踏みだ。
敬虔な信徒であれば、この奇跡にひざまづかずにはいられないだろう。
だが、相対すは神殿の権威など歯牙にもかけない赤い龍と、それをよく解っていない龍平だ。
どちらにせよ、気後れなどするはずもない。
そして、ミッケルが見届け人の役割で同席している。
こちらも神殿に一定の敬意は払うものの、ことあらば斬って捨てることに躊躇いはない。
完全なアウエーということを、先代も先々代も理解している。
だが、この期に及んでもナルチアは、どちらの立場が強いかを理解できていなかった。
建設的な話をするために設けられた場のはずなのに、針でひと突きすれば張り裂けそうな空気が支配している。
ナルチアひとりが龍平をにらみつけているために、いつまで経っても話が始められなかった。
「あの……」
「リューヘー殿……」
同時に話し始めてしまった龍平とクレイシアが、思わず言葉を飲み込んだ。
お見合いの席じゃねぇんだよ。なにやってんだか、このふたりは……
龍平は言葉を飲み込んだまま、正面に座るレニアに視線を向けてみた。
まっすぐと腰まで伸びた燃えるような朱の髪に同色の眉が、セリスの瞳を思い起こさせる。
すっきりと通る鼻梁に続く小振りな唇が薄い紅に彩られ、緊張ためか固く引き結ばれていた。
少しやつれたように見える頬からは血の気が引き、朱の髪を引き立たせながら彼女の緊張を物語っている。
あくまでも誤召喚は事故であり、悪意を持って龍平を攫ったわけではないと理解している。
自身の怠惰が原因でこの少女に多大な迷惑をかけていると思うと、龍平は申し訳なさが先に立って仕方がなかった。
「……えぇと、レニアさん? 何て言っていいか解らないけど、いろいろとご迷惑をおかけしているみたいで、申し訳ない」
クレイシアから視線で譲られた龍平からレニアに向けられた言葉は、歴代筆頭巫女が揃って呆気に取られるような内容だった。
三人三様の思いを抱いているが、このときばかりは全員が信じられないとの思いに捕らわれていた。
「リューヘー様、とんでもございません。わたくしがあのような不始末をしでかしたばかりに、リューヘー様を異世界に……申し訳ないと申し上げなければならないのは、わたくしの方でございます」
まっすぐに龍平の目を見据えて言ったレニアは、そのあと深々と頭を下げる。
そして、そのまま身じろぎひとつしようとしなかった。
「……っ! レニア様っ! レニア様がそのようなことっ! もったいのうございますっ! 地に伏して許しを請うべきは、こやつのほ――」
「お黙りっ!」
「黙りなさい、ナルチアっ!」
レニアの行いに再起動したナルチアが龍平を糾弾しようとした言葉は、クレイシアとレニアの叱責に食いちぎられた。
「……リューヘー様、ナルチアの無礼、どうぞご寛恕のほどを。責任感の強さゆえ、神殿の誤謬を認められずに……」
頭を下げたまま、レニアが龍平に詫びる。
叱責を受けたナルチアは、くびり殺すような視線を龍平に向けたままだ。
「あ、いえ。俺は気にしてません。レニアさん、どうか頭を上げてください。このままでは話が……」
とりあえず狂犬のようなナルチアは無視しておき、レニアに頭を上げてもらわないことには話が進まない。
今後の話とは聞いているが、どんな内容になるか龍平には想像できなかった。
「ありがとうございます、リューヘー様。本来でしたら、もっと早くにお詫びに伺わなければならないところ、このように遅くなりましたこと、併せてお詫びさせていただきたく存知ます」
龍平の言葉に姿勢を正したレニアは、再度深く頭を下げた。
そして、また背筋をまっすぐに伸ばし、龍平へと視線を投げかける。
「あれは、事故だと俺は理解しています。聞けば、そのときにレニアさんの魔力を、俺が全部奪ってしまったとか。そのせいで筆頭巫女を罷免されたと聞いています。あの日、俺がうかつに部屋から出なければ、こんなことにはならなかったかと思うと、お詫びしなけりゃいけないのは、俺の方かと……。いろいろとご迷惑をおかけして、申し分けございませんでしたっ!」
レニアに負けないほど深々と、勢いよく下げられた龍平の頭が、盛大な破壊音を上げてテーブルに激突した。
「っ!」
「フレケリー卿っ!」
――リューヘーっ!――
「そうよっ! おまえのせいでレニア様はっ! いますぐレニア様の魔力をお返しなさいっ! 何黙ってんのっ! はや、く……?」
レニアが声にならない悲鳴を上げ、クレイシアとレフィが龍平に呼びかけた。
そしてナルチアが勝ち誇ったかのように龍平を詰る中、龍平の身体が小さく痙攣している。
「いかんっ! クレイシア殿っ! 早く治癒魔法をっ! レフィ殿っ! フレケリー卿をベッドへっ!」
切迫したミッケルの声に、レフィが龍騎サイズに身体を変化させ、細かく痙攣を続ける龍平を抱え起こす。
そのタイミングに合わせて呪文の詠唱を完成させたクレイシアから治癒魔法が飛び、龍平の身体を柔らかな光が包み込んだ。
おびただしい鼻血が止まり、身体の痙攣も治まっていく。
だが、完全に意識を吹き飛ばした龍平は、レフィの腕の中で伸びたままだ。
――あなた、見ての通り、今はあなたの言動についてどうこうしている場合ではないわ。リューヘーの容態次第では、今夜の話はここまでにさせてもらうわよ。次は、ないと思いなさい――
ナルチアに冷たい念話を送ったレフィが、龍平を抱えて応接間を出ていく。
虹彩を縦に絞り込んだ冷たいまなざしに、ナルチアは心臓を鷲掴みにされたような錯覚に捕らわれた。
応接間には、歴代筆頭巫女とミッケルが残されている。
ミッケルはタエニアに控えの間へ案内を命じると、低い声で三人に告げた。
「筆頭巫女殿、レニア殿。今は控えの間にご案内する。フレケリー卿が目覚め次第お呼びする。しばらく待たれよ。クレイシア殿は残られよ。ひとつ申し上げておく。手綱はしっかりと握られよ。我々は無為に神殿とこと構えるつもりはない。すべては、そちら次第だ。よく心得られたい」
ナルチアの顔から、血の気が引いた。
今までの言動で、王国きっての武闘派貴族を完全に怒らせたことを、思い知らされていた。
クレイシアに残れと言っておいて、なぜこの場で脅しつけるようなことをミッケルは口にしたのか。
自身に聞かせるためだと、ナルチアはかろうじて理解した。
「フォルシティ様、どうかご寛恕を。わたくしからよく言って聞かせますので……」
消え入るような声で、レニアが取りなそうとするが、ミッケルは表情を崩さない。
今は出て行けと、視線だけで促している。
「フォルシティ卿、申し訳ございません。私からもきつく申しつけているのですが……」
クレイシアがミッケルに頭を下げる。
武闘派貴族の本気に、身体の震えが隠せなかった。
「……あ……ひっ」
ミッケルの視線に捕らえられたナルチアの身体が、無惨なまでに震えている。
神殿にいる限り無縁だった本気の殺気に、少女の心が耐えられるはずもない。
「ご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
慇懃無礼を絵に描いたような態度で、タエニアが二人を促した。
なんとか立ち上がったナルチアだが、その脚はまだ震えたままだった。
「さて、クレイシア殿、かけたまえ。話の続きだ。私はあなた方とリューヘー君たちの話に口を挟むつもりはない。ないが、あまりにも見過ごせないような場合は、この限りではない。それを踏まえたうえで、このあとの話にのぞまれよ。それはそれとして、だ」
ソファに腰を下ろしたミッケルが、クレイシアに座るように促し話し始める。
そして、一旦言葉を切ったミッケルは、深い溜め息をついた。
「あれは、わざとだ。うん、間違いない。場を和ませようと、彼なりに考えたのだろうが……。いや、申し訳ない。話の腰を折ってしまって。いろいろと言いたいことはあるだろうが、ここは私に免じて勘弁してやってくれないかね。まさか、気絶するとは、私も思わなかった」
そう言ってミッケルは、頭を抱え込む。
クレイシアは、どう反応を返していいか解らなくなっていた。




