61.母・暴走、龍・迷走
カルミア王への謁見は、非公開の扱いとなった。
これにより、龍平への謝罪を非公式のものとし、国の面子を保とうとした、というわけではない。
もちろん、その思惑がないとは言わないが、実状は違っていた。
諸侯諸卿の居並ぶ前で、龍平の正体をおおっぴらにするわけにはいかないという配慮の下、そのような判断になったのだった。
裏を返せば、龍平への配慮を隠れ蓑に、国の面子を保ったともいえる。
だが、龍平やレフィがその点について何も異議を唱えなかった以上、話はそれでまとまっていた。
何よりも当の龍平がこれ以上話を拗らせたくないと、強く願っている。
公衆の面前で国や神殿に非を認めさせ、それを以て溜飲を下げようなどとは、龍平は考えもしなかった。
両尚書とミッケルの間で何度も協議が重ねられ、関係各所に細かく根回しをした末に、龍平とカルミア王の謁見の日程を詰めていた。
その結果、当日は朝の公務を早めに切り上げたあと、お茶会という形に調整することができた。
もっとも、その巻き添えで謁見の日程をずらされた者たちは、付随する予定の調整に大わらわだ。
龍平とカルミア王との謁見は、それほどまでの大事と判断されていた。
なにせ、そのあと昼からは、龍が王都の空を舞う。
そのための布告の準備も、急ピッチで進められていた。
「こちら、クレイシア様が召喚した私の国の菓子を完全なものに仕上げましてございます。どうぞ、陛下に」
龍平が紫色の布に包まれた桐の箱を、テーブルを挟んで座るキルアン内務尚書に差し出した。
できればアンパンの下に小判を重ねて隠し、畳の上でやりたいところだが、無い物ねだりをしても仕方がない。
隣では、レフィが生ぬるい目で龍平を見ている。
わざわざ紫の布を探し、レイナードに箱を作ってもらってまでやらなければならない理由を聞いたときには、心底呆れ返っていたものだった。
だが、龍平にしてみれば、時代劇のワンシーンを演じてみたかっただけではない。
時代劇のレフィに小馬鹿にされているが、龍平にもきちんとした理由はある。
本来ならばこの部屋付きの侍女か執事に渡して然るべきものだが、それでは王の下にいつ届くか解らない。
しかし、カルミアとアンパンには、深い因縁がある。
アンパンを召喚したのはクレイシアだが、広めたのはカルミア王だ。
召喚されたアンパンの柔らかさと甘さに感動したカルミアが、それまで王族や特権階級に独占されていた天然酵母の大量生産に乗り出し、庶民に開放した。
さらには北域における甜菜の栽培を奨励し、砂糖の安定供給を図るとともに、産業の乏しかった北域に発展をもたらしている。
それを知った龍平が、謁見の際に感想を聞きたいというささやかなわがままのため、あえてキルアンに渡していた。
「ほう、これはなかなか興味深い。わざわざ私にということは、謁見の際に出せということだろう? 今さらそなたが何かを企むとも思えん。ならば、解っていると思うが」
キルアンはアンパンが謁見に何らかの影響を及ぼすとは、微塵も考えていない。
龍平が場を和ませるために持ち込んだくらいにしか、考えていなかった。
龍平はミッケルから言われて別に用意していた小袋と、緑茶の包みを部屋付きの侍女に手渡した。
王城の厨房に緑茶がない可能性もあり、わざわざこちらも用意してきたものだ。
「閣下にはお口汚しになるかもしれませんが、私の故郷ではこちらの茶の方が普及しております。紅茶より温めのお湯で煎れると、よりいっそう香りが立ちます。元々こちらの菓子は庶民階級のものですので、すっきりとした味わいの茶より、濃く渋みの強い茶と相性がいいようです。なお、こちらに砂糖が大量に使われておりますゆえ、お茶には砂糖を入れずに喫します」
茶葉を渡され、わずかに戸惑いを見せた侍女に龍平は説明した。
そして、キルアンが侍女に頷いてみせる。
毒見のため一度下がるかを、キルアンの了承で必要なしと判断した侍女は、魔法で保温されていたポットのふたを開けた。
そして、そこに水差しから少量の水を足し、龍平が言ったとおりに温度を下げる。
だが、砂糖を入れないことに、侍女は本当にいいのかという視線をキルアンに送っていた。
キルアン自身も半信半疑ながら、龍平の言に従い無糖の茶を出すように目で命じていた。
――へぇ、そうなの? それは初耳ね。私はこちらに来て初めて緑茶を飲んだのだけど、それで少しぬるめだったわけね――
二〇〇年前のガルジアと、現在のセルニアしか知らないレフィは、お茶といえば紅茶だった。
実際、ガルジオン王国内で緑茶はそれほど普及していたわけではなく、ミッケルのような好奇心旺盛な貴族が好むくらいだ。
「これか……。召喚されたものとは、多少違うようだが?」
茶葉を蒸らす間、キルアンの下にアンパンがサーブされる。
芥子の種を表面に散らした見た目は、この世界に召喚されたアンパンとは異なっていた。
「はい。これも伝統的な形です。芥子の種を使用しました。どうぞ、お試しくださいませ」
きれいに四つ割りされたアンパンのひとつを、キルアンは取り上げて口に入れた。
キルアンの目が大きく開かれ、咀嚼し嚥下したのち、程良い熱さの煎茶で舌を洗い流した。
「驚きだな。今でもあのときのことを、鮮明に思い出すほどの味だ。クレイシア殿も喜んでいるだろう」
記憶の彼方にある味とどう比べたかは解らないが、キルアンから賛辞が送られた。
だが、龍平はキルアンの言葉に、げっそりとした表情を浮かべていた。
「ありがとうございます、閣下。ええ、そりゃもう、クレイシア様もお喜びになって……なんとかしてください」
龍平は、ブラック企業に勤める社畜が、月に一〇〇時間以上残業したときのような目でキルアンを見た。
思わずこぼしてしまったが、部屋付き侍女の前で話していいものか、戸惑いながら口を噤む。
「な、なにか、あったようだな。……そなた、しばらく席を外してくれ。なに、じきに済む。また呼ぶでな。さ、フレケリー卿、話してみなされ。力になれるかどうかは判らんが」
キルアンが部屋付き侍女に席を外すよう命じ、龍平に話を促した。
死んだ魚のような目で話し始めた龍平の横で、レフィは憤懣やるかたないといった態度でソファに座っていた。
アンパンの完成後、龍平はことが大きくならないように、クレイシアにアンパンをひとつだけ送っていた。
共同で完成させるはずだったが、公務を持ち専門の料理人を使えない者と、その逆をいく者の差が出てしまった。
クレイシアが公務の合間に小豆やダークレッドビーンズの加工を試している間に、龍平がさっさとフォルシティ家の料理人たちの協力で完成させてしまった。
完全にクレイシアは置いてけぼりにされ、神殿の権威が失墜するような大スキャンダルを巻き起こしかねない事態だ。
この世界で神殿は、魔法高科学院と並ぶ知恵と知識の象徴だ。
それが、設定上自分がどこの国に属しているか分からないような田舎者に、知恵も知識もあっさりと追い抜かれてしまったことになる。
龍平は現物を知っているだけのことなのだが、世間はそう見なさない。
龍平が賞賛されるだけならいいが、下手をすれば神殿の権威が失墜させたとして、クレイシアの立場まで危うくする可能性があった。
それを恐れた龍平は、まず完成を証明するためにアンパンをひとつだけ送った。
そして、神殿関係者に知られず善後策を練るために、フォルシティ家に来るよう依頼する。
それに応じたクレイシアは、すぐに飛んできた。
子連れで。
龍平誤召喚後の秋に結婚したクレイシアは、即妊娠、二六七日後に無事男児を出産していた。
結婚してはっちゃけたわけですな。
そりゃ、そうでしょ。
結婚適齢期が一五から十八って世界で、その期間を職務として処女を守らなきゃいけないんだもん。
神殿の中だけが世界じゃないし、当然外に友達もいるよね。
片っ端から友達が片づいていくなかで、処女が義務であるってことは当然恋愛も御法度で。
水面下でよく我慢したよね、旦那様も。
そりゃぁ、ふたりしてはっちゃけるわ。
ということで、すっ飛んできたクレイシアを出迎えた龍平とレフィの前には、一歳三ヶ月になるよちよち歩きの男の子が一緒にいた。
そのアクィルくんの身長は約八〇センチほどで、五〇センチのレフィより頭ひとつ大きい。
その姿を見たレフィが、一発で撃沈された。
母性が爆発したのか、クレイシアの滞在中はアクィルをずっとかまい続けていた。
もしかしたら、永遠に我が子を産めなくなったことへの、代償行為だったのかもしれない。
だが、悲しみより乳児への愛情が先に来る辺りは、男性より女性の方が強いのかもしれなかった。
ただし、生前のレフィ自身は結婚自体現実味がなく、子を産むこともまだ他人事だった。
これが結婚でもしていたら、また違う思いを抱いていたかもしれないが。
それにしても、小さな赤い龍が甲斐甲斐しく乳児をあやす姿は、微笑ましいものだった。
それはいい。
龍平とて、小さな子供はかわいいと思う。
身近に乳児がいなかったこともあり、接し方が解らないため、見ているだけならと但し書きがつくが。
そして、クレイシアが過去に召喚された物への意見を求めに来るのも、まだ許容範囲だ。
だが、子連れでの日参は、さすがに勘弁してほしかった。
壁になるはずのレフィも、アクィルにすっかり参ってしまったらしく、クレイシアの来訪を心待ちにしている始末だ。
クレイシアと楽しそうに談笑しながらアクィルと遊ぶ小さな赤い龍の姿を見ると、来るなとも言えなくなってしまう。
最近の龍平は朝から夕方まで、ミッケルの命を受けた執事たちから騎士としての振る舞いを習ったり、ミッケルに連れられて他の貴族との縁をつなぎに出かけている。
その合間にも、コンテナの補強についてレイナードと意見交換していたり、デルファの勉強を見たりと、なかなかに忙しい。
夕食もその日一日の反省会のような趣もあり、そのあとには肉体強化や時空魔法の研究も続けている。
現在の龍平にとって夕食前のひとときは、就寝前のひとときと並んで心身ともにリラックスできる貴重な時間だった。
クレイシアにしてみれば、龍平と過去の召喚物について意見交換を行ったあと、神殿にまた戻るのは効率が悪い。
これも公務の一環であるならば、神殿内での仕事を片づけたあとに、龍平を訪ねてから直帰すれば無駄がなくなる。
その辺りの事情も解るし、意見交換自体も楽しいのだが、さすがに疲れが溜まっている。
国家を背負う重圧に、寝ても覚めても曝され続けるキルアンからみれば些細なことかもしれないが、まだ社会経験に乏しい龍平には充分すぎるほど重荷になっていた。
「なかなかに、災難だのう。ま、しばらくの辛抱だ。それとなく神殿に伝えておこう」
その程度で音を上げるなとは、さすがにキルアンも言わなかった。
キルアンも龍平は知識こそあれ、まだ子供の域を出ていないことを理解している。
「ありがとうございます、閣下。いえ、来るなとは申しませんが、せめて三日に一度くらいにしていただければと……。お忙しいところ愚痴など聞かせてしまい、申し訳ございません」
話の流れとはいえ、国家の柱石たる人物相手に愚痴をこぼすなど、普通に考えてあり得ない。
龍平はキルアンに頭を下げた。
「よいよい。まあ、クレイシア殿も生真面目だしの。これまで何の手がかりもなかった物への解答が目の前にいるともなれば、目の色を変えるのもむべなるかなといったところか。そして、レフィ殿が男児をかわいがってくれるというのも、そなたらを訪ねる理由のひとつだろうて」
王城に勤める者たちとは違い、神殿の関係者は上流階級から下層階級まで、その出自は幅広い。
貴族や、赤い血であっても資産家など上流階級における子育ては、基本的に乳母や侍女、家庭教師に丸投げだ。
だが、下層階級は言うに及ばず、中層階級でも乳母を雇うには経済的な余裕がない。
そして、クレイシアも夫も、どちらも中層階級でも中程の出身だった。
そうなれば必然的にクレイシアは、現代日本でいうところの専業主婦になるはずだった。
しかし、組織として問題があるのだろうが、彼女は担う公務などが高度すぎて、余人を以て代えることのできない人物でもあった。
だが、それは現代日本の観点であって、この世界のこの時代には通用しない。
そして、ナルチアの暴走を止められるのは、先々代筆頭巫女の彼女をおいて他にはいなかった。
これらの理由から、クレイシアは出産を挟んで三ヶ月のいわゆる産休のみで、神殿に復帰していた。
アクィルを連れて。
婚家に育児中の女性がいれば、乳母役を頼むことができたかもしれないが、世の中そんな都合のいい話はそうそうなかった。
神官を息子に持つ舅姑は、それぞれの仕事の合間を見て協力してくれると言ったが、当然いつでもというわけにはいかない。
そして神官は結婚後も、神殿近くに起居しなければならず、現代日本の核家族と同じ状況だ。
仮に舅姑が泊まり込みで来てくれたとしても、人工のミルクなどまだないこの時代、授乳だけは如何ともしがたい。
そのうえ、どちらの実家も乳児を連れて徒歩で神殿に通うには、少々離れすぎていた。
当然だが、中層階級に毎日の馬車を手配する余裕などあるはずもなく、クレイシアと夫の俸給を合わせても、そこまでは無理だ。
結局、本来であれば離乳までは育児休暇のような形になるはずのところを、神殿の都合で復帰させることになってしまった。
神殿も育児には協力せざるを得ない状況ではあるが、それに専属の人員を割く余裕も雇う余裕もない。
そのためクレイシアは、たまに泊まり込みで応援に来てくれる舅姑があやしてくれているわずかな時間を除いて、丸一日中アクィルと過ごすことになっている。
つまり、かなりの育児ストレスを溜め込んでいた。
そんなとき、過去の召喚物にある程度とはいえ明確な回答を与えてくれる龍平と、クレイシアからアクィルを奪い取る勢いで面倒を見てくれるレフィが現れた。
一度は合わせる顔がないほどに悲しみと怒りを与えてしまったが、アンパンと何よりも龍平のパーソナリティで水に流してもらっている。
そうなってしまったら、寄りかからずにいられる人間など、いるだろうか。
いや、いない。
孫どころか、そろそろ曾孫がいてもおかしくないキルアンとしては、その苦労はつぶさに見てきたことだ。
同情的になることは、どうしても仕方のないことだった。
――あなた、そんなこと考えてたの? 意外と酷い人ね、リューヘーは。あんなかわいいのに、来るなってこと?――
不穏な空気をまとい、レフィが龍平をにらんでいた。
部屋の気温が、数度上がった気がする。
「何短絡思考になってんだよっ! なにも、来るななんて言ってねぇ。毎日は勘弁してくれってだけだ。どう接していいか、分かんないんだよ。あっちじゃ、俺ぁ、あんなちっちゃい子と遊んでやったことねぇんだからな。クレイシアさんが持ってくるものだってなぁ、使い方は分かっても作り方まで全部知ってるわけじゃねぇんだよ。この世界にまだないものを説明するってなぁ、すげえ疲れんだぜ。あ、閣下、御前で申し訳ございません」
アクィルのかわいさに、すっかりめろめろになっているレフィをなだめてはいるが、龍平は心底うんざりしたように言った。
キルアンは龍平の気持ちも分かるのか、柔和な目で受け止めている。
――何が、疲れる、よ。あの天使様みたいな笑顔見てたら、疲れなんて吹っ飛んじゃうわ。あなたは慈愛の心が足りないだけじゃないの?――
かわいいのは解る。
にこにこしながら、あーだのうーだのは何ともいえない。
手足の動きもまだ力一杯なところも、もうたまらない。
大泣きしているアクィルが、あやした瞬間に笑顔になるなど最高だ。
それは、龍平にしてもそう思う。
だが、ほぼ万能のお気楽龍と、一般人を一緒にしてほしくはなかった。
「その点は否定できねぇな。あっちで甥っ子だの姪っ子だのがいたり、自分に子がいりゃぁ、また違うんだろうけどな……。つうか、おまえいい加減しとけよ。閣下の御前なんだからさぁ……。それに会いたきゃ、クレイシアさんの家にでも行かせてもらえ。神殿での話し合いが済んだら、いつでも遊びに行けるだろうに」
いくらキルアンが許容しているからといって、いつまでも続けていいことではない。
龍平はクレイシアの暴走とレフィの迷走を、同時に止める手だてを口にした。
レフィをクレイシアの家なり話が済んだあとの神殿に送り込み、ベビーシッターのついでに過去の召喚物を持ち帰らせる。
期日を決めてたうえで龍平からレポートを提出し、それを元にディスカッションを行う。
それならば、解るものから片づけていけるので、クレイシアの来訪が無駄になることもない。
龍平にしてみても、地球の物を見ることは心理的な負担ではなく、安定をもたらしてくれることに気づいていた。
ディスカッション自体は楽しんでいるし、慣れていないだけで嫌いではない。
そのうち、公的な研究会にして、魔法高科学院も巻き込みたいと、龍平は考えていた。
――その手があったわねっ! リューヘー、あなたやっぱり、ときどき頭いいわね。閣下、御前にて失礼をいたしました。どうか、ご寛恕を。さ、リューヘー、謁見の後、すぐ神殿に文を出してちょうだい――
レフィの態度が、ころっと変わる。
すでに心ここに在らずと言った趣だ。
「おい。今日は謁見も大事だけど、そのあとのおまえのお披露目が一番大事なんだぞ。それを忘れんなよ? それから、いつも言ってるだろう? 俺はときどきじゃなく、いつでも頭いい。ただ、よく間違うだけだって」
小さな赤い龍を見慣れていても、龍騎サイズを見ただけでパニックを起こしたハミルの例もある。
ならばさっさと正体を明かしてしまえばいいという考えが、龍平にはあった。
これでレフィがガルジアの人々に認知されるなら、コンテナの飛行実験も遠慮なくできる。
そして、レフィが自由にガルジアの町に出ることも、また可能になる。
そうなれば、いつでもアクィルに会いに、神殿だろうとクレイシアの家だろうと行き放題だ。
龍平としては、いつまでも自分につきっきりではなく、レフィとティランにも自由であってほしい。
キルアンのふたりを見る目が、優しくなっていた。




