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転生龍は人と暮らす  作者: くらいさおら
第三章 王都ガルジア
50/98

50.デルファの悲劇

 木枯らしが吹いているが、陽射しは穏やかな冬の午後、フォルシティ家の屋敷から少女の悲鳴が聞こえてきた。

 哀れな犠牲者は、ひとり娘のデルファだった。


「もう、いやっ! こんなの覚えらんないっ! リューヘー様のオーガっ! 悪魔っ!」


 この世界の数字に書き直された九九の表を前に、デルファはすっかり涙目になっていた。

 その横では、本来なら仕事を免除されて喜ぶべきはずのふたりの侍女が、同じように涙を浮かべて机に突っ伏している。


「大丈夫ですよ。こんなのリズムです。さあ、もう一回」


 デルファの泣き言にはいっさい耳を貸さず、龍平は九九の唱和を再開させる。

 デルファは文句を言いたそうにしていたが、それでも父の言いつけを守り、龍平の言葉に従った。


 九九はひたすら暗記するしかない。

 たとえば、2×3=6は、二が三つあるから2+2+2=6を2×3=6と認識するのではなく、日本語でいえば二、三が六と覚えるしかない。


 無理に理屈づけするより、ありのままに受け入れなければ、結局は指折り数えながら足し算を繰り返すだけになってしまう。

 これを覚えてしまえば、割り算もマスターしたも同然になる。分数の割り算は除くが。


「デルファ様。全部覚えたら、ご褒美を差し上げましょう」


 やはり目の前にニンジンがぶら下がっていたほうが、人はやる気を出す。

 このままではモチベーションが上がらないと判断した龍平は、懐から財布を取り出した。


「ふぇ? なんですの、リューヘー様?」


 ご褒美のひと言に、デルファの目が輝いた。

 やはり、貴族の家の跡取りとはいえ、まだ一二歳の子供だった。


「これです。九九をすべて覚えきったら、これを差し上げましょう」


 龍平は財布から一円玉と五円玉を出し、テーブルに並べた。

 デルファの目がまん丸に見開かれ、いつかのミッケルのような反応を見せている。


「リュ、リュ、リュー、ヘー、様……こ、これ、これ、ミスリル……? オリ……ハ……ル……コン?」


 デルファが放心状態に陥った。

 よほどショックが大きかったのだろうか、目の焦点が合っていない。


 ふと見れば、フロイとソラまで放心状態になっている。

 さすがにジゼルはそこまでいかないが、それでもあり得ないといった表情で、龍平とコインを見比べていた。



「残念ながら、ミスリルでもオリハルコンでもありません」


 放心したまま固まるデルファの目の前で、手をひらひら動かしながら龍平はネタばらしを始める。

 以前、ミッケルに説明した内容を、龍平は再び話した。


「リューヘー様は、やっぱりオーガか悪魔です。私、心の臓が止まるかと思うほど驚いてしまいました」


 半分以上涙目のデルファが、かわいらしく口を尖らせた。

 高科学院に秘蔵され、まず人目には触れることがない貴重な金属が目の前に現れただけでも、デルファの驚きは相当のものだった。


 そして、それが無造作に取り出され、その上信じられないほど精確な真円に形取られていた。

 さらにあり得ないほど精緻な刻印までなされている。


 たとえミスリルとオリハルコンではないとしても、その技術は瞠目に値する。

 デルファの常識が、一瞬崩壊していた。


 やっと再起動してネタばらしを聞いたデルファだが、このふたつのコインの価値が銅貨以下と知り、また驚かされていた。

 いったい、龍平の住んでいた国はどれほど非常識なのか、叶うことなら行ってみたいとデルファは願うようになっていた。



 もちろん、フロイとソラの驚きも、生半可なものではなかった。

 だが、仕事に対する心付けなからともかく、学問を教わった上にご褒美などあり得ないと思っている分、ショックは少なかったようだった。


「こんな複雑なかけ算なんて、計算尺使えばいいじゃないですかぁ……」


 再起動後も、二桁同士のかけ算をしこたま解かされているフロイから、怨嗟の声が上がった。


「だめです。数計は慣れです。あとは繰り返しです。便利なものを使えば使うほど、それに頼って頭の回転が鈍くなるだけです。皆さんにも、ちゃんと差し上げますから、がんばってくださいね」


 フロイの泣き言をあっさりと受け流し、目の前にニンジンをぶら下げる。

 一瞬目を見開いたフロイが、瞳を爆発させたかのように輝かせ、かぶりつくように計算を再開させた。


 某学習塾方式ではないが、計算は筆算をひたすら繰り返して慣れるしかない。

 スマホの電卓に慣れていた頃より、間違いなく今の方が速く暗算できる自信が龍平はあった。


「割り算って身構えてましたけど、ひたすらかけ算の積み重ねなんですね……。はぁ、でも面倒……」


 一気にモチベーションを上げたソラは、ひたすら割り算の縦書き筆算に取り組んでいた。

 これも九九をマスターしていなければ、なかなか理解できない仕組みになっている。


 商家に生まれたせいか、幼い頃から数字になれていたソラは、以外と早くに九九の利便性に気づいていた。

 まだすべてを暗記したわけではないが、基本的には暗算で、怪しくなると表で確認しながら、割り算の筆算を繰り返しといている。


 フロイが龍平と同じ一七歳。ソラは一五歳。

 やはり年が若いほど、柔軟に新しい知識を吸収していくようだった。


 そして、楽しげに因数分解の式を解いているジゼルは、二〇代半ば既婚と教えられていた。

 ふたり曰く、ジゼルとタエニア、エヴェリナの三人は、規格外らしい。



「リューヘー様、なかなか楽しゅうございますが、そろそろ休憩にされませんと、デルファ様がお壊れになります」


 気づけば頭から湯気を上げそうな顔で呆けているデルファを見ながら、ジゼルは竹製のペンを置いた。

 やはり、モチベーションが上がっても、処理能力まで劇的に上がるわけではないようだ。


 ジゼルは粘土板を龍平に渡しながら、サイドボードのお茶を支度し始める。

 それを見たフロイとソラが、ほっとしたような表情で粘土板を置き、ジゼルを手伝い始めた。


 貴族とはいえ、さすがに計算用紙として紙を大盤振る舞いはできない。

 製紙技術は確立しているが、既得権益が複雑に絡み合い、今のところ大量生産には至っていないからだ。


 龍平も製紙の知識はあるが、均一な製品を作り出せる道具までは分からなかった。

 たしかに和紙もどきなら作ることは可能だが、その程度であれば既にこの世界では生産されている。


 あとは材料を吟味して、さらに上質な紙を作るくらいしか思いつかない。

 それでは上流階級の趣味程度の需要しかなく、放っておいてもこの世界の職人が技術を高めていくはずだった。


 龍平は、つくづく現代知識の複雑さを、今さらながらに思い知らされていた。

 あまりにも複雑に絡み合いすぎ、ひとつのものを作り出すためには、恐ろしいほど大量の知識と技術の蓄積が必要だと、改めて思い知らされていた。




――リューヘー、フォルシティ卿がお呼びよ。一段落ついたなら、執務室まで行きなさい。あ、お茶なら飲んでからで構わないわ――


 ノックの音とともに、レフィが入ってくる。

 朝から姿を見ないと思っていたが、算数の勉強から逃げていたらしい。


「おまえ、いままでどこにいやがった? 逃げたろ?」


 龍平は冷ややかな目でにらみながら、レフィを問いつめる。

 それでも、自分に関わる仕事をしていたのだから、本気で責める気はなかった。


――あ、あなたは、な、な、なにを、い、言ってるの、かしら? に、逃げた、なんて、ひ、人聞きの悪い――


 いきなりしどろもどろですな、トカゲ姫。

 やましいところがないなら、堂々となさいませ。


「あとでプリント増やしておくから。で、執務室だな? デルファ様、フロイさん、ソラさん、戻ったら答え合わせしますから、今のうちに見直ししてくださいね」


 そう皆に伝え、龍平はカップを干し、ジゼルに礼を言ってから部屋を出る。

 横を飛んでいるレフィは、目の前に迫るプリントから逃避してきたようだった。




――卿、よろしいかしら? リューヘーを連れてきたわ――


 精緻な木工細工が施された扉をノックし、レフィが来意を告げる。

 ほどなくして、中から入室を促す声が聞こえてきた。


「失礼します、ミッケル様。ご用がおありと伺いましたが」


 入室してから一礼し、龍平はソファの脇に立つ。

 今し方算数と数学をやっていたせいか、高校受験の際に指導された、面接の練習を思い出していた。


「ああ、まずは礼を言わせてもらおうか。デルファの指導、ありがとう。まあ、かけたまえ」


 龍平とレフィに着席を勧め、ミッケルは深々とソファに腰を下ろした。

 間髪を入れず、タエニアがティーカップを三人の前に置く。


 勧められるままにひと口喉を潤した龍平は、ミッケルの礼に軽く頭を下げる。

 改めて三人が向き合ったところで、ミッケルが口を開いた。


「叙爵式だが、明後日と決まった。準備は万全かね?」


 すっかり頭から抜け落ちていた話に、危うく龍平はお茶を吹くところだった。

 レフィの算数特訓より先に、叙爵式の特訓をやらなければならない状況だ。


――大丈夫ですわ、卿。フレケリー卿は私たちの学習を見られるほど余裕があるようですわ――


 このときのレフィがにやっとした目を、龍平は二日くらい忘れなかった。

 絶対仕返しを考えてるよね、トカゲ姫。



「てめぇ……ここぞとばかりに……」


 喉の奥で、小さくレフィを罵る。

 もちろん、ミッケルにも丸聞こえだ。


「どうかしたかね? まあ、言われたとおりに動いて、宣誓するだけだから、たいしたことはなかろう」


 薄く笑みを浮かべながら、ミッケルは言った。

 実際には介添え人が、逐一耳打ちしてくれるはずだ。


 王国も、龍平がこの世界に疎いことは、承知している。

 ひとびとの前で笑い物にしたところで、文化の違いも分からない思い上がりを後ろ指差されるだけだ。


 愚かな陰口を叩く莫迦はどこにでもいるだろうが、そのような者はそれが自分の首を絞めることに気づいていない。

 ことあるごとの炙り出しが、今回も行われるだけのことだった。


「いえ、たとえば、歩き出すときは右足からとか、戻るときは回れ右なのか、左なのかとかですね」


 小学校以来、体育の授業や朝礼の度に繰り返され、身体に叩き込まれた行進や集団行動の基礎を龍平は思い出している。

 さすがに軍隊ほどではないが、整然と行進する子供の群は、外から見てみると一種異様な光景かもしれなかった。


「なんだね、それは? 君の国では、いったいいくつのときから軍事教練など行っているのかね? まあ、神事ならともかく、まだ若い騎士相手に、そのような細かい決まり事などないから安心したまえ。だが、その号令には興味があるな。あとでゆっくり教えてくれたまえ」


 やはり、気づく者は気づく。

 号令一下、部隊が一糸乱れぬ進軍をするだけで、相手には相当の威圧感を与える。


 そして、何より重要な点は、方向転換や前進停止を巧みに行うことではない。

 指揮官の命令に、疑問すら持たずに従う兵が完成することだ。


 繰り返し行われる単純な命令の連続に、兵は考えることを放棄し、命令にひたすら従うだけになる。

 戦場において、命令に従わない兵ほど危険な存在はないからだ。


「はい。それは構いませんが……。ミッケル様のお話で、かなり気が楽になりました。失敗してもいいとは思っていませんが、ガチガチに決められてないなら、なんとかなりそうです」


 だいたい、中学校の卒業式で証書の授与ですら、礼の方向や順序に迷うほどだった。

 物覚えが悪いのではなく、極度に緊張に弱いだけだったが。



――リューヘー、デルファ様に九九を暗唱させてるのだから、あなたはまず見本を見せるべきではないかしら?――


 ほっとしたような龍平に、レフィが軽く試験を課した。

 いくら介添え人がつくからといって、頼りきりでは情けない。


「う……。じゃあ、ちょっと待ってくれ。一回だけ、メモを見させてくれ」


 そう言うなり、龍平は退出の許可を取り、あてがわれた自室に向かった。

 テーブルにまとめて置かれたメモ束から、宣誓の言葉が書かれた羊皮紙を引き抜くと、またミッケルの執務室へと戻っていった。



「我ら領主は、ひとりひとりは弱きは必定。なれど力を合わさば、難敵をも撃ち破らん。その力に溺れることなく、裏切ることなく、欺くことなく。常に弱者に優しく、強者に勇ましく。民を守る盾となり、主の敵を討つ剣となり、正しく強き力として、我らの誇りを守らん」


 何度もメモを見直しながら独り言のように呟き、そして龍平は諳んじてみせた。

 ミッケルは、満足そうな表情を浮かべている。


「うむ。リューヘー君、いい宣誓だ。誰も文句のつけようのない内容だな。そこまで盛り込んであるとは、いや、感心させられたよ。デルファにも覚えさせよう。文面は、殿下の発案かね?」


 聞こえてはいけないような気がする言葉が、聞こえてきたような気がした。

 文面は殿下の発案?


「えっと、どういうことでしょうか、ミッケル様?」


 ことと次第によっては、トカゲをシメる。

 そう決意して、龍平はミッケルに尋ねた。


「私のときは、我らは、ひとりひとりは弱きは必定。なれど力を合わさば、難敵をも撃ち破らん。国の礎となりて、正しく強き力として、我らの誇りを守らん。だ。最初と最後は定型で、間に決意をひと言入れるくらいが普通だな」


 ミッケルの宣誓を聞いた龍平が、壊れかけの絡繰り人形のように振り向いた。

 だが、そこには既にレフィの姿はなく、ドアがほんの少しだけ開いたままになっていた。


「あんの……トカゲぇぇぇ……。あとで、ぜぇぇったい、シメちゃる……」


 担がれたことにようやく気づいた龍平が、獣のような唸りを上げる。

 ミッケルの笑い声が、執務室に響いた。




「まあ、そのあたりにしておきたまえ。実際、なかなかいい宣誓だと、私には思えるがな。たいていは、しくじらないようにと、短くまとめるものだ。私のようにな。明後日は、居並ぶ貴族どもの度肝を抜いてやりたまえ」


 笑いすぎたのか、ミッケルは目尻を指で拭っていた。

 タエニアに至っては、肩を震わせて笑いをこらえている。


「ありがとうございます。では、明後日ですね。私は、今すぐトカゲ狩りに行かなければなりませんので、これで失礼させていただいてもよろしいでしょうか」


 努めて冷静を装い、龍平は一礼する。

 タエニアが痙攣し始めた。


「ああ。用向きはそれだけだ。明後日まで、ゆっくりしたまえ。ま、トカゲ狩りとやらは、程々に、な」


 苦笑いを浮かべ、ミッケルは頷いた。

 タエニアは顔を両手で覆っているが、指の間から忍び笑いが漏れ始めている。


「では、これにて」


 短く応え、龍平はミッケルの執務室を出た。

 デルファたちが待つ部屋までの、長い廊下を歩く龍平の歩幅が、一歩ごとに大きくなっていく。

 小走りに廊下を駆け抜けた龍平は部屋のドアを開け、そこでレフィの姿を見つけた。




「てめぇ、この、ド腐れトカゲぇっ! ミッケル様にほめられたじゃねぇかぁっ!」


 怒号とともに、龍平は助走を開始する。


――え、なに? ほめられたなら……――


 レフィか戸惑いながら、聞き返す。

 龍平はそんなことお構いなしに狙いを定め、思いの丈を叫びながら床を蹴った。


「ありがとうございますっ!」


 いきなりの助走に一瞬固まったレフィに、龍平の跳び膝蹴りが炸裂する。


――きゃあっ!――


 不意を衝かれたレフィが、龍平の膝に弾かれて放物線を描く。

 だが、壁に激突する寸前で身体を一回転させ、宙にホバリングした。


 もちろん、龍平は膝頭を突き立てたわけではない。

 膝の外側、どちらかといえば、すねの外側をレフィに打ち当てていた。


――なにすんのよっ! 淑女を足蹴にっ! どこの野蛮人よっ! ほめられたならいいじゃないのっ!――


 態勢を立て直したレフィが、一気に間合いを詰めて尻尾を打ち下ろす。

 しかし、龍平は肉体強化した右の二の腕で、その一撃を受け止めた。


 そして、尻尾を掴んで振り上げ、レフィを床に叩きつける。

 鈍い衝撃音が、部屋に響いた。


 ややあって、レフィは無言のまま、マズルをさすりながら起きあがる。

 起き上がったレフィは龍平を見上げ、床を蹴って跳びかかっていく。


 突然の乱闘に、デルファが呆気にとられている。

 フロイもソラも、どうしていいか分からず、ただ見ているだけだ。


「うるせぇっ! よけいな手間とらせやがって! おまえを信じてみればこのざまだっ! そのひねくれた根性! 叩き直してやるっ!」


 レフィの突進を受け止めた龍平が、マズルを掴み締めにかかる。

 尻尾が首に巻き付いてきても、構わず右の掌でレフィのマズルを握り締めた。


 三人が固まる中、ジゼルだけは笑みを浮かべていた。

 ジゼルには、仲のいい姉弟がじゃれ合っているようにしか見えなかった。


――ん~っ! ぷあっ! はにゃひにゃひゃいっ! んんんんっ! ふごっ! どこにっ! 指っ! んんんんんっっっ!――


 首を絞められているお返しに、龍平はレフィの鼻の穴に指を突っ込んだ。

 互いに窒息を狙う掴み合いは、女の子相手の禁じ手を見かねたデルファが止めに入るまで、楽しそうに続いていた。




「それではデルファ様、課題の追加です」


 レフィと引き剥がされた龍平が、半ば八つ当たりでデルファに宣告する。

 早くもミッケルの提案に乗るつもりだった。


「リューヘー様の、オーガっ! 悪魔っ! これ以上増やされたら、私もう壊れちゃいますぅっ!」


 デルファは思わず抗議の声を上げるが、龍平が耳を貸すことはなかった。

 恨むならこいつを恨めとばかりにレフィをにらみながら、龍平は言葉を続ける。


「明後日、私の叙爵式での宣誓文を一緒に覚えていただきます。これはお父上からのお言いつけですので。それから、文章を考えたのはこいつです。お恨らみになるなら、こいつをお恨みください」


 龍平は冷徹に言い放ち、宣誓文を諳んじてみせる。

 原稿の写しをジゼルに命じられたフロイとソラは、完全に巻き添えだった。

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