35.セルニア激震
セルニアン辺境伯バーラム・デ・ワーデビットの居城は、今までにない慌ただしさに包まれていた。
多くのひとびとが行き交うが、まるで戦争前夜のように殺気立っている。
それに反して領主執務室の扉は固く閉ざされ、人の出入りはほとんどない。
控えの間にたむろする陪臣たちは、領主がどのような考えを持っているのか、知りたくて仕方がなかった。
茶菓の給仕に訪れる侍女や執事を捕まえては、バーラムの様子を聞き出そうとするが、その答えを持つ者は皆無だった。
陪臣たちの間に、言いようのない不安感が広がっていった。
ネイピア卿襲撃さるの報に接し、普段は領地に帰っている陪臣までが、急遽召集されている。
その慌ただしさが、より不安を掻き立てていた。
「間違いないな? 苦し紛れではないだろうな? くどいようだが、ひとつ間違えれば、取り返しのつかないことになるぞ」
バーラムの声が、珍しく苦渋にまみれていた。
聞きたくない報告に、間違いであってほしいという願望が見え隠れする。
だが、領主という立場で鍛え抜かれた精神は、苦境から逃げることを許さなかった。
それでも、敢えてもう一度聞き返さずにはいられないほど、あげられた報告は信じたくない内容だった。
「はい。信じたくはございませんが、間違いなく。お館様、ご決断を。辺境伯家の存亡に関わります」
辺境伯家陪臣筆頭を務めるジョエル・デ・ガーザが、沈痛な面持ちで言上する。
彼にしても、今回のことは予想外のことだった。
ここしばらくのことでひと悶着あるとは覚悟していたが、まさかこのような手に出るとは、考えもしなかった。
一歩間違えれば、いや間違えなくとも、セルニアン辺境伯領が大混乱に陥っていたかもしれなかった。
ジョエルは、静かに怒っていた。
「そうか。やむを得んか。……。カスリーを呼べ。それから、領地に……そなたに任せてよいな?」
バーラムは深呼吸をひとつして、すべてを飲み込んで決断した。
そして、譜代の陪臣の中でも最古参のひとつである、ソルホン家当主の名を告げる。
「委細承知仕りました。では、私は手配に参ります。あの殺戮の中、首謀者一味に生存者がいたことは、僥倖でしたな」
怒りを内に静め、ジョエルが答える。
呼ばれた者がどうなるか、彼には興味はない。
だが、これから赴く先でのことが、さらに怒りを深くさせていた。
「ああ。まさか、な。彼奴はやりすぎた。まあ、解らんでもないが、此度の件はセルニアン、ひいては王国に弓引くも同然。やむを得まい」
バーラムの目に、怒りの炎が灯っていた。
反逆者は一切の仮借なく、滅ぼさなければならなかった。
「お館様、お呼びとのことですが」
カスリー・デ・ホルソンが入室してきた。
どこか晴れ晴れとしたような、諦めきったような、透徹とした空気をまとっている。
「なんだ、解っているみたいだな。ならば、話は早い。死ね」
まるで世間話でも、するかのように。
旧来の友人が、他愛もない話でもするかのように。
バーラムが宣告した。
「仕方ありませんな。我が家の嫁にいただけるものと信じておりましたが、ああなっては、どうにも」
頭を掻きながら、カスリーは答えた。
秘密裏にことを運ぶつもりだったが、明るみに出ては仕方がない。
「そうか。最後にふたつ、聞きたいことがある」
有力者との婚姻を妨害されて、おとなしく引き下がるようでは、小さな村とはいえ領主など務まらない。
ケイリーに手を出したことについて、バーラムは咎める気はなかった。
それは、たとえセルニアン辺境伯家の力を使おうと、ケイリー自身がどうにかしなければならないことだ。
だが、バーラムにとって許し難いことは、ふたつあった。
「まず、ひとつ。賊どもは彼の侍女やウチの侍女だけでなく、アミアも狙っていたらしい」
バーラムの表情が一転し、怒りに赤く染まった。
カスリーの表情も一転し、怯えか驚愕か判らないが、蒼く染まる。
「そして、もうひとつ」
たっぷりと時間をかけ、カスリーの顔色を観察したバーラムが続ける。
「なぜ、カナルロクと通じた?」
カスリーの表情が、今度は驚愕と怒りで朱に染め上げられた。
「そんなことはしていないっ! あの女は流れの冒険者だっ! 裏は取った! 第一、そんなことをしたら、私が破滅だ! 私は、この領地を奪おうなど、考えたこともないっ! ただ、アミア様を倅の嫁にと……それだけを……」
引き立てられていくカスリーを見送るバーラムの目には、暗い怒りの炎が燃え上がっていた。
領主館の門前広場に、黒山のひとだかりができている。
誰もがこれから起きることを、心待ちにしていた。
やがて、バーラムをはじめとしたワーデビット家の面々が、広場に現れる。
その中には、すでに家族として認められた、ネイピア卿ケイリー・デ・アンソンの姿もあった。
次いで首と腰に縄を打たれたカスリーを先頭にして、一〇余名に上るホルソン家縁のひとびとが、ワーデビット家の家令に引きずられるようにして現れる。
その中には、年端もいかない子供まで含まれていた。
黒山の人だかりから、どよめきが沸き上がった。
この日、罪人の処刑があることは皆知っていたが、誰とまでは当然知らなかった。
それが領都でもそれなりに知名度があるホルソン家一族ともなれば、ひとびとの間に驚愕が溢れても仕方のないことだ。
そして、年端もいかない子供までが連座していることで、その罪状の深さも想像できる。
それがまたひとびとに、大きな驚愕をもたらしていた。
大衆が一堂に会して熱狂できる娯楽が極端に少ないこの時代、罪人の処刑は非日常を演出する最大級の娯楽となっている。
日々の鬱屈した鬱憤を罪人に叩きつけ、その無惨な死にカタルシスを感じる。
これを悪趣味とは、現代日本の倫理を以てしても、一概に言い切れないだろう。
他人の不幸は密の味は、どの世界、どの文化圏、どの国、どの時代にも存在する。
ホルソン家の誰もが諦めきった目で、群衆を眺めていた。
これから我が身に起こることも、そこから逃れる術などないことも理解した、諦念が漂った目だった。
彼らの上には、二本の頑丈な柱に支えられた、太い梁が横たわっている。
たとえ、数頭の牛が吊されても、びくともしないような太い木材だった。
セルニアン辺境伯バーラム・デ・ワーデビットが、ゆっくりと立ち上がった。
そして、家令から一枚の羊皮紙を受け取り、読み上げる。
「カスリー・デ・ホルソン。この者、カナルロクに内通し、セルニアン、ひいてはガルジオン王国に弓引いた者なり。よって、一族郎党死罪に処す。ただし、長年の功績に免じ、罪一等を減じ、縛り首とする」
バーラムが淡々と読み上げ、着席すると同時に歓声が上がる。
広場を埋め尽くす歓声の中、ホルソン家の面々に新たな縄が打たれた。
梁から吊り下げられた、縛り首用の太い縄だ。
ワーデビット家の下級使用人たちが、ホルソン家一族が立たされている台座に手をかけている。
歓声が一瞬止み、広場を静寂が支配した。
次の瞬間、ホルソン家の一族郎党が、太い梁に吊り下げられる。
広場に、この日最大の歓声が響き渡った。
ホルソン家処刑の翌日、龍平は領主館前の広場で絶句していた。
目の前に奇妙な果実がぶら下がっているが、心は現実を拒否している。
「なんだよ、これ。……なんなんだよっ! なんで、こんな小さい子まで……どうしてだよっ!」
早くも腐敗臭を放ち始めたいくつもの死体の前で、龍平は自身の感情を制御できなくなっている。
ましてや、慰労の宴席で言葉を交わした者が、その中に含まれているとなれば、なおさらだった。
――あなたは何をうろたえているのかしら? まさか、ホルソン家の子供を処刑したことではないわよね?――
信じられないほど冷静なレフィの言葉が、さらに龍平の心を打ちのめす。
きっとレフィなら共感してくれるはずと思っていた龍平は、まさに裏切られたような思いだった。
「そうだよっ! なんで、あんな年端もいかない子供まで、殺さなきゃいけないんだよ! あの子も! あの子だって! 誰かを傷つけたわけじゃないだろ!」
現代日本に生きている者であれば、当たり前すぎるほど当たり前な感情だ。
だが、レフィからは、理解の範疇を超えた答えが返される。
――領主に弓を引いた家がどうなるか、これはどこも変わらないわ。当たり前でしょう? 処断が軽ければ、次に託すもの。それに乗じる家が出たら、どうするのかしら? ましてや、彼らは武力を持っているのよ。あなたのいた成熟した世界じゃないの。ここは――
レフィが言っていることを、理解することはできる。
だが、納得し、それを常識として受け入れることに、龍平は強い忌避感がある。
「たった、それだけ? それだけのことで? 託すものって決めつけて? ふざけんなよっ! たったそれだけのことでっ! 罪もない人を殺すのかっ! クソだっ! クソみてぇな世界だ、ここはっ!」
龍平の怒りが裂けた。
理不尽としか思えないこの世界の常識に、現代日本に育った者の常識が真っ向からぶつかっている。
――罪もない? あるじゃない。当主が謀反を企てた。これ以上の罪があって? 甘い顔して裏切られて、もっとむごい殺され方をした領主なんて、いくらでもいるの。そんなこと、許せないでしょ? だから、こうしなきゃだめなの。解って? 酷い世界なの、ここは――
龍平は、返す言葉もなく押し黙る。
現代日本で培われてきた常識や良識、倫理や人権意識といったものが、音を立てて崩れていくのが解った。
――あなたがこんな世界に連れてこられてしまったことは、とてもとても気の毒だと思ってるの。でも、あなたはいつか還らなければならないわ。そのときまで、私はあなたを死なせたくない。だから、納得しがたいのは承知の上でお願いするの。この世界の常識を受け入れて――
一瞬、エメラルドの瞳が、悲しそうに潤む。
だが、すぐに憂いは消え失せ、強い光を取り戻していた。
龍平は言い募ることをやめている。
自身を無理矢理納得させなければ、心のバランスが取れそうもない。
そして、納得できなければ、この世界では生きられないことも理解している。
龍平は押し黙ることで、抗議の意を示していた。
セルニア冒険者互助会、通称冒険者ギルドの事務所は、慌ただしく出入りするひとびとが引きも切らさぬ状況になっている。
ホルソン家一族の処刑に先立ち、領主からとんでもない通達が飛び込んでいた。
ワーデビット家二の姫の婚約者である、ネイピア卿ケイリー・デ・アンソン暗殺未遂事件。
その首謀者がよりにもよって、セルニア冒険者ギルドの所属をほのめかす発言をしていたという。
もちろん、それが悪質な語りであることも同時に伝えられていたが、冒険者が荷担していたことは間違いないとも伝えられている。
もはや、誤解どうこうではなく、ギルドの存亡に関わる事態に発展していた。
カスリー・デ・ホルソンが接触していた冒険者が女性で、王都から流れてきたパーティの一員だということまでは調べがついていた。
だが、そのパーティの素性に関する情報が、ほとんど判っていない。
正式な所属はガルジオン王国王都ガルジア冒険者互助会になっているが、構成員の出自が龍平のように名も判らぬ山奥であったり不明とされている。
ガルジアでの実績が登録時からしばらくの間しかなく、割のいい仕事を求めてか、魔獣が多い辺境の地での活動がメインだった。
過去にガルジオン王国以外でも活動していたことは判っているが、その詳細まではまだ不明のままだ。
ワーデビット家からもたらされたカナルロクとの接点も、その頃のことではないかといった予想の範疇でしかない。
なにより、聞き取り調査を行おうにも、パーティそのものが行方知れずになっていた。
手すきの職員だけでなく、腕利きの所属冒険者に秘密裏に指名依頼を出してその行方を追っている最中だった。
そして、ホルソン家一族の処刑から一〇日が過ぎた今日、衝撃的な報告がもたらされた。
スラムの聞き取りに赴いていた冒険者が、首から上を切り取られた女性の全裸死体を発見してきた。
その死体は、裏路地に筵に巻かれて打ち捨てられていた。
酷い腐敗臭に気づいた住人が、冒険者に報告したことで発見されたものだった。
ギルドの職員や、彼のパーティと交流を持っていた冒険者たちが腐敗臭を堪えて実検した。
そして彼らからは、行方不明になった女性に似通った背格好だとの証言が集まっていた。
ケイリー暗殺の黒幕をたぐり寄せるための糸が、ぷっつりと切れてしまった。
そればかりでなく、他のパーティ構成員までもが、狩り場で全員が惨殺死体で発見されていた。
彼らの死だけを取り上げれば、不幸な事件の連鎖でしかないが、ことがことだけに裏側に潜む悪意が透けて見える。
メンツを叩き潰され、虚仮にされたセルニア冒険者ギルドは、その黒幕への復讐を誓っていた。
「レフィ様、リューヘー様はどうされたのでしょうか?」
龍平たちが逗留している宿に併設された酒場で、ウエイトレスのアーリが膝の上にいるレフィに尋ねる。
ここしばらくで、小さな赤い龍は宿と酒場のアイドルと化していた。
言葉遣いこそ客に対する丁寧な物言いだが、アーリの手にはレフィの大好物を刺したフォークが握られている。
片手でレフィの尻尾を弄びながら、アーリはレフィの口元にフォークを差しだした。
――処刑された遺体を見て以来、何かくるものがあったみたいよ――
旨そうに肉を噛みしめ、嚥下してからレフィが答える。
この場で元公爵家令嬢の立場を振りかざす気などないレフィは、ティランのことも考えてか龍平のペットの立場を貫いていた。
「リューヘー様はお優しいのですね。私には、ただ罪人を処刑したとしか思えないのですが、やはり子供まで含まれていたことでしょうか?」
アーリに、龍平を小馬鹿にする意図は、決してない。
だが、その目には珍獣を見るような色が浮かんでいたことは、否定できなかった。
珍獣ならその最たる存在が、目の前で肉にかじりついてるけどな。
「う~ん、まあ、いろいろと納得しがたいことも、なんとか理解するようにしてんだけどさ。ただ、どうしても解んないんだよ。なんで小さな子まで、いや、あの家族、小さな子を逃がさなかったのかなあって」
アルコール度が低く、甘くて飲みやすいミードを片手に、龍平が疑問を口にする。
逃げたところで、草の根分けても探しだすだろうとは思うが、それでもそう思わずにはいられなかった。
すべてを捨てての逃避行は、それまでの暮らしに慣れた子供にはつらいだろうが、死ぬよりはマシなはずだ。
だが、従容として罪に服した子供の姿に、龍平は理解しがたい心情を見ていた。
「逃げるも何も、ご領主様の顔に泥を塗り、どうして生きていられましょう。それを許す者もおりますまい」
言いたいことは解る気もするが、それは盲従なのではないかと、龍平は思う。
居住の自由が認められなかった江戸期やそれ以前の農民ですら、領主や代官の暴政から逃散することは黙認されていた。
もちろん、見つかればただでは済まないが、それでも努力する自由は死と隣り合わせで認められていた。
何か手はなかったのかと、口出しできない他人事な上、今さらながらに龍平は思い悩んでいる。
「生きてりゃ、いつか何とかなるかもしれないじゃないですか。今は身を隠すなり、他の領地へ逃げるなりすれば」
やはり、現代日本の思考から逃れられない龍平は、言い募らずにはいられない。
もう終わってしまったことで、龍平個人にどうこうできることでもないが、やはり理解できないところだった。
「我々庶民ならそれもできましょうが、あの方たちはそれをよしとできないのです」
アーリが、きっぱりと言い切った。
この世界、この時代に生きる者にとって、貴族とはそういった生き物なのだという常識が見て取れた。
「そういうもんなのかなぁ。……そういうもんなんだろうなぁ……。……俺には理解できないや、やっぱり」
カップに残ったミードを飲み干し、龍平は小さく呟いた。
どうあってもこの世界は、現代日本の常識とは相容れない部分がある。
それを騒ぎ立てても、誰ひとりとして耳を貸さないことは、今日までに思い知らされていた。
そして今、完全にとどめを刺された格好だった。
――何度も言うけど、飲み込みなさい。この世界から生きて還るために――
アーリには分からないように、レフィは龍平のみに念話を飛ばす。
龍平が、小さく頷いた。
「これで終わり、というわけには参りませんな。カナルロクの関与が確定している以上、王都へ報告せねばなりますまいが……」
深夜、バーラムの執務室で、ジョエルは蒸留酒で喉を灼きながら言った。
だが、普段は旨いと思って飲む酒が、今夜はただひたすらに苦く感じられる。
「報告は、当然だ。だが、王都は動かん。カナルロクに抗議しても、跳ね返りが独断で動いただけと、逃げられて終わりだ。関係者の処断を迫っても、すべてはこちらの手にある」
バーラムも蒸留酒を、小さなカップでひと息に飲み干した。
下手につついてカナルロクの強硬派が目を覚ましても、それはそれで面倒なことになる。
矢面に立つのは、どうしたって国境を接しているセルニアンになる。
全面戦争まで発展することはないだろうが、領地を必要以上に荒廃させたくもない。
いくらふっかけられたら後には退かないと言ってみても、一領地と国では基本的な体力が段違いだ。
バーラムのつまらない意地で、領民を不幸にする気などない。
「あとはこちらで勝手に処断しろ。でしょうな。それも、ただの賊として」
憤懣やるかたないといった表情で、ジョエルが言葉を吐き出した。
もっとも、王都が引き渡しを要求してきても、盟友を巻き込んで死に追いやってくれた敵は、この手でくびり殺すと既に決めている。
「ああ。それが政治ということだろう。その辺りは、ミッケルにでも任せておけばいい。しかし、ただでは済まさんぞ、カナルロク」
バーラムの瞳には、ほの暗い復讐の光が未だ消えていない。
譜代の忠臣を失った怒りは、納まることなど決してない。




