30.遠乗りそして平穏な日々
セルニアの西に広がる平原には、秋の気配が濃厚だった。
空は高くなり、筆ではいたような雲が浮かんでいる。
じりじりと照りつけるような陽射しはすっかりなりを潜め、涼しく吹く風が吹き抜ける
その風に冷やされた肌を、やさしく陽射しは暖めていた。
その空の下、龍平たちは遠乗りを楽しんでいた。
ケイリーとアミアを乗せた馬車に、龍平とレフィも同乗している。
ワーデビット家所有の二頭立て馬車は空間に余裕があり、彼らの他にお付きの侍女もふたり乗り込んでいた。
対面式の座席にケイリーとアミアが並び、両脇にそれぞれの侍女であるサリサとライカがつき従っている。
対面に座る龍平とレフィは侍女たちの接待を受けながら、とてつもない居心地の悪さを味わっていた。
申し訳なさそうな侍女の視線も、この状況下では何の慰めにもなりはしない。
かといって、幸せいっぱいのふたりを打ち捨てて、馬車から出るわけにもいかない。
なぜ、デイヴが龍平たちを誘うように仕向けたか、その意図を今更ながらに思い知らされていた。
せっかく急いで作ってもらったレフィの鞍も、馬車の荷台に積んだままだ。
レフィは、どこかで無理矢理にでもデイヴと交代することを、密かに企んでいた。
その馬車の周りを、四騎の護衛が取り囲んでいる。
ネイピアとセルニアンから、それぞれふたりずつだ。
デイヴは隊列の後ろに付き、後方警戒に当たっている。
その両脇を、ふたりの従者が固めていた。
これに交代要員を含む御者二名を加え、総勢一八人の遠乗りになっていた。
龍平の感覚では多すぎるように思えるが、貴族社会では当たり前のようだった。
ほどなくして、小さなせせらぎが見えてくる。
ここで馬車を止め、しばらくのんびりする予定だった。
馬車が停まり、龍平とレフィが先に降りて、ドアの横に警備として待機する。
そして、サリサとライカに先導されてケイリー、アミアの順に降りてきた。
「リューヘー様、レフィ様、お疲れさまでやす」
満面の笑みをたたえたデイヴが、ふたりに声をかけてきた。
気楽な警備の役割に、心の底から感謝しているかのようだ。
「デイヴさん、そろそろ交代してくださいよ。せっかくレフィの鞍を作ってきたのに、これじゃ使う機会がないじゃないですか」
意訳すれば、以下の通りだ。
バカップルをなんとかしてくれ。
「そんなこと仰らずに、おふたかたのお相手をお願いいたしやす、リューヘー様。おふたかたとも幻霧の森のお話を、そりゃぁ楽しみにしておりやしたんで」
当然、デイヴにそんなこと、できるはずもない。
毎日見せつけられるバカップルに、他の生け贄を捧げたかっただけだ。
たしかにその話はトップシークレットといってもいい。
不特定多数が行き交う屋敷の中や、どこに話が漏れるか判らない晩餐会でしていい話ではない。
龍平とレフィが幻霧の森から来たことは、ある程度の地位の者には周知の事実であり、屋敷に働く者には公然の秘密だ。
だが、幻霧の森に何があるのか、中はどうなっているかまでを知る者はほとんどいない。
それを知っているのは、実際に入り込んだ経験を持つミッケルと、利権について話し合ったバーラムにロドニーくらいの者だ。
ケイリーですら、詳しい話は聞かされていない。
この日、ケイリーとアミアに付き従う者たちは、いずれも譜代の家臣であり、口の固さには信のおける者たちだ。
ふたりは、龍平とレフィの話を楽しみにしていた。
だったら話振ってやれよ、バカップル。
「リューへー様、ケイリー様からずいぶんと不思議な計算術をご存じと伺いましたが、私にもご教授願えませんか?」
好奇心に満ちた目で、アミアが言い出した。
どうやら賠償金の計算を、ミッケルが誇張して伝えたらしい。
「あれは、別に不思議でも何でもないんです。単に慣れているのと、ひと桁の掛け算はすべて暗記してるからできただけですよ」
小学校入学以来、六年間はひたすら計算ばかりだ。
筆算で効率よくはなるが、九九と足し引きの組み合わせがすべての基本だ。
いってみれば訓練の賜物だ。
方程式や因数分解などの複雑な理論は一切使っていない。
だいたい、普通に暮らしていて、どこで因数分解など使う機会があるというのか。
あれは理論的な思考能力を磨くための訓練だと、龍平は無理矢理納得していた。
そして、あのときの賠償金を計算した式を、拾った木の枝で地面にいちいち解説しながら書いていった。
そのなかで、割り算の筆算が最も興味を引いていた。
幸いにして、ゼロの概念は既にあったため、最もややこしい解説が必要なかった。
この世界の文字に置き換えれば、因数分解も思考パズルとして流行るのではないかと、龍平は考えていた。
「この計算方法と記号は便利ですね。基本的な掛け算を覚えておくのが大変ですが、それは何かに書いておけばいい」
この時代、プラスやマイナスなどの記号は、まだ普及していない。
地球でもの同じような時代ではわアルファベットで書かれていた。
だが、これだと文字が増えすぎて式が見にくくなる。
どうしても最初から記号に慣れた龍平は、そちらをつい使ってしまっていた。
加減乗除の概念があるならば、あとは応用していけばいい。
そうして慣れていけば、龍平がやった暗算などすぐにマスターできるはずだ。
「では、こんなのはいかがですか?」
調子に乗った龍平が、地球の文字で因数分解と展開の例題を書いた。
例(x+y)^2=x^2+2xy+y^2
解(x+y)^2=(x+y)*(x+y)
=「x*x」+「x*+y」+「x*+y」+「+y*+y」
=「x*x」+「x*y」+「x*y」+「y*y」
=「x*x」+「x*y」*2+「y*y」
=x^2+2xy+y^2
例(x-y)^2=x^2-2xy+y^2
解(x+y)^2=(x-y)*(x-y)
=「x*x」+「x*-y」+「x*-y」+「-y*-y」
=「x*x」-「x*y」-「x*y」+「y*y」
=「x*x」-「x*y」*2+「y*y」
=x^2-2xy+y^2
例(x+y)*(x-y)=x^2-y^2
解(x+y)*(x-y)=「x*x」+「x*-y」+「x*+y」+「+y*-y」
=「x*x」-「x*y」+「x*y」-「+y*y」
=x^2-y^2
三つの例題を書いた龍平は、プラスとマイナス記号の関係や、矢印を使って括弧の展開の仕方を説明する。
そして、xとyにそれぞれ適当な乗数を加え、いくつかの問題を作った。
問一 2(x+y)^2を展開せよ
問二 2x^2+6xy+4y^2を因数分解せよ
問三 3(2x-y)^2を展開せよ
問四 3x^2-3xy+6y^2を因数分解せよ
問五 (2x+3y)(2x-3y)を展開せよ
加減乗除すべてを使った数式パズルだ。
それを四人でああでもないこうでもないと、お喋りを交えながら解いていく。
調子に乗って知識自慢をしてみたくなったのは、ちょっと秘密。
まだガキだから仕方ないと、心の中で言い訳していた。
それから、龍平は地面に木の枝でいくつかの線を引き、幾何の定理を説明した。
もちろん、既にこの世界でも三平方の定理などは発見されている。
だが、それらの知識は、神官などごく一部の特権階級に独占されていた。
そのため、貴族階級でも知っている者は少なかった。
龍平は思い出せる限りの定理を書き連ねていく。
三角形、四角形、平行線、各種の角度、内接円、外接円等々。
そして、面積や体積の公式。
レフィが呆れかえったような表情で固まり、ケイリーとアミアは興味津々といった顔で龍平の描く図形を見つめていた。
「ね、おもしろいでしょ?」
ひとしきり図形を描き散らした龍平は、そういって木の枝を放り投げた。
レフィが困ったような顔になり、アミアは不思議そうに龍平を見ている。
「……あの、リューヘー様……」
アミアがケイリーにすがるような視線を送り、それを受けてケイリーがレフィに目で承諾を求めた。
レフィが肩をすくめて首を横に振り、承諾の意を返す。
ケイリーは龍平をちらりと見て、アミアに頷いて見せた。
一連の流れを、龍平はまるで理解していない。
「リューヘー様……あなたは、どこからいらしたのですか? 先ほどからお書きになっている文字。わたくしは初めて目にしました。それにその知識。神官様でなければご存じないようなことばかり。それをリューヘー様は常識であるかのようにお話になって。……あなたは、どこの世界の方なのですか?」
いみじくもアミアが言った通り、龍平はこの世界の人間ではない。
もちろん、アミアはそれを看破したわけではない。
ただ、龍平が持っている知識が、異常すぎた。
それを指して、どこの世界かと聞いただけだった。
それに気づいた龍平が掌で顔を覆い、やっちゃったという表情になる。
レフィは、何を今さらという表情に、苦笑いを張り付けていた。
「さすが、アミアだ。よく気づいたな。これだけやっておいて、今さらですな、リューヘー殿。よろしいですね?」
まず、そこかよ。
婚約者誉めるとこからかよ。
全力で突っ込みたい衝動を、龍平は必死にこらえた。
そして、ケイリーに頷いてみせる。
「ありがとうございます、リューヘー殿。この件は王国からの発表があるまで、必ず伏せておくことを、我が剣にかけて誓いましょう。……アミア、察した通りだ。リューヘー殿は、この世界の人間、ではない」
ひと言ずつ区切り、言い聞かせるようにケイリーが言う。
アミアは息を飲んだまま、言葉が出てこなくなっていた。
そして、誤召喚された龍平を幻霧の森付近でケイリーたちが保護するまでの顛末を、アミアに話した。
当事者である龍平は、これ以上よけいなことを言わないようにと、黙って聞くだけだった。
「酷い……話です」
アミアが、ぽつりと呟いた。
何の落ち度もなく暮らしていた人間を、何の断りもなく、強制的に連れ去り、家族や友人と引き剥がし、なおかつ送り返す手段もない。
こんな酷い話を、アミアは聞いたことがない。
もちろん、この世界でも誘拐といった犯罪はある。
犯罪を犯した者は、相応の罰を受けなければならない。
賠償金がそれに当たるのだろうが、それで済ませていいものなのだろうか。
彼の世界において、龍平は消滅した。
これは彼の世界においては、殺人と同じではないのか。
龍平には何の落ち度もない。
何か悪事を働いてもいない。
アミアは、その理不尽さに心が張り裂けそうになっていた。
たしかに犯罪行為は、やっていなかった。
ついでに宿題も、やっていなかったけどな。
龍平は小さく笑みを浮かべ、そっとその場を離れた。
龍平の境遇に憤慨し、悲嘆に暮れているアミアには申し訳ないが、あまり深刻にされるとかえって落ち込みそうだった。
日々の暮らしの中で日本を思い出し、落ち込むことがないとはいわない。
だが、現状で帰る手段がない以上、その日その日を生き抜かなければならない。
なにも睡眠時間を削てまで、時空移転魔法を完成させようというのではなく、毎日の暮らしは待ってくれないからだ。
端的に言えば、腹は減るし、眠くもなる。
トイレだって、行かないわけにはいかない。
何より、あまり神経を張りつめすぎていては、心が保たない。
日々の暮らしをそれなりに楽しみながら、時空移転魔法の研究を継続する。
龍平はこの世界に対して、そのようなスタンスでいることにしていた。
だから、事故を起こしたのが誰かは知らないが、当事者以外から同情されるとかえって申し訳ない。
なんとなく、いたたまれない空気に耐えかね、龍平はその場から離れていた。
川のほとりに腰を下ろした龍平は、陽光に輝く水面を見つめていた。
手元にあった石を、軽く投げてみる。
波紋が広がりながら、下流に向かって流れていく。
次はその波紋に向かって、石を投げつける。
波紋の中心に命中すると、なんだかすっきりした気分になった。
また新しく石を広い、少し上流に投げる。
そして、石が届かなくなるまでにいくつ投げられるか、いつの間にか夢中になっていた。
さらに次の波紋を作るため、新しく石を拾うと、今度はずいぶんと平べったい石だった。
「これは……」
石を掌で弄びながらおもむろに立ち上がった龍平が、鋭いサイドスローでその石を投げる。
石は沈むことなく水面を連続して跳ね、五回目の着水で勢いを失い川面に消えた。
次の石を探そうと水面から視線をはずす直前に、別の石が軽快に水面を跳ねていった。
石が飛来した方向を見ると、デイヴが得意げな顔でこちらを見ている。
「その挑戦、受けましょうっ!」
龍平が新たな石を投げる。
今度は角度が悪かったか、二段で水没してしまった。
デイヴが慣れた手つきで、新しい石を投擲する。
得意げな顔をしただけのことはあり、六段まで回数を伸ばした。
そこへ、また新たな石が飛来する。
今度はケイリー付きの侍女が、参戦してきた。
「サリサさん、お上手なんですね。村ではいつも?」
龍平が石を探しながら、侍女に話しかける。
馬車の中ではケイリーの世話を邪魔しないように、ほとんど話していなかった。
いや、ケイリーとアミアの世界を、他人の会話というノイズで邪魔しないようにだった。
そのせいで、侍女たちとは挨拶だけで、名前も聞きそびれていた。
「ええ。娯楽の少ない村ですので。ネイピアの誇りにかけて、遅れは取りません」
サリサは一礼すると、また石を川面になげる。
今度は力みすぎたか、石は二段で水面に消えた。
三人で異様な盛り上がりを見せる水切り合戦に、腕に自身のある者たちが次々参入してくる。
いつの間にか、ケイリーまで石を探している始末だ。
「リューヘー様、石が飛ぶ魔法でしょうか? わたくしにもぜひ、教えてくださいませ」
――リューヘー、私もやるっ! 石が沈まないなんて、風? 土? それとも水? いつの間に四属性使えるようになったのよ?――
さすがにお嬢様育ちは知らないか、アミアとレフィが投げ方を聞いてきた。
普通に考えて水に沈むはずの石が水面を跳ねるのだから、魔法だと勘違いしてもおかしくはなかった。
「違います。魔法ではありません。一定の角度で水面に当たると、跳ね返されるんです。ケイリー様がお上手ですので、ぜひ教わってください。レフィは投げられるの?」
さすがにお嬢様、それも人の婚約者に手取り足取りというわけにはいかない。
だいたい投げ方を知っているケイリーがいるのだから、アミアはそっち丸投げでいい。
そして、もうひとりのお嬢様であるレフィに、石の持ち方から始め、肩の動かし方、腰の切り方、手首のスナップと教えていく。
後ろからレフィを抱え、肩や腰の動きを両手でフォローしてやる。
中身が女の子でも、身体が龍じゃこれっぽっちもドキドキしねぇよ、よかったね!
やはりというか、さすがというか、ネイピア勢は、自然の中で育ってきただけのことはある。
お付きの侍女としてお淑やかにしていたサリサまでが、五段六段は当たり前に切っている。
意外だったのは、アミア付き侍女のライカだ。
きれいなフォームから、こちらも五段六段と石を切り跳ばしていた。
「ライカさん、すげぇ~。俺より上手いじゃないですか」
龍平は素直に賛辞を送った。
「はい。両親が領地持ちの陪臣ですので、小さな頃は領民の皆さんと遊んでおりました。領地と申しましても、とても小さな村ですけど」
ネイピアほどではないが、自然豊かな小さな村の出身らしい。
――きぃぃぃぃぃっ! なんで跳ねないのよぉぉぉっ! 今度、こそぉぉぉっ!――
レフィはフォームこそきれいだが、力任せに石をぶん投げすぎだ。
角度は悪くないのだろうが、石は鈍い音を立てて川面に突き刺さるだけだった。
龍のお嬢さん、いつの間にオチ担当にしましたっけ?
「よし、解った。レフィ、おまえに手先の器用さが必要な遊びは、向いてない。圧倒的に向いてない。まったくもって向いていない。新しい遊びを教えてやろう」
レフィが暴れ出す前に回収し、近くの竹林から太めの竹を一本切り出す。
レフィの足のサイズに合わせた位置で、二〇センチほどの長さに二本切り出した。
「レフィ、爪でこことここに穴開けて」
レフィが爪で開けた穴に、ロープをほどいて作った細いひもを通す。
ひもを輪に結んで、ぽっくりをこしらえた。
「よし、レフィ、片手でひとつずつひもを持って、足を竹に乗せて歩いてみ。……さぁ、追いつけるものなら追いついて見ろ、脳筋ぶきっちょの、ト・カ・ゲ・ひ・めぇぇぇぇぇぇっ!」
龍平はわざと挑発し、叫びながら逃げ出した。
瞬間湯沸かしトカゲが、激昂して追いかける。
――なんですってぇぇぇっ! まちなさっきゃあっ!――
コケた。
「やっぱり無理か! どうした! 諦めて普通に走るか! 飛ぶか! どうする! さあ、来てみろっ!」
さらに挑発を繰り返す龍平。
――くっ! 屈辱っ! 待ちなさぁぁぁいっ! ぎゃんっ! ……。ぜぇぇぇったい、捕まえるぅぅぅっ! 燃やしてやるからあっ! きゃあっ! くっ! 逃がすかぁぁぁっ!――
律儀にぽっくりを履いたまま、駆けだしてはコケるレフィ。
チョロインですね、レフィさん。
「ケイリー様、あれ……」
いつの間にかライカまでがぽっくりを作り、追いかけっこに乱入していた。
その様を見たアミアが、うらやましそうにケイリーに訴える。
「アミア、君はやめておきなさい。どうしてもというなら、私と練習してからだ」
ケイリーは、乱入したくてうずうずしている自分のサリサに、待ったをかけた。
そして、ぽっくりを三つ作らせる。
「よし、行け!」
サリサのおしりに、ぶんぶんと振られる尻尾を見たような気がしたケイリーが、ぽっくりを受け取って許可を出す。
警戒に当たるデイヴたちが遠巻きにする中、ふたりだけの甘い世界ができあがっていた。
秋を感じさせる陽の下、穏やかな日常が流れていた。
サリサは気を遣った、ことにしておこう。
決して逃げたわけじゃないと、ここに明記しておく。




