23.セルニアの宿にて
険しい山並みを背景に、その町は草原の中にたたずんでいた。
起伏に沿ってうねる街道が、その町に向かって伸びている。
龍平は、幻霧の森を出てからの十日間を、深い感慨とともに思い出していた。
生まれて初めての体験ばかりで、これまでの人生で最も濃密な時間だったと思っていた。
武器を携えた、兵との行軍。
学校生活で体験した遠足とは、まるで違うだらけたようにも見える集団行動。
初めての宿。
藁を敷き詰めたベッドに、肌触りの悪いシーツ。
村を出る度増えていく、街道警備隊の後をついてくるひとびと。
この時代の、旅の厳しさ。
護衛を雇うこともできない、貧しいひとびと。
護衛そのものが存在しない、貧しい村。
犯罪のハードルの低さ。
隙あらば警備隊の荷物を掠めようとする旅人。
犯罪に対する苛烈さ。
固いパンひとつで腕が飛び、街道に放置される村人。
盗賊団の討伐。
殺人に何の躊躇いも持たないひとびと。
初めて遭遇した魔獣。
地球上の動物に似ているようで、どれにも当てはまらない不思議な生き物。
呆気ない死。
魔獣の前肢がひと振りした後に残された、元は人だったものの残骸。
圧倒的な勇気。
人が紙屑のように吹き飛ばされても、怯まずに立ち向かう兵たち。
理不尽な暴力。
初めて見せつけられた、レフィのブレス。
焼き殺された魔獣の体毛が、嫌な匂いをまき散らしながら燃えていた。
その周辺に、散らばる血溜まりや肉塊を見て、龍平は胃の内容物をすべて吐き出した。
そしてその後も、まだ吐き気が止まらず、黄色い液体を吐き続けるしかなかった。
胃液すら吐ききり、血を吐いても吐き気は止まらなかった。
レフィが心配そうに背中をさすってくれたが、いつまで経っても吐き気は止まらなかった。
結局、吐き続けた疲労で眠気に負けて意識が溶け落ちるまで、龍平は吐き気と戦い続けていた。
翌朝、目覚めた後に見た凄絶な光景を、龍平は一生忘れない。
ひとびとが見守る中、小さな赤い龍が宙を舞う。
龍平はレフィに声をかけられなかった。
今、声をかけてはいけない。そう思った。
レフィが人を焼いていた。
両目に涙をいっぱいに溜めて、魔獣に立ち向かい、武運拙く破れた勇者を焼いていた。
野辺の送りの後、兵たちがレフィに礼を言った。
戦友をおいていかずに済む。
家族のそばに墓を建ててやれる。
涙をこらえながら、そう厚く礼を言った。
この時代、旅の途中で倒れた者は、道端に打ち捨てられていく。
死体を抱えて、旅など続けられない。
よくて埋められるか、野生動物に骨まで残さず食い尽くされるか、そのどちらかだ。
埋められても、浅ければ動物に掘り起こされて食い尽くされる。
いずれにせよ、遺族の元には遺品か遺髪しか届かない。
それに比べたら、この勇者たちははるかにマシだった。
戦友が、遺品を抱えて帰る。
戦友に、遺骨が抱えられて還る。
龍平は近づいてくる城壁を眺めながら、この十日間を思い返していた。
龍平は、この十日間を一生忘れない。
城門の警備兵が、レフィを見てぎょっとした顔になる。
それでも取り乱さなかったのは、ミッケルの先触れが幻獣を連れていることを報せてあったからだった。
指揮官がミッケルであり、この城塞都市に属する騎士も参加した街道警備隊は、簡単な挨拶だけで門をくぐった。
当然のようについて行こうとした、旅人たちは衛兵に停められ、抗議の声が挙がる。
中にはミッケルやケイリーを呼ぶ声もあったが、警備隊は誰も反応しない。
ここまでタダで守ってやった上、入城の便宜まではかってやる義理はない。
旅人たちは、盗賊団や魔獣の襲撃から守ってくれた警備隊に、誰もが感謝の言葉を口にしていた。
だが、その口も渇かぬうちに、警備隊の食料を闇に乗じて掠め盗ろうとした者たちも多かった。
旅人たちは用便の振りをして荷車に近づいていたが、見張りの多さに引き下がっていた。
当然、見張り兵は気づいていたが、荷物に手を出さなければ見逃していた。
旅人たちは、見逃されたことに気づいていない。
毎晩見逃されていたことに、旅人たちは気づいていない。
守ってくれた兵に、なけなしのパンをお礼として渡してきた子供には気が引ける。
だが、兵たちを出し抜こうとしてくれた者たちに、便宜をはかる義理など欠片もない。
旅人たちの声が、怨嗟の色に染まっていく。
龍平は、不思議そうな顔で大人たちを見上げる子供を、見ていられなかった。
ミッケルは龍平とレフィを残し、街道警備の結果報告のため、バーラムの居城へ行ていった。
宿に残されたふたりは、あてがわれた部屋の中で対照的な態度を盗っている。
「なんか、落ち着かねぇ……。どこにいていいか、分かんねぇよ」
上品に並べられた豪奢な装飾品に囲まれ、技巧の粋を尽くした木彫に飾られたソファに身を沈めた龍平が所在なげに呟く。
明らかに、身の丈に合っていない部屋だった。
分不相応。
そんな言葉が、頭の中をぐるぐると回っている。
――まあまあ、じゃない。そんな畏まらなくても。身体を休める宿にいて、疲れてしまうなんておかしいかしら。これじゃあ、もし私の家に招待したら、どうなっちゃうか見てみたいわね――
久々に元の身分に釣り合う宿で満足げなレフィが、龍平の正面でソファの座り心地を確かめている。
龍の意匠を施した、精緻な木彫に飾られたソファで龍がくつろぐ姿は、なかなか様になっていた。
「くそっ。育ちの違いがここまで出るとはっ。畳マットと布団ベッドが恋しいぜ」
手持ち無沙汰を慰める手段もない龍平は、見るでもなしに敷き並べられた装飾品に視線を投げていた。
だが、美しいとは思うものの、その良さが分からない。
多分、手先の器用な者が見よう見まねで作った物とすり替えられても、龍平は気づかない自信がある。
威張れたものではないが、美術品との付き合いが校外学習程度しかなければこんなものだった。
――落ち着きなさいな。そんなにキョロキョロするものではなくてよ――
レフィが静かにたしなめる。
この宿に入って以来、レフィの立ち居振る舞いがいっそう洗練されて見えてきた。
悲劇のトカゲ姫なのに。
新しいバリエーション思いついた。トカゲの魔法姫もいいな。
一瞬、龍平は夏にもかかわらず、背筋に寒いものを感じた。
身の危険を感じたとき、ドアが丁寧にノックされる。
「はい、どうぞ」
助かったとばかりに、龍平はドアに向かって答えた。
こんなところで火を吐かれたら、被害総額はどれほどになるのやら。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
洗練された動作で、女性のバトラーがふたり入室してきた。
そして、ひとりは上品な造形の真っ白な磁器に紅茶を注ぎ、ほっとした龍平の前に音もなく置いた。
「レフィ様は、こちらをどうぞ」
もうひとりが、本来はスープカップに用いられる、両手持ちの真っ白な磁器に紅茶を注ぎ、レフィの前に置く。
舌でお茶をすくう際、カップを持ちやすいようにとの心配りだ。
ミッケルはレフィが龍平のペットではなく、同格の賓客であることが伝えていた。
バトラーたちの所作には、相手が人外だからといって手を抜くようなマネは許さない、というプライドが満ちていた。
レフィが小さく鳴いて、お付きのバトラーに謝意を伝えた。
ゆっくりと羽ばたき、カップを抱えて宙に浮く。
その紅茶を嗜む姿はカップに首を突っ込むようで、決して誉められたものではないはずだ。
だが、窓から差し込む陽光の中、虹彩を縦に絞り込んだ目を細めてカップを抱える姿には、どこか抗い難い気品に溢れていた。
「お口に合ったようで、何よりです。どうぞ、こちらもお召し上がりください」
地球の英国でアフタヌーンティーに饗されるティースタンドのような食器に、色とりどりの菓子や、軽食が乗せられていた。
そこからレフィの注文に応じてサーブしたバトラーは、そのまま壁際に控え目な態度で待機する。
「いただきます。……?」
龍平は何の気なしにティースタンドから、キュウリのような野菜を挟んだ白いパンを摘む。
そして、レフィに思念を向けてみた。
以前、セリスから念話の聞き取りに慣れれば、強く思ったことを相手に伝わることを聞いていた。
いい機会だからと、それを試すことにしてみる。
――なあ、この世界にも博打狂いの伯爵がいたのか?――
彼の伯爵も、まさか自分のずぼらさが死後に全世界を席巻するとは、思ってもいなかったろう。
それにしても、これは人類の四大発明に匹敵するのではないかと、龍平は常々思っていた。
日本人にしてみれば、おにぎりには勝てないけどなっ。
――セリスに聞いたの? よく知ってたわね。でも、たしか、伯爵じゃなくて侯爵だったはずよ。あれ、この功績で陞爵したから、当時は伯爵でいいのかしら――
いた。
どの世界でも、考えることは同じらしい。
だが、なぜ日々の生活に追われ、忙しなくすごす庶民階級に、サンドウィッチが生まれなかったか、龍平は不思議に思っていた。
手も汚さず、食器も不要なこの料理こそ、庶民のものであってしかるべきではないかと、そう考えていた。
しかし、この発想は貴族のものだ。
容易に噛みちぎることが可能なやわらかいパンと具材は、貴族階級でなければ、そうそう用意できない。
庶民階級で常食されている固いパンは、スープに浸してやわらかくてから食べるものだ。
パンはスライスもできないし、スープでは具材として挟むこともできなかった。
――俺の世界でも、同じような経緯でこの料理ができてるんだ。こっちは伯爵のままだったけどな。しかし、いいのか、そんなんで陞爵なんかして。大丈夫か、この国――
いくら偉大な発明とはいえ、たかが軽食で陞爵とは。
龍平はこの世界と、自分の未来が不安になった。
――当時のその国の王が並外れた美食家だったかしらね。おかげで国を傾けたそうよ。あら、だめじゃないの――
他愛のない会話と、やさしい時間が流れていく。
やわらかい光の中で、龍平は満ち足りた気持ちになっていた。
荒々しく凶相だが、幸せそうに菓子を賞味するレフィの姿は、内面を表すかのように優雅だった。
龍平は、しばし時を忘れて、その姿に見とれていた。
ティースタンドの菓子がほとんどふたりの腹に収まった頃、再度ドアがノックされた。
龍平が立とうとしたが、意を汲んだバトラーがドアを開く。
「リューヘー・クマノ様、レフィ様。フォルシティ卿がお呼びでございます。よろしけれはご案内いたしますが、お支度はいかがでございましょうか?」
ベルボーイからメッセージを受け取ったバトラーは、用件を龍平に伝えた。
慌てて立ち上がる龍平を、バトラーがエスコートしながら要領を説明する。
支度の必要がなければすぐにでも、時間が必要ならば、どちらかかベルボーイに伝えに行く。
決して急ぐことではないと、バトラーは控えめな言葉を選んで説明を終えた。
――少し時間をもらいましょう。きっとセルニアン辺境伯への謁見についてよ。そのまま晩餐になるでしょうから、庭を散歩してからでも充分間に合うわ――
夕食までともにするのであれば、それほど慌てる時間ではない。
少し腹ごなしをしてからでも、遅くはなかった。
「フォルシティ卿、リューヘー・クマノ様とレフィ様をお連れいたしました」
呼び出しの使いを出してから、体感時間でおおよそ一時間後に、龍平とレフィはミッケルが滞在する部屋を訪れた。
バトラーふたりに前後を挟まれ、先行したベルボーイが来訪を告げていた。
ベルボーイとミッケル担当のバトラーが言葉を交わし合い、そしてドアが開かれた。
そこは、龍平たちが滞在する部屋より、さらに豪華なこの宿でもトップクラスの部屋だった。
「遅くなりまして、申し訳ございません、ミッケル様」
――お待たせしたわね、卿――
形ばかりの謝罪とともに、ふたりは入室する。
そこには、当然といった顔で、ケイリーも呼ばれていた。
壁際にそれぞれについたバトラーが控えると、ミッケルは彼らに退出を促す。
次いで、厨房からティーセットを借り受けてきた、ミッケルの侍女がワゴンを押しながら入ってきた。
貴族相手に珍しいことではないのだろう、バトラーたちは仕事を奪われたことに抗議することもなく退出していく。
人払いということを、理解している動きだった。
「お呼び立てして申し訳ございません、殿下」
仮にも男爵の地位にある貴族が、幻獣を連れた少年の下に訪ねていくわけにも行かない。
ましてや、幻獣に頭を下げるなど、もってのほかだった。
――構わないわ、卿。ご用件は? セルニアン辺境伯のことかしら?――
さすがに、会わないわけにはいかないだろう。
問題は、今日の謁見でミッケルがどこまで話しているかだ。
すべてを秘匿する必要はない。
しかし、どこまで話してあるかの情報を、共有しておかなければならなかった。
「はい。その通りです。まず、リューヘー殿と殿下の存在は知らせてあります。もちろん、ドラゴンとしてであり、アレフィキュール殿下のお名前は出していません」
これは当然のことだ。
捜索対象を発見しておいて、黙って連れ帰るなどあり得なかった。
レフィの存在も同様だ。
龍平のペット扱いだろうが、宿に幻獣を泊めるなど前代未聞の椿事だった。
幻獣や魔獣を手懐けて連れ歩く冒険者は皆無ではないが、部屋まで連れ込むなど宿が許さない。
厩舎に預けるのが、常識だった。
レフィを見かけた客もいる。
黙っておくことはできない。
――当然ね。リューヘーが異世界人ということは、言ってあるのかしら?――
最も気になる点を、レフィは聞いた。
事前の話では伏せておくはずだったが、流れによっては言わざるを得ないこともあったかもしれない。
まさか、いきなりこの宿を襲撃するとは考え難いが、一度決断すれば地方領主の行動は迷いなく早い。
そのときは、龍平をかっさらって幻霧のもりまでひとっ飛びだ。
もし、邪魔立てするなら、領民には悪いがひと暴れも辞さない。
レフィは、覚悟を決めていた。
「もちろん、まだ伏せてあります。辺境伯が変な色気を出さなければ、そのまま押し通しましょう。まあ、ないと思いたいんですが、何せ、あの辺境伯ですから」
ミッケルも龍平を渡す気はない。
自身でも囲っておきたいくらいだが、さすがにいち貴族の手に余る。
もっとも、国が飼いきれるとも思えないし、飼いこなせるとも思えない。
たしかに龍平が持つ異世界の知識はすばらしいのだろうが、この世界では再現できないものが多すぎる。
それは過去の召喚の儀で呼び出した品々を見れば、明らかだ。
数年前にクレイシアが呼び出した針金でできた網など、未だに何に使うか皆目見当もつかない。
だが、欲に目がくらんだ者たちにとって、龍平は過去の遺物に関する生き字引に見えるだろう。
使い道を知っていれば、使わせればいい。
作り方を知っていれば、作らせればいい。
そう、拷問にかけてでも。
たしかに拷問は、真実に近づくには有効な手段だ。
ただし、拷問を受ける者が、真実を知っていれば、だ。
組織とは、上に報告があがればあがるほど、その内容はシンプルになり、余計な推測が付与されていく。
上に立つ者の器が小さければ、望んだ報告しか聞かなくなる。
下の者は、望んだ報告しかあげなくなる。
望まれる報告を作るようになる。
拷問は便利だ。
苦痛から逃れたければ、望まれた答えを言えばいい。
その場はそれで解放されるかもしれない。
後でどうなるかは、知ったことではない。
「それから、気になるのは、この町がワーズパイト様の館への玄関口となることです」
これは仕方がない。
幻霧の森は、セルニアン辺境伯領のまっただ中にある。
厳密に言えば領民だ。
もっとも、税を払っていないので、辺境伯の保護を受ける権利はない。
したがって、服従の義務もないが。
だが、幻霧の森へ辺境伯の許可なく、行くわけにはいかない。
幻霧の森への進入はともかく、そこに行くまではセルニアン領を通らなければならないからだ。
黙って通れば領界侵犯とされるか、流民扱いか。
いつどこで討たれても、文句は言えない。
――それはしかたないでしょう。お互い、どこまで譲歩し合うか、ね。万が一、その辺境伯が独占をもくろむなら、私は黙っていないけど――
バーラムが幻霧の森の優先権を主張してくることは、火を見るより明らかだ。
だからといって、すべてを譲歩する気など、ミッケルにはない。
謁見は荒れる。
レフィはもう確信していた。
もっとも、レフィたちの留守を衝いて、幻霧の森を制圧するとまでは考えられない。
仮にも龍が守護する森に手をかけて、無事に済むと思うほどバーラムが莫迦ではないと、ミッケルもレフィも信じたかった。
「あとは、出たとこ勝負でしょう。なにも、辺境伯に全部譲れと言うわけでもなし。辺境伯も全部よこせと言うわけでもないでしょうから」
要はブラフのかまし合いだ。
ビビった方が損をする。
落とし所はそう多くない。
だてに長年貴族などという商売を、やってるわけではない。
腹の探り合いなら慣れている。
多少波乱はあるだろうが、収まるところに収まると、ミッケルは信じていた。
――あなたが言うなら間違いはないのでしょう。明日は卿に任せるわ――
そう言って、レフィは横を見た。
龍平がソファにもたれて意識を失っている。
正面では、ケイリーが困った顔になっていた。
おそらく、話に入れず、沈黙に耐えきれず、睡魔にも耐えきれなかったのだろう。
「そろそろ晩餐の時間ですね」
すべてを察した侍女がドアから出て行く。
バトラーたちに晩餐の準備と、水を満たした桶と、そしてタオルを依頼した。
――卿、この失礼をお詫びいたします――
レフィが宙に飛び立ち、ミッケルとケイリーに一礼する。
そして、龍平から少し離れた位置で、顔の高さにホバリングした。
勢いよく、レフィは身体を一回転ターンさせる。
しなりの効いた尻尾が、龍平の顔面を痛打した。
侍女が桶とタオルを受け取り入室すると、レフィが龍平を乱打している真っ最中だった。
目覚ましに冷たいおしぼりをと思い用意した侍女は、使い道は変わったけど用意してよかったと思いながら、タオルをきつく絞り上げた。




