7話
会場の空気は湿った静けさに満ちていた。
筆を湿らせる音だけが壁に反響し、ここが“線に飢えた者たち”の巣穴であることを知らせていた。
視線を上げた瞬間、階段から降りてくるアイビーが目に入った。
ライトグレーのビキニトップに厚手のブルーデニム。
そのアンバランスさが、胸郭の揺れをいやでも際立たせている。
肩が緊張でほんの少し落ち、そのわずかな“揺れ”が呼吸のリズムを露わにしていた。
(……これで普通のS〇Xで起つ人間がいるわけない)
揺れる線。震えるライン。可動域の歪み。
俺が反応するのは胸でも尻でもなく、そういう“動きの癖”だ。
アイビーは、そのすべてを持っていた。
胸元の光が呼吸に合わせて上下する。
デニムが腰の位置を固定し、上半身だけが生き物のように揺れる。
その瞬間、俺の喉が勝手に動いた。
「……いい線だな」
呟いた直後、怒号が飛ぶ。
「見るなッ!!」
お蜜が俺の前に立ちはだかった。
小柄な体に似合わぬ鋭さで、まるで作品を盗まれる寸前の画家のように睨みつけてきた。
「この子は“うちの作品”。線、触らせないから」
“線を触る”とはアングラの言い回しだ。描かせない、構図を奪わせないという宣言でもある。
俺は理解しながらも、視線を逸らせなかった。
アイビーの肩が震え、その震えに合わせて胸上部が柔らかく波を作る。
その一挙手一投足が俺の興奮を鋭く刺激した。
(やべぇ……あれだけで一本描ける)
体の奥から熱が上がる。技術屋としての興奮と、倒錯者としての欲が混ざり合う感覚。
「……その子、描かせろよ」
本心だった。抑えるという選択肢は最初から存在しない。
お蜜の顔が一瞬で獣に変わった。
「描くのは私ッ!!」
嫉妬ではない。
作品を奪われる恐怖に近い、もっと深い狂気だった。
彼女の声が響いたあと、会場の空気がさらに重く沈む。
遠くで誰かが「線、拾わせてもらう」と挨拶する声がする。
この世界ではそれが礼儀であり、戦いの前触れでもあった。
アイビーは胸元を押さえ、震えながらも逃げない。
揺れる線を持つ素材は、それだけで価値がある。俺は手の中の筆を握り直した。
(さて……どう奪う?)
アングラの静寂は、いつだって線の奪い合いの幕開けだ。
……まったく、あいつは何も変わっていない。
アイビーの肩が震えた瞬間、私の胸はざわりと騒ぎ始めた。呼吸の揺れは線の揺れ。
作品の“最初の命”みたいなものだ。あんなもの、他人に触らせるわけがない。
(今日の揺れ……完璧じゃない。
こんなの見たら、リッキーが食いつくに決まってる)
そう思った瞬間、私の背骨の奥で、狂気のような執着が音を立てて動いた。
ラインが揺れるというだけで、作品の構図は変わる。
私は今日のアイビーを“私が見た形”で描きたい。
なのに、リッキーの指がそこに触れたら、彼の線で上書きされてしまう。
(それは……絶対に許せない)
責任感もある。誘ったのは私。でも、それ以上に大事なのは──
私の構図を守ること。
「大丈夫。アイビー、私が描く。逃げないで」
肩に触れると、彼女の胸元がふわりと揺れた。その揺れは、私の神経を直接刺激する。
“いい面”が出ていると、職人なら誰でも気づくだろう。
だから余計に守らなければならない。
「揺れてる……今日、最高の作品になるよ」
そう囁くと、アイビーは息を呑み、胸が柔らかく波打った。光が移動し、線が整う。
リッキーがこちらを見て笑う。
線に狂った男の目だった。
(来るなら来い。作品は渡さない)
狂気と責任感が、静かにひとつに混ざっていく。
筆を湿らせる音だけが、地下室の空気を震わせていた。
揺れる線を持つ素材を中心に、
狂った職人たちの静かな熱が広がっていく。
【付記】《素肌アトリエ技法辞典・抜粋》
◆ 第1章:基礎技法(7項目)
■【線】
胸郭や肩・腰の可動域がつくる“瞬間の軌跡”。動きを写すため、揺れが大きいほど作品は生きる。
■【面】
胸元・腹部など、光を均一に受ける平面。揺れの質で面は変化する。「面がいい」は最高級の評価。
■【線を触る】
モデルに描くことを指す隠語。描き手が変われば構図が変わるため、強い主導権を含む言葉。
■【線を触らせない】
作品の構図を他者に奪わせぬ意思表示。嫉妬ではなく“上書き拒絶”の感情に近い。
■【拾う(線を拾う)】
呼吸・揺れに筆を合わせる調整行為。会場では「線、拾わせてもらう」が礼儀の挨拶となる。
■【揺れ】
胸郭・肩・腹部など、呼吸で生まれる微細な動きの総称。職人は揺れを“命の線”として重視する。
■【黒布】
筆拭き用の黒い布。汚れの残り方に筆癖が現れるため、実力を映す“裏の履歴書”とされる。
◆ 第2章:会場文化・暗黙のルール(5項目)
■【口数の少なさ】
静寂は集中ではなく“構図を盗まれたくない本能”から生まれる。視線で会話する文化が強い。
■【水ポットは半量】
満杯は揺れでこぼれるため厳禁。半量の水が会場の“標準値”として黙認されている。
■【揺れを止めない】
モデルが震えても作業は止めない。揺れは線の生命であり、最も美しい瞬間とされる。
■【筆を隠さない】
プロほど筆やパレットを隠さない。“盗めるものなら盗め”が職人気質の基本姿勢。
■【構図の縄張り】
同じモデルを複数のペインターが狙う場合、最初に声をかけた側が主導権を持つ“線の縄張り”がある。
◆ 第3章:道具と装備(5項目)
■【極細筆】
線派が最も好む筆。揺れる線を捉えるため、毛先のしなりに個体差が強く、愛用癖が表れやすい。
■【広面筆】
面派が使用する平筆。面の呼吸を均一に扱い、光の反射と色の伸びを重視する技法向け。
■【調色パレット】
色より質感を優先するため、水分量の調整が命。乾燥速度で筆先が変化するため繊細な管理が必要。
■【温度ブランケット】
モデルの体温を保つための布。冷えると皮膚が締まり線が硬くなるため、温度維持は作品の土台。
■【メトロノーム音】
呼吸テンポを乱さぬための微音。1/fゆらぎが揺れを安定させ、線を“拾いやすく”する補助装置。
◆ 第4章:注意事項(3項目)
■【解く(ほどく)】
作品の終幕を意味するため軽く扱わない。洗い落とすのではなく“線を解く”という思想がある。
■【触れ方の規律】
モデルへの接触は“描写目的”に限定され、長時間触れる行為は無言の抗議対象となる。
■【線の上書き禁止】
他者の描いた線を上書きする行為は最大級の禁忌。
構図を潰す行為と見なされ、即退場の要因となる。




