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6話

 都内の古いビル裏手。

 外からは絶対に気づけない階段を降りると、空気がひやりと冷たくなった。

 ライトグレーのビキニトップに、厚地のブルーデニムパンツ。

 上半身だけ妙に軽く、

 下半身は普段より重い――そのアンバランスが、アイビーの不安を静かに刺激していた。

 足首まであるデニムは守られている感があったが、胸元の露出が気になって仕方がない。

 階段の薄暗い照明が、水着の光沢を淡く拾い、肌にひとすじずつ光を置いていく。


「大丈夫。ほんとに、大丈夫だから」

 深緑のビキニトップ、黒のショートレギンス姿のお蜜が振り返り、ふわっと笑った。

 彼女はこの環境に慣れ切っているようで、階段の段差さえ気にしない落ち着いた足取り。

 アイビーは胸元をそっと押さえ、視線を下げた。


「わ、わたし……ほんとにこんな格好で入っていいの……?」


 自分で言ってさらに恥ずかしくなる。

 上半身は水着、下半身は普段着の厚いデニム。

 キャンバスとして場違いなのでは、と不安が膨らむ。


「アイビーは今日、“上半身だけ”を見るからいいの。

 デニムはね、形も綺麗だし……うん。線がうるさくなくて好き」


 お蜜はさらりと言ったが、その目はすでに“観察モード”へ入りかけている。

 芸術のスイッチが入ると、この子は本当に止まらない。

 アイビーは深呼吸を一つし、階段を降りきった。


 地下扉は半開きで、そこから絵具の匂いがほのかに流れてきた。

 受付デスクの前に立つと、黒シャツのスタッフがふたりを見るなり、自然と視線がアイビーへ向く。

 胸元とデニムの落差が強いのか、

 初参加の緊張が透けて見えるのか――判断しづらいけれど、視線がとにかく刺さる。


「えっと……ペインターの方は?」


「はい。私がペインターで、今日のキャンバスはこの子です」


 お蜜はアイビーの背中を軽く押し、前に出させた。

 アイビーは思わず肩をすくめたが、抵抗はしなかった。

 デニムの硬さが頼もしく、上半身の露出をわずかに誤魔化してくれる。

 受付の視線がトップを確認し、次いでデニムへ落ちる。


「……珍しいけど、問題ないよ。

 上半身のラインが見えればキャンバス登録できるから」


 アイビーはほっと息を吐き、小さく会釈をした。

 その指先は落ち着かず、デニムのベルトループをぎゅっとつまむ。


 そして扉をくぐると、空気が一変した。


 弱いオレンジ色の照明が舞台のように会場の一部だけを照らし、

 筆を湿らせる音、絵具を混ぜる音が静かに響いている。

 会話はほとんどない。

 キャンバスたちは落ち着かない呼吸を整え、ペインターたちは筆の先の水滴に神経を集中させる。


 そんな場に、

 上:水着

 下:厚めのデニム

 というアイビーが入っていくと、当然のように視線が集まった。


 とくに胸元へ。


「ひ、ひぃぃ……無理……!」

 アイビーは即座にお蜜の背中へ半分隠れた。

 デニムが足首まであっても、上半身の露出は守ってくれない。

 自分の鼓動が胸の布地をわずかに押し上げ、その動きにさえ意識が吸い込まれてしまう。


 一方のお蜜は、不安がるアイビーの肩を抱き寄せながら周囲へ向き直り、

 どや、と言わんばかりに胸を張った。


「どう? うちのキャンバス。線、綺麗でしょ?」


 ――その瞬間だった。


「……いい線だな」


 低く落ち着いた声が、会場の静けさを切り裂いた。

 お蜜がびくっと肩を跳ねさせ、振り返る前から声の主を理解したように険しい顔になった。


 そこに立っていたのは、上半身裸にチャコールグレーの作業ショーツ。

 長身で筋肉質、視線に遊びがある。

 リッキーだった。


 そして彼の視線が――

 アイビーの胸元に真っ直ぐ吸い寄せられた。


「……ほぉ。上は水着で、下はデニムか。

 珍しいが……胸のライン、すげぇな」


「お前ッッ!!!」


 お蜜が怒声を上げた。

 本気の怒気で、空気がびりっと震えた。

 会場の数名が気まずそうに視線をそらす。


「見るなッ!!この子は“うちの作品”!!お前こっち来んな!!」


 お蜜はアイビーの前に飛び出し、両腕を広げて庇った。

 深緑のトップが照明に照らされ、お蜜の小柄な身体に力がみなぎる。

 まるで危険な猛獣から子猫を守る母猫のようだった。


 一方のリッキーは、怒鳴られたにもかかわらず平然としていた。


「いや、悪い悪い。でもさ……肩の線、ほんとにいいぞ。

 腰のくびれも、デニム越しでも分かる」


 アイビーは顔を赤くし、デニムの端をぎゅっと握る。

 “越しでも分かる”と言われるのは、裸を見られるより羞恥が深い。


 お蜜はさらに怒りを燃やし、リッキーへにじり寄った。


「触るな。見るな。近づくな。その顔やめろ!!」


「いやいや、観察くらいはいいだろ。キャンバスなんだから」


「“芸術として”だけ許してんの!!お前のは違うのッ!!

 変なとこ硬くしてんじゃねぇッ!!」


 会場が震えた。吹き出したペインターの肩が揺れる。


 そして、アイビーは……見てしまった。

 リッキーの腰ショーツの“微妙な前のふくらみ”を。


「ねぇ、お蜜……あの人、なんか……硬くしてない……?」


 お蜜の顔色が、真っ赤を超えて“真っ白→真っ赤”の二段階変化を見せた。


「アイビー見ないのッ!!ていうかこっち来て…私が守る!!」


 お蜜はアイビーの頭を抱え込んで、自分の胸にうずめる勢いで隠した。

 深緑と白銀が重なり、お蜜の腕が小さな要塞みたいにアイビーを覆う。


「……まぁまぁ。真面目に描くつもりだって」

 リッキーは苦笑し、筆を手に取って肩をすくめた。


「黙れ。描くのは私」


 お蜜は即答した。

 その声の強さに、リッキーがわずかに眉を上げる。


「へぇ……その子、お前の本命か?」


「ちがうッ!!キャンバスとしての話!!変な勘違いすんな!!」


 アイビーは耐えきれず、顔を両手で覆った。

 デニムがなかったら逃げ出していたかもしれない。


 お蜜は深呼吸し、アイビーの両肩を掴んで優しく言った。


「大丈夫。アイビー。怖くない。私がいるから」


 その声は驚くほど真剣で、震える心をそっと包むようだった。

 アイビーは胸の奥の混乱を押し込み、ゆっくり頷いた。


「じゃあ……お願い。お蜜」


 その瞬間、お蜜の表情がふっと締まり、目の奥が静かに燃えた。

 芸術家の目。線に恋をした者の目。


「任せて。アイビーは、私が描く」


 会場が静まり返る。筆が一滴、器の縁で水を落とす。

 その小さな音が、セッション開始の合図になった。


 挿絵(By みてみん)

~おまけ~ 裏アトリエ講義録 ──『身体がキャンバスになる理由』


◇上半身の露出が必要な理由◇

ボディペイントにおいて、上半身の露出が求められる理由は単に「描きやすいから」ではない。

むしろ、人体という“動く構造物”の設計図が、上半身には集約しているからだ。


胸郭は、呼吸によって常に微細に膨張と収縮を繰り返している。吸気のときは胸骨が前方へ、

ごく小さく回転し、肋骨が外へ“花びらを開くように”広がる。

呼気では逆に内へ閉じ、肩甲帯が軽く沈む。この動きは、外から見ればほとんど分からない。

けれど、筆を当てた瞬間には確実に“線のズレ”として現れる。

だからペインターは、胸郭の動きと連動する線を“読む”。

布があると、この呼吸の振幅が覆い隠されてしまい、モデルの動きの癖が分からない。


さらに、鎖骨・肩峰・胸筋・腹直筋上部という、

**“人体の方向性を決める骨格の指針”**がすべて上半身に集まっている。

これらの位置が1センチ違えば、印象も造形も変わる。

だからアートとしての精度を求める場合、布はノイズになることがある。


もうひとつ重要なのは、光の拾い方だ。

光沢のある水着トップやスポブラは、照明下で肩線や胸元の丸みをわずかに拾い、

面の分割を明確にしてくれる。

これはペイントの“ガイドライン”として非常に優秀だ。

肌の艶と布の光沢の差分が、人体の局面を読みやすくする。


こうした理由から、イベントの参加規定は「露出」ではなく

“ラインを読み取れるかどうか” を基準に作られている。


アイビーの着ていたライトグレーのビキニトップは、まさにこの条件にぴたりとはまる。

緊張で胸郭が上下するたび、光が少し揺れ、そこに芸術家が読むべき“微細な地形”があらわれる。

本人にとっては恥ずかしさの源でも、ペインターにとっては創作の入口。


お蜜がアイビーを“素材”として扱うときに真剣になるのは、

こうした上半身の情報量を、誰よりも正確に扱える自負があるからだ。


◇ デニムが好まれる理由◇

意外に思われがちだが、厚手のデニムはアングラ系ボディペイント界隈で“静かな人気”を持つ素材だ。

それは、デニムが 「線を安定させる布」 として非常に都合がいいから。


まず、デニムは伸縮しない。

モデルが緊張して体重移動をしても、布がつられてよれない。

伸びる素材だと、腰の角度や脚のひねりが布面に伝わってしまい、

ペインターが読みたい“骨格の角度”が分からなくなる。

だがデニムはその揺れを吸収して、“形の基準点”を保持してくれる。


次に、色と質感が安定している。

ライトや陰影の影響を受けても、色の跳ね返りが最小限。

これによって、上半身との明暗差がはっきりと出る。

ペインターは人体を描く際、対比する面を利用して奥行きを計算するため、

デニムの“沈んだ青”は背景として優秀だ。

布が主張しすぎず、視線が上半身に自然と集中する。


お蜜が言った「線がうるさくなくて好き」という言葉は、単なる感覚ではない。

デニムは縦糸横糸がしっかりしているため、面が滑らかに見え、

モデルの体の線を邪魔しない。

たとえば、レギンスなどは脚の筋肉の動きがダイレクトに出る分、

“情報量が多すぎる”。

ペインターによっては、脚の細かなノイズに視線が散り、

上半身のテーマがぼやけてしまう。


アイビーの厚地ブルーデニムは、

胸元の露出という“大胆な開示”と、

脚部の“静かな守り”を両立していた。

これはモデルにとって心理的なバランスを生む。

上半身が軽く、下半身が重い――

そのアンバランスさは、羞恥を刺激すると同時に安心感を与える。


芸術家は、モデルの心理も作品の一部として扱う。

緊張で硬直するより、

“守られている部分がある”ほうが、身体の動きが柔らかくなる。

お蜜がデニムを良しとしたのは、

アイビーを描くうえで最適な“安定台”として判断したからだ。


◇視線が刺さる理由◇

ボディペイントの現場で向けられる視線は、一般的な意味での“視線”とはまったく異質だ。

それは、人間という立体物の“構造を読む作業” だからである。


ペインターは、モデルを見るとき、

性的関心ではなく “形態の解析” をしている。

胸郭の左右差、鎖骨の傾き、肩甲帯の可動見込み、皮膚の張り。

こうした情報を収集し、

「どの線が今もっとも美しいか」

「呼吸でどれほど形が揺らぐか」

を瞬時に判断する。


ただし、この視線は受け取る側には鋭く感じられる。

特に初心者のキャンバスにとっては、

“見られること”の意味がまだ整理できていないため、

胸元や腹部といった敏感な部分に視線が集まると、羞恥が一気に燃え上がる。


そして最も厄介なのは、

“芸術的視線”と“人間的興味”が、外見では区別できないことだ。

ペインター側は真面目でも、モデルには熱を帯びた視線に見える瞬間がある。

緊張で呼吸が浅くなると、胸がわずかに上下し、その動きが視線を引く。

結果、モデルは「見られている」という感覚を倍増させてしまう。


アイビーの胸元に視線が集まったのは、露出が大きいからではなく、

“ラインが明確で読みやすい部位” だから。

胸の曲線は光を受けて立体を示し、呼吸がその立体に微細な波をつくる。

アーティストにとっては格好の観察対象。

しかしモデル本人には、その意味が分からない。


お蜜の「見るなッ!!」という叫びは、単なる嫉妬だけでなく、

アイビーがその視線の重さに潰されることを恐れたものだった。

芸術的な視線が、モデルの羞恥心と混ざると、境界を失った混乱に変わる。

それを理解しているからこそ、お蜜は“守る”という行動に走った。


こうした視線の文化は、身体表現を扱う現場だからこそ生まれる繊細な力学。


アイビーがこれから踏み込む世界は、ただ描かれるだけの空間ではなく、

視線によって形づくられる心理の舞台でもあるのだ。




──まとめコント──


「ちょ、ちょっと……トップ、ずれてないよね……?」


アイビーは胸元を覗き込むために前屈みになる。

だが、階段に置いた足の位置が悪かった。


腰が後ろへ反り、

厚手デニムのお尻が階段の明かりを受け、やけに立体的に浮かび上がる。


しかも、前に倒れすぎないように片手を壁についてバランスを取ったせいで、

「前屈み+片手支え+お尻突き出し」という、ほぼポーズとして完成された形に。


お蜜の目が細くなる。


「……アイビー? 何その“いま突いてほしいです”みたいな体勢?」


「えっ!? ちがっ、違うの!!

 ちょっと見えないから前に倒しただけで──わぁっ!?」


焦って姿勢を戻そうとしてさらに尻が揺れる。


お蜜は両手で顔を覆いながら、指の隙間から冷静にコメントする。


「……ねぇ、そんなムーブ、プロのペインターの前でやったら即モデル料発生するよ?」


アイビーは真っ赤になってデニムの尻を隠そうとするが、

階段という舞台は逃げ場が狭く、隠す仕草もまたポーズ化してしまうのだった。

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