5話
銭湯を出た瞬間、外気が熱の残るアイビーの肌をかすめ、思わず背筋がぞくりと震えた。
湯上がりのふわりとした気怠さと、うっすら残る石けんの香りがまだ体の周囲に漂っている。
街灯の光がゆらゆら滲んで見えるのは、湯気の余韻が視界に残っているせいだろうか。
隣を歩くお蜜は、なぜかそわそわとして落ち着かず、足取りも少し軽いように見えた。
「……アイビー、ちょっと、聞いてほしいことがあるんだけど」
お蜜の声は、まるで湯気が漏れるように小さく震えていた。
普段の勢いある喋りと違って、言い出す前に何度も呼吸を整えている。
その珍しさにアイビーは目を瞬かせ、タオルで軽く髪を絞りながら歩幅を合わせた。
銭湯帰りの客が何組かすれ違っていくが、ふたりの空気だけは妙に張りつめている。
「なに? そんな慎重な顔して……」
そう言うと、お蜜は唇を小さく噛み、ふっと目を伏せた。
その仕草には、芸術のことを語る前特有の“内側で熱が膨らんでいる”気配があった。
アイビーの胸の奥に、じわりと嫌な予感が広がる。
「……アイビーの身体、また描きたいの」
そのひとことは静かで、けれど真正面からぶつけられた。
アイビーは心臓が跳ねたような感覚に襲われ、思わず足を止めた。
周囲の音が引き延ばされ、街灯の光が妙にぼやけて見える。
湯船に立たされた自分の姿や、お蜜の観察する眼差しが一気に蘇り、首筋まで熱が戻ってくる。
「む、むり!! 絶対無理!! 今日も散々だったじゃない!!」
アイビーは大げさなくらい両手を振って否定した。
しかし声の震えには、羞恥だけでなく、どこか“またあの目で見られる恐怖”が混じっている。
湯気の中で肩甲骨を触察された感触が、まだ肌の奥に残っているせいだ。
「でも……あの線が、本当に忘れられないの……」
お蜜はアイビーの袖をつまみ、今にも泣きそうな瞳でこちらを見上げた。
その瞳は、芸術家が“たった一度見た奇跡の線”に取り憑かれた時のものだった。
アイビーは胸の奥をつかまれたような痛みを覚え、思わず視線を逸らした。
「う、うるさい……! だとしても、私は恥ずかしいのよ!」
否定しながらも、声のトーンは弱い。
親友がここまで真剣なのを前にして、簡単に拒絶できるほどアイビーは冷たくない。
だが、身体を見られることへの羞恥と混乱が、歩幅をさらに小さくする。
「……イベントがあるの。都内のビル地下。
すごく小さくて、紹介制みたいなやつなんだけど……そこで描きたいの」
お蜜は息を吸い、震えた声で続けた。
その言葉には、ただの興味ではない、“どうしても”という切実さがにじんでいる。
アイビーは眉を寄せ、胸に広がった不安を押さえ込むように両腕を抱いた。
「……行くだけ。見に行くだけでもいいから……お願い。
本当に……もう一度、描きたいの……!」
お蜜の瞳はとうとう潤み、アイビーの胸に突き刺さる。
湯上がりで温かくなった体温とは別の熱が胸の奥に溜まり、アイビーは深く溜息をついた。
結局いつもこうだ。お蜜が本気で頼むと、どうしたって弱い。
「……わかったわよ。行くだけ、よ?」
「ほんと!? ……ありがとう、アイビー!!」
お蜜はぱっと顔を輝かせ、思わずアイビーの手を握った。
その手は小さくて温かく、湯気の残り香みたいに優しい。
アイビーは照れ臭さを隠すように手を振り払ったが、本気ではなかった。
「で、そのイベントってどんなやつなのよ」
歩き出したアイビーに、お蜜は少し鼻をすすり、気持ちを整えて説明を始めた。
古いビルの地下、普段は倉庫として使われているスペース。
静かな照明。数人だけのアーティスト。呼吸の音まで聞こえるような集中した空気。
アイビーはその描写を聞くほどに背筋が伸び、緊張が体温に混ざっていくのを感じた。
「イベントではね、“ペインター”と“キャンバス”に分かれて参加するの。
キャンバスっていうのは、“描かれる側”って意味」
「キャンバス……私が?」
「そう。でもね――」
そこでお蜜は、少し照れたように笑って言った。
「私も上は水着で参加だから。
アイビーだけ肌晒せなんて、言わないから……ね?」
その言葉には、なぜか不思議な説得力があった。
同じ条件で参加するという一点だけで、羞恥がほんの少し柔らぐ。
アイビーは思わず視線をそらし、首筋を触って気持ちを落ち着けた。
「で、男性は?」
「男のキャンバスは上半身裸で参加できるんだって。
ペインターは男女問わず上半身水着。
だから危ないイベントじゃないよ。
あくまで芸術の場だし、静かで落ち着いてるの」
お蜜の声には嘘がなく、むしろ落ち着きと信念があった。
アイビーは深く息をつき、胸の奥の不安がわずかに溶けていくのを感じた。
その後ふたりはお蜜の部屋に移動し、打ち合わせへと入った。
テーブルの上にはスケッチブック、筆、色見本。
照明の下でページをめくるお蜜の指先は、湯気の中で観察していたときと同じ熱を帯びている。
「肩のラインはね、ここがすごく綺麗なの。
背中の面も、動くと線が生きるから……ほんと、描きがいがあるんだよ」
説明を受けながら、アイビーはベッド端に座り、膝を抱えて顔を伏せた。
羞恥でいっぱいなのに、お蜜の言葉が妙にくすぐったい。
自分の身体が“絵になる”と言われる体験は人生で初めてで、複雑なのに少し嬉しい。
「……ほんとに、変なことはしないんでしょうね?」
「しないよ。アイビーの線を尊重するだけ。
だって――アイビーは、私の描きたい“いちばん綺麗な線”なんだもん」
その言葉は静かで、湯上がりより温かく胸に残った。
◆ 第5話おまけ:お蜜の「世界と日本のボディペイント事情」メモ
ねぇ、アイビー。
今日説明した“地下イベント”のこと、あらためてちゃんと書いておくね。
あなたを無理やり巻き込んでるみたいに見えるのは嫌だから、
なるべく正確に伝える。ほんとは芸術用語をもっと使いたいけど、
わかりやすい言葉で書く努力はする。努力はね。
① 私たちが行くイベントは、“美術寄りの小規模セッション”
まず大前提として――
あれは“怪しい場所”じゃなくて、
アーティスト数名が作品研究のために借りてる、半分アトリエみたいな空間。
紹介制なのは、変な客が来ると集中が壊れるから。
(あと、普通の人は作品制作を見るとビックリするので、配慮でもある)
参加者は
描く側=ペインター
描かれる側=キャンバス の2種類だけ。
どっちも上半身は水着で参加。
理由は簡単で、「肌の面が見えないと作品にならないから」。
でも裸は禁止。芸術の研究目的って公言してる以上、線引きは厳しい。
あの場所で大事なのは“色の呼吸”。
喋り声さえ小さくなるくらい、描く音と、絵具を伸ばす音だけが空気を支配する。
普通のイベントの賑やかさとは真逆。
美術大学の実技試験の静けさを、少し柔らかくした感じ。
② 日本国内のボディペイント情勢(※意外と多い)
これは、あなたが心配してた“特殊な文化じゃないの?”って疑問に答えるために書く。
日本では、フェイス&ボディペイントはイベント業界で普通に需要がある。
特にハロウィン・商業施設のフェス・アート展示・壁画ワークショップなど。
資格講座や協会も存在してて、安全な塗料や技術の講習もある。
だから“怪しい”ではなく“認知されている一分野のアート”という位置づけ。
ただし――本格的な“身体そのものをキャンバスとするアート”は、
派手に広告を出さず、小規模で静かに行われることが多い。
理由は二つあって、
□公共の場だと、芸術と露出の線引きが難しい
□描き手もキャンバスも集中したいので、少人数制が最適
だから私たちが行く地下イベントは、実は世界観としてすごく自然。
国内でも、似たスタイルのアーティストは一定数いる。
③ “キャンバス”という役割の意味
キャンバスって言うと受け身に聞こえるけど、本当は“作品の半分を担う存在”なんだよ。
身体の角度、息の深さ、肩の落ち方……全部が色の表情に影響する。
私にとってキャンバスは、「描かせてもらう相手」じゃなくて「一緒に作品を生む相棒」。
たぶん、あなたがまだ恥ずかしく感じるのは当然。
逆に言うと、その“恥ずかしい”という感情も線に現れるから、芸術的にはとても貴重。
……アイビーは嫌がるだろうけど。でも、それも含めて大好き。
◆ ④ 最後に:今回あなたを誘った本当の理由
アイビー、正直に言うね。
湯気の中で見たあなたの“肩の線”、あれ……まだ私の中で暴れてるの。
寝ても醒めても輪郭が揺れて、スケッチしようとしても別人の線になる。
本物がいないと、あの線は存在してくれないの。
私の記憶じゃ追いつけない。
そして――言わなかったけど、その腰のくびれはさらに危険。
光が触れた瞬間に形が変わって、
まるで「捕まえられるもんなら捕まえてみろ」って挑発してくるみたいだった。
あんな線、今まで一度も出会ったことがない。
描こうとした瞬間、逆方向に逃げるように曲がって……
私、あれを“理解できないまま”でいるのが耐えられない。
だからイベントに誘ったのは、作品のためというより、
あなたの線を“私自身が理解するため”なの。
あの肩と、あのくびれを前にした時だけ、
私の中の何かが……理性より先に動いちゃう。
怖がらせたくないけど、あなたの線は、私にとってちょっと危険なんだよ。
でも、アイビーが不安にならないよう、私も同じ条件で参加するから。
上は水着。描く時も距離は守る。
あなたの線を守ることだけは絶対に約束する。
……以上。これで少しでも安心してくれたら嬉しい。




