4話
「アイビー、今日ちょっとスーパー銭湯行かない?」
放課後、お蜜が鞄を肩にかけながら言った。
美大帰りの顔をしているのに、妙にキラキラしている。
「なんで急に?」
「昨日の散歩で思ったんだけどさ……身体って、湯気の中だと線がどうなるのかなって」
「はい芸術家スイッチ入りましたー。理由が意味不明です」
「とにかく行こう。見たいの」
「見たいって言うな!」
文句を言いつつ、結局ついていく自分にも呆れながら、
アイビーはスマホで「露天」「高濃度炭酸泉」「サウナ・水風呂あり」
と書かれた施設の入り口に立っていた。
脱衣所では普通に友達として喋っていたのに、
浴場の暖簾をくぐった瞬間──お蜜の目つきが変わった。
「アイビー、ちょっと立って」
「え、湯入る前に?」
「うん。湯気に当たった肌の色、まず確認したい」
「確認って何を!?」
お蜜は湯気に濡れるアイビーの肩をじっと見つめた。
その視線は昨夜の“あの目”に似ている。
芸術家が“線を捕まえた”時のやつ。
「……肩のアウトライン、湯に溶けるかと思ったけど逆にくっきりしてきた。
やっぱりアイビーの肩ってさ、形が良すぎるんだよね」
「褒められてる気がしないんだけど!」
とりあえず湯船に入りながら、アイビーは髪をまとめて結い直す。
ふう、と息をついたところに──
「アイビー、背中向けて。光が綺麗」
「……はいはい」
湯気の中で背を向けると、すぐにお蜜が寄ってくる。
距離が近い。というより近すぎる。
「お蜜? なにして──」
指先がそっとアイビーの肩甲骨に触れた。
撫でるのではない。
形状を探る“触察”だ。
「やっぱり……この角度……いい。
肩甲骨、呼吸でこんなに動くんだ……っ」
「やめろぉ……! なんで湯船で触察してんのよ!!」
お蜜は興奮しているのに、性的ではない。
完全に“構造を見つけてしまった美術学生の目”だった。
「ねぇアイビー、ちょっと腕あげて」
「湯船で!? 今!?」
「そう。その方が線が見える」
「しゃーないなぁ……」
腕をゆっくり上げると、湯から滴る雫が二の腕を走る。
その一粒一粒に、お蜜の目が細められる。
「ほら! この滴の曲線、完璧じゃん……!
あと二度上げて」
「角度、細かっ……!」
周囲の客がちらりと見るが、アイビーはもう羞恥で疲れ、諦めに入っていた。
「で? 湯に入ってまで何を研究してるわけ?」
「アイビーの“線の崩れ方”。湯気で柔らかくなるのが見たかった」
「今さらっと変なこと言ったよね?」
「あと鎖骨の影の伸び方がすごく綺麗」
「鎖骨まで!?」
湯船の縁に移動したお蜜が、今度は手でアイビーの腕を軽く持ち上げる。
「ちょ、近いって! お蜜、百合とかじゃないの知ってるけど、近い!」
「これは観察。芸術。はい、次。胸張って、骨盤はちょっと後ろに」
「なんでポージング指示されてんの私!?」
「モデルさん、湯気で線がぼけるので、もう少し肩を後ろに」
「モデル!? 私、今モデルなの!?」
「え、知らなかったの? ずっとそうだよ」
「言えよォ!!」
だが指示される通りに動いてみると、不思議と“身体が意味を持つ瞬間”が生まれる。
昨日もそうだった。お蜜の視線は恥ずかしいけど、信頼はある。
「はい、その角度すごい。
待って、アイビーそのまま止まって……うわ、すご……」
「すごいって言われても困る……!?」
湯気がふたりの間をゆらゆらと揺れ、アイビーの肌を柔らかく包む。
その向こうで、お蜜は完全に研究者だった。
「……これ、湯気という“フィルター”を通すと、
肌の面が消えて線だけ残るんだ。昨日の夜とはまた違う……っ」
「お蜜、語りが難しすぎ……!」
腕、肩、背中。
お蜜は手のひらで“面”を確かめながら進んでいく。
アイビーは湯船で半ば諦めモード。
「アイビーさ、ちょっと立って」
「湯から!? 今!? 湯冷めするわ!!」
「大丈夫。研究だから!」
「研究のために私が犠牲になる理由なに!?」
しかし言い合いながらも、アイビーは湯から立ち上がる。
ぽたり、と滴が脚を伝う。
「はい、モデル立ち。重心は左、首は少し右」
「ウソでしょ、ここ銭湯だよ……?」
「でも光がいいの。湯気と反射で線が生きる」
「線が生きる……じゃないのよ……」
仕方なく言われる通りに立つ。
湯気の奥から、数人の客が「なんだあれ」という目で見る。
恥ずかしさで死にそうだ。
「お蜜!! 見られてるから!!……って触んな!!」
「今の角度、完璧なのに……! モデルが動くと作品が……!」
「私は作品じゃない!」
「アイビーは作品」
「勝手に決めるなぁ!!」
しかし最終的には二人の笑いが湯気に混ざり、アイビーは湯船に沈み直し、
お蜜は“今日の収穫”を目を輝かせて語り続けた。
「アイビー、本当にありがとう。今日の線、すごく良かった」
「いや……まぁ……お蜜が楽しそうならいいけど……」
「次は露天でやろうね」
「やらないよ!? 絶対やらないからっ!!」
◆ 第4話おまけ:お蜜の「湯気のアトリエ」観察ノート
① 湯気という“天然ディフューザー”について
今日最大の発見は、湯気が“面を殺し、線を生かす”という事実。
人体という立体物は、本来「面(平面の連続)」で把握するものなのに、
湯気がかかると、面の情報が霧に吸い込まれ、輪郭線だけが前に出てくる。
アイビーの肩を見た瞬間、「線が浮いてる……!」
と声にならない叫びが出た。(実際は小声で“うわ…”って言っただけ)
あの現象、教科書に載せたい。
湯気って、芸術的には“半透明の天使”。
② 湯に濡れた素肌は光を散らす
アイビーの肩に触れたとき、肌の上で光が“散乱”していた。
濡れた肌は乾いた肌より反射が柔らかく、光が点じゃなくて“面光源”みたいに広がる。
だからアイビーの鎖骨は、光のグラデーションが自然発生していた。
湯船ってただの癒しどころじゃない。
あれは人間の形状を理解するための“立体観察装置”。美大に置くべき。
③ 湯から上がる瞬間の一滴は“最高の線破壊者”
湯船から立ち上がったアイビーの腕を見たとき、
滴が一筋、肘から落ちていった。
あの瞬間、描こうとしていた“完璧な曲線”が見事に壊れた。
でも破壊された線が美しかった。
まるで“線が自分の意思で逃げていく”みたいで、一瞬だけ息が止まった。
結論:滴は敵ではなく、予測不能な味方。
④ 肩甲骨は湯に浸かると“開く”
今日の一番のウソみたいな本当の収穫。
アイビーが湯船で深く息をした時、肩甲骨が湯の熱でゆるみ、
普段の角度より1~2度「開いた」。
これだけで背中の陰影がまったく違う。
美術解剖学の資料で見た肩甲骨より、
アイビーの肩甲骨のほうが ぜんぜん美しい。
湯船でデッサンさせてくれるバイトとかないのかな。
⑤ モデル立ちの完成度と、その時のアイビーの顔
モデル立ちをお願いしたとき、アイビーは完全に“諦め顔”だった。
でもその瞬間、重心が自然に整って、S字がきれいに出た。
芸術としては満点。本人の気持ちとしては0点。
でも私は確信した。アイビーの身体は、線を呼ぶ身体だ。
そして、湯気の中での彼女の立ち姿は、
昨日の散歩で見た“色の揺れ”に匹敵する美しさだった。(※あとで謝ろうと思う)
⑥ 今日最大の反省
アイビーに触察の許可をちゃんと取ってなかった。
勢いで触ってしまった。
友達としてごめん。芸術家としては……どうしても触りたかった。
「肩甲骨が……!」と思った瞬間、
頭の中に教授の「観察せよ」がリフレインした。
本当に反省してる。でも、また見たい。
⑦ 今日の結論
湯気の中の素肌は、“素肌のアトリエ”のもう一つの形。
夜の散歩とは違う。色はなくても、線が生まれる。
そして、アイビーの身体は、私の筆より先に世界を描く。
これをちゃんと作品に昇華させたい。
ただし、次は怒られないように段取りする。(怒られる未来しか見えない)




