3話
以前から追いかけてくださっている読者さまはご存じの通り、
『緊縛の美』とはまったく別世界の物語になります。
舞台も空気も違い、縄も登場しません。
ただし──登場人物の“ある過去”を辿ると、
いつかどこかでうっすら線が交わるかもしれません。
そんな“遠い気配”のようなものだけ、ほんの小さく残してあります。
物語の主軸は、アイビーとお蜜。
酔いの勢いから始まった悪ふざけが、
素肌をキャンバスにするという、
思いがけない表現へ変わっていく青春アートストーリーです。
日常回はゆるくて騒がしく、
ペイント回は静かに芸術へ潜っていきます。
緊縛の美とは違ったテンポで、のんびり読んでいただければ嬉しいです。
これからも作品を楽しんでもらえるよう、更新していきます。
よろしくお願いします。
翌日の午前、薄く曇った空が芸術棟の窓に淡く映っていた。
お蜜はいつものように教室に入り、油絵のにおいと溶剤の刺激に鼻をしかめながら席に着いた。
キャンバスは目の前にある。筆も絵具も揃っている。
けれど、授業が始まっても、まったく集中できなかった。
「蜜花さん、今日、手が止まってますよ?」
教授に声をかけられ、お蜜はペコリと頭を下げた。
その時も返事はしているのに、心は昨日の夜に引き戻されていた。
──アイビーの肌の上で揺れた色。
あの瞬間の線。
あの震え。
筆を握っているはずなのに、昨日、筆先が触れた“温度”ばかりが手に残っている。
お蜜はキャンバスを一度見つめたが、絵具の色がどうにも平たく見えた。
どれだけ混ぜても、塗っても、昨日の「揺れる線」には届かない。
「……違う。ぜんぜん違う」
小さく呟いて、お蜜は筆を置いた。
授業は人物デッサンの時間だった。
同級生たちは各々集中してモデルを描いている。
なのにお蜜だけは、鉛筆を持つ抜けた手つきのまま、紙の上に一画も生まれない。
ねぇアイビー、動かないで。線が逃げる──
昨夜の自分の声が、ふいに耳の内側で蘇る。
あれは酔いでも勢いでもなかった。
“描き手としての本能”が、アイビーの身体で目覚めた感覚だった。
あの夜の散歩。
街灯に揺れる肌の色。
歩くたびに形を変える、呼吸する線。
「……平面じゃないんだよなぁ……」
お蜜は机に突っ伏した。
教授に怒られるが、それでも身体の火照りが抜けない。
アイビーの肩の曲線。
腕のねじれ。
鎖骨を沿って走った金色のライン。
あれはキャンバスでは再現できない「動く構造」だった。
お蜜は胸の奥に灯った高揚を必死に抑えようとした。
でも、抑えると余計に膨らんでしまう。
「素肌……アトリエ……」
ぽつりと呟いた。
言葉が落ちた瞬間、身体に電流が走る。
お蜜は背筋を伸ばし、目を大きく開いた。
素肌がキャンバスなのではない。
素肌そのものが“アトリエ”になる。
描かれた瞬間に完成するのではなく、
動けば変化し、光が当たれば別の顔を見せ、
描き手の意思を超えて作品が“自走”する。
「……あれはアトリエだったんだ。アイビーの体全部が……」
独りごとが止まらない。
紙の上ではなく、肌の上にしか起きない現象。
線が呼吸し、色が鼓動するように見えた理由が、ようやく腑に落ちた。
モデルの呼吸、鼓動、微妙な体重移動──
生きた身体は、アトリエの空気そのものを変えてしまう。
昨日のアイビーは、ただ歩いていただけで、
お蜜には“作品が大きく動く瞬間”に見えていた。
「やば……これ、たぶん一生モノの感覚だ……」
笑うしかなかった。
教授の説明は完全に耳に入ってくる気配がない。
お蜜はバッグからスケッチブックを取り出し、
昨夜のアイビーの肩を思い出しながら線を引いた。
最初の一画は震えていた。
だけど二画目、三画目と続けるうちに、昨日の輪郭がゆっくりと紙の上に現れはじめる。
──でも、それはやっぱり昨日見たものには届かない。
紙は呼吸しない。
紙は揺れない。
紙は、動かない。
「やっぱり違う……紙じゃだめなんだ……」
お蜜はスケッチブックを閉じた。
胸の奥に渦巻き続ける言葉がひとつあった。
“また描きたい”
それもキャンバスではなく──
アイビーの素肌に。
気づけば授業は終わっていた。
お蜜は教授に呼び止められたが、上の空の返事しかできない。
友人に肩を叩かれて笑顔を作ったものの、
心の中心にはアイビーの肩の光景がこびりついて離れなかった。
キャンバスの白より、
絵具の鮮やかさより、
昨日の夜風に揺れた色がいちばん美しかった。
「……今日、アイビーに会おう」
そう決めた瞬間、胸が軽くなった。
会いたいというより、
“描き手としてどうしても確かめたい”という衝動に近かった。
アイビーはどう思っているだろう。
怒っているかもしれない。
もう二度と描かせないと言われるかもしれない。
それでも──昨日見たあの光景だけは、
お蜜の中で「これだ」と言える確信になっていた。
素肌こそが、あの夜のアトリエだった。
あの瞬間をもう一度見たい。
「……帰りに連絡しよ」
そう呟いたお蜜の顔には、
芸術家の火がくっきりと灯っていた。
◆ 3話おまけ:美大生 蜜花(お蜜) の一日の授業メモ
■ 1限:デッサン(人物)
モデル台のライトがやたら蛍光気味で、肌の陰影が死ぬ日。
教授は「面を取れ」「骨格を意識しろ」と言うけど、
本当にやるべきは “呼吸のテンポを読むこと”。
モデルの肩甲骨が息で1mm動く、その揺れを線に反映させられるかが勝負。
お蜜いわく「この1mmに全部ある」。
だいたい周りは聞いてない。
■ 2限:立体基礎(粘土)
石膏像を触らせずに形を取らせる意地悪な回。
“手で見る”訓練。
粘土で球体を作る時、初心者ほど握って潰し、上級者ほど “指を使わない”。
外側ではなく、中心の密度を均一にする意識が必要。
お蜜はなぜか粘土を触りながら昨日のアイビーの肩の曲線を思い出し、
「球より肩のほうが難しい……ていうか美しい……」と危険な方向に思考が飛ぶ。
■ 3限:色彩学
Munsell表を見せられる退屈な回。
でも実際の現場では、この理論が一番裏切り者。
教科書の“5R”の赤は、肌の上だと2度暗く寄る。
特に人体の曲面では “屈折光” が加わって、
同じ色でも位置で青みが強く見える。
お蜜は昨日のアイビーの肩でこの現象を体験し、
授業中にひとりだけ真面目に感心していた。
■ 4限:美術概論
有名画家の技法を延々と講義される眠りの時間。
だが、この授業こそお蜜のメモが最も混沌とする。
教授はセザンヌを語っているのに、
お蜜はノートに「素肌=呼吸するキャンバス」「色は生き物」と独自の理論を書き始める。
教授の言葉より、昨日の散歩のほうが刺激的だったからである。
(ノートを見返すと“素肌のアトリエ”の文字が3回出てくる。)
■ 5限:制作演習(個人)
学生が自由に描く時間。
が、自由と言われると逆に手が止まるのが美大あるある。
周りは油絵やパネル作業に集中しているが、
お蜜だけは“紙の上に線が生まれない”という沼にハマる。
理由:紙が呼吸しないから。
昨夜のアイビーの揺れる線を知ってしまったお蜜は、
平面に戻るのが不可能になりつつあった。
■ 6限:批評会(地獄)
教授と上級生が順番に作品を見ていく公開処刑タイム。
「ここ、迷いがありますね」
「全体の統一感が……」
“迷ってるのは私じゃなくて世界のほうだよ”と心で呟きつつ耐える。
お蜜の作品は「勢いはあるけど粗い」と評されることが多いが、
昨日の線の記憶が残っている今日は、逆に褒められた。
理由:思い出しながら描いた線が、妙に“生きてた”から。
■ 放課後
本来なら学生は図書館かアトリエで続きの作業をする。
だが今日は違う。
お蜜の頭には “アイビーの肩の色が風で揺れた瞬間” だけが残っていて、
それが授業のどんな内容よりも鮮烈だった。
最後のメモにはこう書かれていた。
「今日の授業、全部アイビーの素肌のせいで台無し。
でも、あんな線を見せられたら……そりゃ台無しになるよね。」




