2話
※本作品の“露出”描写はすべて芸術表現としてのもので、
性的な意図は一切ありません。
夜風が肌を撫でるたび、まだ乾ききらない絵具がひやりと揺れた。
アイビーは腕を胸に寄せるようにして早足になり、
周囲を気にしながらお蜜の少し後ろを歩いていた。
「……ねぇ、ほんとに歩くの?」
声が上ずっている。
自分の肩から上腕にかけて、赤と金と青の線がまだ生々しく残っている。
光が当たれば、きっと誰が見ても分かる。
「三十分だけ! ほら、夜だから。暗いから。
色だけが生きてるって感じがさ……すごいんだよ、アイビーの肌」
お蜜はすっかり芸術家の顔になっていて、酔いが入っているのに目だけは真剣だった。
「いや、私の肌なんだけど……! 誰かに見られたら……」
アイビーは囁くように言い、また周りを見回す。
道を歩く人影が近づいてくるだけで心臓が跳ね、袖をめくったままの肩を必死に隠す。
“こんな格好で歩いてるなんて、バカじゃないの?”
羞恥が波のように押し寄せてくる。
けれど、それ以上に胸の奥がざわついている。
怖いのに、歩みを止められない。
「見られたくないのに……止まりたいわけじゃないって、どういうこと……?」
自分でもよく分からない。
でも確かに、二歩目も三歩目も、脚は前に出てしまっていた。
お蜜がふいに立ち止まり、アイビーの肩に触れた。
絵具が乾いた部分が少しだけざらりとして、お蜜は目を細める。
「……ねぇ、見て。ほんとに生きてる。呼吸して動いてるみたい」
お蜜の声は震えていた。
酔いのせいだけではない。
作り手が作品の“瞬間”を見てしまったときだけに出る種類の震えだった。
アイビーは、なんとなくその意味が分かった。
お蜜が描いた線は、ただの落書きじゃない。
夜風で揺れて、歩くたびに形が変わり、光で濃淡が変わり、
まるで自分の心の鼓動と連動しているみたいだった。
「アイビー、あなたの肌、すごい……。筆が走ったときより、いまがいちばん綺麗」
お蜜は言いながら顔を寄せ、絵具の走った肩を食い入るように見つめた。
視線が熱を帯びていて、アイビーは恥ずかしさに身を縮める。
「ちょ、近い……! なんでそんな真剣なの……?」
「だって、こんなの初めてなんだよ。平面じゃ絶対に起きない。色が……呼吸してる。
アイビーが歩くたびに、作品の方が勝手に動くの。
私が描いた線なのに、もう私の手を離れちゃってる」
お蜜は酔っているのに、涙が少し光った。
笑っているようで、感極まっているようでもある。
アイビーは胸が締めつけられた。
自分の身体が、こんなふうに誰かを動かすなんて考えたこともなかった。
通りの向こうに人影が見える。
アイビーの鼓動は跳ねあがり、袖を慌てて閉じようとしたけれど──
お蜜が止めた。
「大丈夫。いまのアイビー、すごく綺麗だから」
その一言が、羞恥と高揚をごちゃまぜにして胸に落ちた。
見られたくない。
でも、見られたくないわけじゃない。
そんな矛盾がぐるぐると回り、足元がふわふわする。
気がつけば、三十分の散歩が終わりに近づいていた。
色はところどころ乾き、ところどころまだ湿って揺れている。
街灯の下で揺れる色は、肌と混ざり合って淡く発光しているように見えた。
“こんな夜、二度と来ないかもしれない”
そんな予感が胸に残った。
────────
朝、目が覚めた瞬間にアイビーはベッドで顔を覆った。
昨夜の散歩が、頭の中で一気に再生される。
「……うわぁ……なにやってんの、私……」
羞恥が全身を包み、布団の中で転がった。
あんなに大胆なことを、自分がしたなんて信じられない。
誰かに見られていたらどうするつもりだったんだろう。
けれど、後悔だけではなかった。
肌の上で色が揺れたあの瞬間、
お蜜が息をのみ、線を見つめて震えていたあの眼差し。
“作品になったみたいだった”
思い出すだけで胸がじんとした。
ただ見られる身体じゃなく、
ただ隠す身体でもなく、
自分の素肌が世界と繋がる感覚。
今まで感じたことのないものが、確かにあった。
「……また、描いてみたい……のかな」
呟いた自分の声が、少しだけ熱を帯びていた。
昨夜の悪ふざけは、アイビーの内側に
新しい扉の隙間をつくってしまったらしい。
◆ 2話おまけ:お蜜の昨夜の色に関するメモ書き
①【使った塗料の話】
昨日アイビーの肌に乗せた色は、市販のアクリル絵具じゃなくて“水性ボディペイント用”。
普通の絵具と違うのは、乾くと薄膜みたいに肌に沿って動くところ。
その“動く”感じが、昨日の線の揺れを生んだ。
アイビーの肩の曲線に引っ張られて、色がちょっと伸びたの、あれ偶然じゃない。
肌って、キャンバスより正直で、ずるいくらい美しい。
②【落ちるの?問題】
落ちる。落ちるけど……落ち方にも“表情”がある。
昨日みたいに風を受けて乾燥した色は、普通のボディーソープでほぼ落ちる。
ただ、金のラインだけは少し粘るから、泡を乗せてから馴染ませて落とすと綺麗。
あの金、残ってたらそれはそれで“余韻”なんだけどね。
③【筆の正体】
昨日使った筆? あれは“和筆の細軸”。
用途としては本来、文字とか細い装飾に使うんだけど……
昨日のアイビーの肩を見た瞬間、
「細筆じゃ追いつかない。けど太筆じゃ野暮」って直感が騒いだ。
曲線に呼吸があったから、細軸の筆先で“震え”だけ拾ったの。
あの震えが、アイビーの線を生きものにした。
④【色の持ち時間】
肌に乗せた色が“作品として生きてる時間”は約40分〜90分。
歩く・笑う・風に触れる……全部が色を変形させる。
昨日の散歩、ちょうど中盤あたりで線がいちばん綺麗だった。
あの時間帯だけの作品。二度と同じ線は描けない。
それってちょっと……胸が苦しいくらい素敵。
⑤【昨夜の最大の発見】
アイビーは“色を受ける身体”をしてる。
筆を入れた瞬間もよかったけど、歩いた時の揺れで一気に作品になった。
描いた私じゃなくて、動いたアイビーが作品を完成させたの。
これ、キャンバスじゃ絶対に起きない。
昨日みたいな線の生まれ方を見せられると、
私のアトリエは紙じゃなくて……ほんとは“素肌”なのかもしれないって思う。




