11話
完成した線が静かに呼吸していた。
アイビーの素肌に乗った金と青の二層線は、照明の角度に合わせて微かに揺れ、
まるで彼女自身の体温で脈を打っているかのようだった。
その様子に最初に気づいたのは、近くで工程を見守っていた年配のプリンターで、
目を細めながら低く感嘆の息を漏らした。
「……これは、すごいな。線が“生きてる”」
その一言を皮切りに、周囲のプリンターや参加者たちが吸い寄せられるように集まってきた。
アイビーは腹部を軽く押さえるように腕を下ろし、視線が刺さる感覚に身を縮める。
にもかかわらず、線は逃げるどころか、
彼女の小さな呼吸の揺れを拾って輝きを増しているように見えた。
「お蜜ちゃん、これどういう描き方……いや、どこから線を拾ったの?」
「二層の揺れ方、前面でこんなに破綻しないの初めて見たぞ」
「このモデル……いや、このキャンバス。筋肉の面の出方がよすぎる」
称賛が一斉に飛ぶ。
普段なら混ぜ返したり受け流したりするお蜜は、珍しく表情を緩ませ、
誇らしげに筆を片付けながら答える。
「この子の呼吸がいいの。背中のときもそうだったけど、揺れが線を導いてくれるの。
私が描いたというより……アイビーの身体が、私に線を教えてる感じ」
その言葉に、数人が一斉にうなる。
技術の話になると饒舌になる彼らは、線の始点、筆圧、呼吸の拾い方、
カラーの配分といった細かな議論へ入り、作品の前に立つアイビーは取り残されていく。
胸の下に残る金の軌跡が視界の端でちらちらと光り、今すぐ服を着たい気持ちと、
この場の空気を壊すのが怖い気持ちがせめぎ合っていた。
「……お蜜、あの、そろそろ服……」
恐る恐る声をかけたが、お蜜は熱に浮かされたような集中で振り返りもしない。
「ちょっと待ってて。いま、この“揺れの保持”について話してるの。
今日の線は、めったに出ないタイプだから」
まるで宝物を前にした子どものような声音だった。
アイビーは言葉を飲み込み、胸の奥がざわりと揺れる。
(……私の身体なのに、私の声ってこんなに届かないんだ)
そのとき、横に影が立った。
リッキーだった。
「……落ち着かないだろ?」
低い声が耳に触れる。
アイビーは反射的に肩をすくめた。
「……落ち着かない、です。見られすぎて」
「そりゃ見られるさ。お前の線は、今日いちばんの“獲物”だしな」
“獲物”という言葉があまりに直接的で、アイビーは息を呑んだ。
だがリッキーは続ける。
「悪い意味じゃない。キャンバスとして、だ。俺はさ……お蜜の線も好きだが、
お前の“揺れ”ももっと見てみたい。もし嫌じゃないなら、俺にも描かせてくれないか?」
「……え? わ、私に……?」
「そうだ。お前をキャンバスとして扱ってみたい、って意味だ。モデルとしてじゃない。作品としてだ」
胸の奥がざわりと大きく揺れた。
背中に描かれた線が、内側の感覚まで拾ってしまうような錯覚に陥る。
「……私、こういうの、初めてだから……どうしていいか……」
「断りたいなら断れ。怖いなら逃げてもいい。でも――」
リッキーは声を落とす。
「“断る理由がないから迷う”なら、それは興味があるってことだ」
そこへ、知らない女性の声が横から滑り込んできた。
「断る理由がすぐに出ないなら、描かせてあげれば?」
振り返ると、見覚えのない女性プリンターが、淡々とした表情で立っていた。
お蜜と同年代に見えるが、線を読む目だけは鋭く、どことなく現場慣れした空気を持っている。
「あなたがどうしたいかだけだよ。お蜜の作品がすごかったのは事実だけど、
作品は一人に独占させる必要なんてない。あなたは“素材”でしょ?
素材が誰に描かれたいか、それだけ」
言い方は淡泊なのに、異様に説得力があった。
アイビーの胸の奥に、焦りとも期待とも言えない何かが渦を巻く。
「……私……」
答えかけたその瞬間、談義の渦中にいるお蜜が笑いながら何かを語っている声が耳に届いた。
楽しそうで、誇らしげで、熱に浮かされたような声だった。
(……お蜜、私が困ってること、全然気づいてない)
その事実が小さな棘のように胸へ刺さり、痛みとも寂しさとも違う感情へ変わっていく。
「――場所を変えようか」
リッキーが静かに言った。
「ここだと落ち着かねぇだろ。近くにコーヒーショップがある。人目も少ない。
作品のまま歩くのはちょっとスリルがあるが……やってみるか?」
提案は軽く、声は低く、誘いは強い。
女性プリンターは肩をすくめるだけで、干渉する気はないらしい。
「……行こうか」
気づけば、アイビーの口が動いていた。
リッキーは表情を変えなかったが、その瞳の奥がわずかに温度を上げた。
「じゃあ、行こう。ゆっくりでいい」
視線とざわめきを背中に感じながら、アイビーは会場を後にした。
腹部の金の線が歩くたび微かに揺れ、外気に触れると肌の感覚がより鋭くなる。
まるで、自分の身体がまだ作品として生きているようだった。
お蜜がその背中に気づくのは、まだだいぶ後のことになる。
◇
イベント会場から数分歩いたところに、アングラ系の常連がよく利用するコーヒーショップがある。
表向きは落ち着いた店構えだが、描かれたモデルやプリンターが作品のまま立ち寄ることで知られており、
スタッフも常連も暗黙の了解を共有していた。その夜、扉が開いて現れた二人は、店の空気をほんのわずか揺らした。
肩に大判のブランケットをふわりと掛けたアイビー。
その下から覗く金と青の線は、歩くたび呼吸とともに揺れて、
乾きかけの絵具が照明を受けて微かに光る。水着の上に描かれた線だからこそ、
布の隙間から覗く肌の緊張が余計に映えて、視線を奪う存在になっていた。
リッキーはその横で、警護のように自然に庇う位置を歩き、
店内へ入ると同時に空気がスッと落ち着いた。
カウンターに立つ女性店員・美咲は、二人を見た瞬間から胸の奥がざわついた。
線の美しさも、体のメリハリも、ブランケットの隙間から覗く柔らかな胸元も、
どれを取っても「恵まれた素材」の象徴のようで、目をそらそうとするほど妬ましさが湧いた。
(……なに、この子。くびれ、綺麗すぎじゃん。あの線が映える体って、それだけで反則なんだけど)
アイビーが遠慮がちに注文を告げる声は控えめで、その“萎縮した可愛さ”すら完璧に作用していた。
美咲は笑顔の接客の裏で、胸の奥に苦い棘を抱えたまま再び視線を奪われる。
一方、奥では男性店員の圭吾が、リッキーを見つけてすぐ身を乗り出した。
「リッキーさん……今日の子、やばいですよ。括れ完璧じゃないですか! しかも巨乳!
どこで見つけたんですか、あんな素材」
興奮を抑えきれない小声。
アイビーには届かないが、リッキーにははっきり聞こえる距離だった。
リッキーはニヤリと口の端を上げ、ほんのわずか胸を張った。
「だろ? いいだろ。……まぁ、いろいろあってな」
恋人でも契約モデルでもないのに、その“自慢げな空気”はあまりに正直で、
圭吾も呆れ半分、羨望半分で肩をすくめた。
アイビーは二人の会話を完全には聞き取れなかったが、言葉の断片と、
男性店員がリッキーに向ける露骨な賞賛の表情を見て、胸の奥がふっと熱を帯びた。
(……そんなに自慢になるんだ、私。リッキーさん、あんな顔で褒められて……嬉しそう。
だったら……言ってくれれば、もうちょっとちゃんと見えるように歩いたのに。
……なんか、この人、可愛いところあるじゃん)
リッキーはアイビーの方へ戻り、いつものぶっきらぼうな声で言った。
「ほら、座れよ。あんま見せまわされるの嫌だろうし、俺の横なら安心だろ?」
強面なのに、どこか優しい。その言葉にアイビーは一瞬ためらい、
ブランケットを指でつまんで胸元へ寄せた。
しかし、カウンターで褒められて得意げにしていたリッキーの顔を思い出すと、
胸の奥で別の感情が芽を出した。
(……自慢してくれるんなら、少しぐらい見せてもいいよね)
アイビーはゆっくり席に座りながら、そっとブランケットをずらした。
金の線が腹部から胸元にかけて柔らかく弧を描き、
水着のカットラインと重なるようにしてバストの丸みを引き立てる。
照明の角度で線が生きるのを確認するように身体を傾け、
まるで“作品として見せる姿勢”のまま座った。
リッキーはその動作のすべてを、言葉も出さずに追っていた。
そして──何も言わないまま、口元だけがゆっくりと持ち上がった。
職人の誇りでも、男の欲でもなく、
“自慢の子を連れてきた男”の、あまりにわかりやすい笑み。
アイビーはそれを見て、小さく息を吐き、心の中でつぶやいた。
(……ほんとだ。意外と可愛いところあるんだ、この人)
《素肌アトリエ技法辞典/ハイクオリティキャンバスのモテ具合》
ハイクオリティキャンバス(High-Quality Canvas)とは、
単に「肌が綺麗」「体型が整っている」といった表面的な意味ではない。
ペインター側から見て、“線が乗った瞬間に作品として成立する身体” を指す専門用語であり、
その希少性ゆえにモテ方も一般的なそれとはまったく異なる。
まず特徴的なのは、本人に自覚がないまま、ペインター層からの視線を強く引き寄せる 点だ。
これは性的な意味ではなく、素材としての完成度が高すぎるがゆえに、
職人ほど“描きたい衝動”を抑えられなくなる。
肩甲骨の動き、腹直筋の起伏、呼吸の揺れ、皮膚の光の拾い方
──これらがすべて線を導く形で整っている身体は、ペインターにとって誘惑に近い。
ハイクオリティキャンバスはまた、描かれる瞬間の反応そのものが線の一部になる ため、
モデル本人のわずかな羞恥や緊張が作品の魅力として可視化される。
結果として、描いた側は“自分の技量が数段上がった錯覚”すら覚えることがあり、
これがペインター特有の“惚れ”に近い感情を引き起こす。
さらに厄介なのは、周囲の観察者までもがその魅力に引っ張られることだ。
線が揺れるたびに身体の構造が浮き上がり、動態美として成立するため、
ペイント会の空気そのものがキャンバスを中心に再配置される。
結果として、本人が何もしていなくても“中心人物扱い”されやすくなる。
ただし、最も強いモテ効果を発揮するのは、
キャンバス自身が“描かれる悦び”にほんの少しだけ気づいたときだ。
羞恥と自信が同居し、見せ方を自然に調整し始める。
この瞬間、ペインターも観客も同じ温度で心を掴まれ、
作品としての価値と個人としての魅力が重なり合う。
ハイクオリティキャンバスとは、作品と人間が最も美しく接続する稀有な存在であり、
モテるのではなく“求められてしまう身体”と言える。




