バケモノ sideシリル
シリルは伝わらない思いに泣きそうになった。
正直、目の前の貴族のお嬢様、エレナのことを信用しているわけでも、恩義や忠義があるとかでもない。
どちらかというと、無理やり連行された時は、行く場所もないし、自分で食べていける環境を与えてくれるというからここにとどまっただけだ。
相手は提案するだけで強制するつもりはないようなので、嫌だと思ったら逃げたらいい。それくらいの気持ちだった。
いや、正直、ベアティが怖く、インドラという女性も同じ種族であるはずなのに得体の知れなさもあって逆らえなかったのもある。
彼らのエレナへの忠義? 愛情? は度を超えており、そんな彼らが崇拝してやまないエレナの提案を拒むと何をされるのかわからない怖さがあった。
あと、エレナは普通に受け止めているが、彼らの身体能力はおかしい。
確かに、獣人は人族より身体能力が優れている。けれど、二人の動きはそれらを大幅に上回っており、普通とは違う。
ベアティに関しては獣人ではないし、でも人族にしては気配がおかしいし、やっぱりバケモノとしか思えない。
でもそれを言うと、本人ではなく今度はエレナが怒るので言わないが。
――ちょっと、今もベアティから漂う気配が不穏だし。
勘弁してくれと思いながら、ここに来た当初のことを思い出す。
両親が人族の使うおかしな魔法で囚われた瞬間から、シリルの悪夢は始まった。
強いはずの父たちがあっけなく捕まり奴隷にされ、混乱のなかお前だけはと逃されたが、子供一人で生き延びるのは大変だった。
周囲の様子をうかがいながら食料を盗み、話に聞き耳を立て、いつ両親たちを奴隷にしたヤツらに見つかるかもしれないと、戦々恐々としながら身を隠すように移動する毎日。
自暴自棄になりかけたがなんとか身を売らずにランドール子爵領までたどり着き、結局盗みをして生計を立てる日々を暮らしていた。
そんな中、財布を盗むことに失敗し、あまりにもあっさり捕まり身体を洗えと言われた時は精一杯抵抗したが、あっけなくベアティに連行された。
自分の色が目立ち、悪いヤツに目をつけられるとろくなことにならないと身を持って知ったシリルは、わざと身体を汚し目立たせないようにしていた。
身を守る術を奪われる恐怖に叫び散らしたが、それらをすべて無視された。
バスルームにつくと容赦なく湯をかけられ、すごまれた。硬直すると、屈みこんだベアティに耳元でささやかれる。
「おい。いい加減にしろよ。手間かけさせるならこのまま放り出してもいいんだぞ。お前にどのような考えがあろうが、こっちは関係ないからな。命の危険があるわけではないのに、嫌だばかりじゃわかんないだろうが。主張があるならまずそれなりにしろ。抵抗することが悪いこととは言わないが、状況把握はしっかりしろよ」
「……ごめん、なさい」
低くあまりにもゆったりと告げられ、シリルは本能的にこいつを怒らせたら狩られると恐怖した。
声を荒げられたわけじゃないのに、ちびるかと思った。
すでにベアティから逃げられないことは身を持って知っており、抵抗しても意味がないことはわかっている。
それと同時に、その声はやけに説得力があった。
言葉は厳しいが正しくもあって、確かに洗われても死ぬわけではないし、すでに捕まって逃げられない状態なのは変わらない。
外に出たらまた汚したらいいのだから、今は言うことを聞くしかないと気持ちを切り替える。
大人しくなったシリルをベアティは無言で洗う。
汚れが落ちていくのを眺めながら、少しずつ冷静になる。
――しゃべったと思ったら、今度は無言。
さっきの長文はなんだったのか。無言も無言で威圧感はあるが、あの長文もよく考えたら恐ろしい。
だが、シリルを洗うその手は優しく、たった少しのやり取りと実力で抵抗しなければ傷つけられることはないとわからせられた。
一言くらい発してくれたらいいのに、視線で促されるまま手を上げ、目を瞑る。
得体の知れない異様さに徐々にしっぽが内側に隠れていくが、自分ではどうすることもできない。持ち前の気配察知で相手の要望を汲んで動いていく。
綺麗になると、タオルを無言で渡された。自分で拭けということらしく、シリルはそれに従う。
シリルが従順になったのを、腕を組みながら観察していたベアティがようやく口を開く。
「お前、エレナ様のことをどう思った?」
「ちょ……、たぶん、一度関わったら簡単に見捨てられない優しい人だとは思う」
ちょろいと言いかけて、じっと視線を向けられ慌てて言い換える。
実際、隙が多くてちょろそうだと思ったから狙った。
そして、簡単に捕まったのは誤算だったが、やっぱりちょろかった。
隙だらけなうえにあっさりと盗みを働いたシリルを許し、手を差し伸べたことからも情に訴えたら切り捨てられない人物だ。
ただ、誰彼構わず受け入れるわけでもなさそうでその辺は見極めてはいるようだが、許容範囲だと判断されればその懐に入るのはそう難しくないと思われた。
ひとまず実験台になってもらおうかしら、なんて言いながらふふふっと笑っていたけれど、少し経ってから彼女が悪ぶろうしていたのだと気づいたが、普通に可愛いだけだった。
スリをしたことと、悪態ついたことのお仕置きのつもりのようだったけど、すでにシリルを許そうという気配が伝わってきて少しも怖くなかった。
計算しているようだが、基本お人好しなのだろう。
自分が甘いことを認識しているようだが、それをそこまで悪いと思っていない。そういうころが、シリルのような者にとっては隙となる。
エレナを貶さなければ怒られることはないだろうと、正直な気持ちを話すとベアティは口の端を上げた。
「そうか」
そこで気づく。
これだけの身体能力の持ち主が、本当に自分がスリを行うまで本当に気づかなかったのか。
大事なエレナのそばに、こんな子供を近づくことを許すのか。
「もしかして、気づいて?」
シリルが訊ねると、よくできましたとばかりに頭に乗せたタオルで乱暴にがしがしと拭かれた。




