第95話 彼女の本当の名
グリザイユでの日々が始まってから、幾日が過ぎた。
僕たち『契りの円環』は今、辺境伯家が管理する『魔の大森林』中層の、昏い緑の奥深くに身を置いていた。
ガサ、ガサッ!
前方の鬱蒼とした茂みが二箇所で大きく爆ぜ、つがいであろう二体の巨大な魔物が姿を現す。
奴らの名は、『グリフ・ホーンベア』
王国の北部を東西に貫くこの大森林は、地域によってその生態系を変える。目の前の巨獣もまた、リヨン周辺では決して見ることのなかった、魔物の一種だった。
三メテルを優に超える身の丈。
分厚い脂肪と硬い体毛に覆われたその巨躯からは、捻じくれた二本の角が、天を穿つ槍のように鋭く伸びている。
「ミゲルさんは右の一体を、僕は左! マリーさんは牽制射。アンリエッタさんは後方で支援を、魔力を温存しつつお願いします!」
僕の指示が飛ぶと同時、ミゲルさんが銀の盾を構えて一歩前へ。その刹那、マリーさんの放った矢が風を切り、一体のグリフ・ホーンベアの肉厚な肩に深々と突き刺さった。
ガオオオオッ!!
森の空気を震わせる双つの咆哮。
大地を揺らし、獲物を粉砕せんとばかりに突進してくるその質量は、まさに暴走する巨塊だ。まともに受ければ、骨の一本も残らないだろう。
けど、僕の背後には『彼女』がいる。
アンリエッタさんが銀環杖を静かに地面へと突き立てる。魔力収束の余波で、夜空色のシュールコーの裾がふわりと舞い上がった。
彼女の薄い唇から、あの時と同じ、清らかな祈りのような言葉が紡がれる。
「ハルフィンデルの名において願う。汝、地に根差す全ての同胞よ。不浄なる者を捕らえ、清浄なる茨の鎖にて戒め給え【ヴェルデ・カジェル】」
詠唱の終わりと共に、突進してくる二体の巨獣の足元から無数の蔦が爆発的に伸び上がり、その巨体を強引に絡めとった。
凄まじい勢いにあった巨獣たちは、逃れられぬ『檻』に足を掬われ、前のめりに崩れ落ちる。
その、あまりにも美しい、森の拘束魔法。
僕たちは『翠緑の檻』が作り出す好機を、見逃さない。
「今です!」「承知!」
差し込む陽光を反射して、二本の剣が鋭く煌めく。
棘の蔦に縛られた巨獣の、僅かな隙間。そこを僕たちの刃が寸分の狂いもなく貫いた。喉元と腹部。急所を抉られた二体は、抵抗の術さえなく沈んでいく。
アンリエッタさんが敵を無力化し、僕たちが『剣』としてトドメを刺す。マリーさんが『遊撃手』として戦場を俯瞰し、死角を埋める。
時にはこの『遊撃手』の役目を、女性陣で入れ替わることも。
この恐ろしいほどに滑らかで、美しい連携。
……僕たちは、もしかすると最高のパーティーになれるのかもしれない。そんな確信に近い予感が、胸を熱くさせる。
けれど同時に、僕の心には小さな疑問が芽生えていた。
彼女が詠唱の際に口にする、『ハルフィンデル』。
それは一体、誰の名前なのだろうか。。
断末魔が森に木霊し、森に再び静寂が訪れる。
足元には、重なり合って絶命した二体のグリフ・ホーンベア。
雄の個体からは、四十センテほどもある見事な螺旋角が一対。雌の角もまた、小ぶりながら気品のある形をしていた。
今回の狩りは、文句なしの大成功と言えるだろう。
「……立派だけど、こいつを持ち帰るのは骨が折れそうね」
マリーさんが弓の弭で角をこんこんと叩きながら、苦笑を漏らす。
彼女の言う通りだった。この巨大な角を二組も背負えば、僕たちの荷袋はそれだけで限界を迎えてしまう。
「……仕方ありませんね。一度グリザイユへ戻り、成果を換金しましょうか」
僕の提案に、皆が晴れやかな顔で頷いている。
僕たちは、森を元来た通りに戻り始める。
グリザイユ近郊に広がる魔の大森林は、リヨンのそれとは明らかに様相が違うようで。遠くの連峰から注ぐ幾多の支流が、血管のように森を潤している。
僕たちは清らかなせせらぎの一つを見つけると、そこで短い休息を取ることにした。
「やはり、魔道袋が必要ですね」
アンリエッタさんが、地面に置かれた重い螺旋角が入った袋と、僕たちの有り丈の荷物を見比べながら、ぽつりと呟く。
「装備と野営道具、それに戦利品が加わると。……今の僕たちでは、精々二日が限界でしょうか」
「左様。我々には、軍と違い輜重を担う後詰めがおりませから。四人分の食料だけでも馬鹿になりません」
ミゲルさんの現実的な指摘に、マリーさんも深く頷く。
「本当にそうね。……私たちの次なる標的は、魔道袋に決まりかしら」
図らずも、パーティーの新たな目標が一つ定まった。
それから、しばらく。
アンリエッタさんが清流で杖を濡らし、魔物の返り血をそっと洗い流している。
木漏れ日が水面に跳ね、彼女を美しく縁取るその光景に見惚れているうちに、僕は胸に抱いていた素朴な疑問を、つい口に出してしまっていた。
「アンリエッタさん。魔法の詠唱でたまに聞こえる『ハルフィンデル』って、どなたの名前なんですか?」
彼女の手が、ぴたりと止まる。
驚いたように見開かれた青金石の瞳が僕を捉え、次の瞬間、どこか遠い場所を懐かしむような、寂しげな微笑みに変わった。
そして次の瞬間、どこか遠くを懐かしむように、けれど少しだけ寂しげに微笑むんだ。
「……名字のようなもの、と言えば分かりやすいでしょうか。フィンデルの里に住む『ハルフィンデルの一族』、という意味なのです」
「じゃあ、アンリエッタ・ハルフィンデル、というのが本当の名前なの?」
僕は思わず身を乗り出していた。
彼女の知らない過去、その一端に触れられるかもしれない。
自然と高鳴る胸。弾むような鼓動。けれど、彼女は困ったように否定を込めて、首を振ってしまう。
「いえ、森人の名前は、人族の皆さんが思うよりも、ずっと長く、重いものなのです」
「長くてもいい。どうか、聞かせてくれないかな?」
僕の、子供のように無邪気で……それゆえに酷く残酷な懇願。
彼女の表情から、ふっと光が消えてしまった。
射抜かれたのは、どこまでも深い哀しみを湛えた瞳。嫌な予感に、胸が軋むように痛み始める。
「……森人の長い名の中には、『真名』と呼ばれる部分があります。それは産んでくれた両親と、里の長。そして──」
彼女はそこで一度言葉を切り、震える唇で、その境界線を口にした。
「──生涯を共にする伴侶にしか明かすことを許されない、魂の名前なのです」
「……ごめんなさい」
その、消え入りそうな謝罪。
伴侶、にしか。
その一言が、鉛のような重さで僕の胸に圧し掛かった。
舞い上がっていた心が急速に凍り付いていく。僕が望んだ「名前」は、まだ僕の手の届かない、聖域の奥深くに隠されたものだった。
泣き出しそうな彼女の顔。
その原因が、よりによって僕だなんて。
そうか。僕はまだ……その名前を聞く資格すら、ないんだね。
僕たちの間に、かつてないほど重く冷たい沈黙が降りた。
いつもなら軽口で場を和ませるマリーさんも唇を固く結び、ミゲルさんは巌のような横顔で沈黙を守っている。
誰も、その断絶を埋める言葉を持たなかった。
その日の夜。
しん、と静まり返った宿の一室。灯具の仄かな揺らめきが、僕たちの影を壁に長く、不吉に引き伸ばしていた。
昨夜のあの、甘く温かな空気は、どこへ消えてしまったのだろう。
灯りの中で視線を交わし、微睡みに身を委ねたあの夜は、全て幻だったのか。
今、僕の目に映るのは、マリーさんの方へと体を向け、掛け布にくるまった彼女の、あまりにも小さな後ろ姿だけ。
その華奢な肩が、時折、微かに震えているように見えて……僕はもう、どうしていいか分からない。
僕は、何を間違えてしまったのか。
僕には、一体何が足りないのか。
誰か、教えてくれ。
声にならない問いかけは、部屋の凍てつくような沈黙の中へと、ただ虚しく、吸い込まれて消えていった。




